35話 女神と冥王の契約
上層階 ヘラの間――
静寂を裂くように、厚い扉が軋んだ。
黄金の装飾が施された広間に、重く冷たい空気が流れ込む。
その中心――女神ヘラは白い玉座に腰を掛け、冷ややかに報告を聞いていた。
「ヘラ様、申し訳ございません。邪魔が入り、
レダの最後を見届けることができませんでした。
ですが、世界樹に異変が起きている以上、それも時間の問題かと」
報告を終えたアルプの声がかすかに震えていた。
ヘラが、肘掛を指先でコツコツと叩く音が響く。
「そう……仕方ないわね」
やがて彼女はゆるやかに立ち上がり、長いマントを翻す。
窓の外の夕闇は、雲が燃えるように紅く染まる。
「まぁ、いいわ。まだ手は残っているもの」
窓越しの風が彼女の金髪を揺らす。
その瞳の奥には、静かだが確かな炎が宿っていた。
(――オピオタウロスを討って、力を奪うはずだったのに。
ゼウスがまたしても邪魔をした。あの男……いつも私の前に立ちはだかる。
けれど、今回は違う。ニーズヘッグの封印はハデスに委ねられている。
冥王が相手では、ゼウスも容易には介入できない。
それに――)
彼女の唇は、薄い笑みが浮かぶ。
脳裏に、あの夜の記憶がよみがえる。
ヘラが“冥王”を呼び出したときの光景だった。
* * *
ヘラの間の中央で、ハデスが腕を組んで立っていた。
彼の背後には、青黒い冥界のオーラが漂っていた。
「ヘラよ、わざわざ上層階に呼びつけて、我に何の用があるというのだ」
低く響く声に、ヘラは微笑を浮かべた。
「あなたに、手伝ってほしいことがあるの」
「手伝いだと?」
ハデスの眉がわずかに動く。
「そう。一つは、ニーズヘッグに封印を施してほしい。
そしてもう一つは……クロノスの解放よ」
その名を聞いた瞬間、場の空気が一気に重く沈んだ。
ハデスの表情がわずかに強張り、瞳の奥に怒りと警戒が宿る。
「……封印にクロノスだと? 一体何のために……」
「それは、あなたが知る必要はないわ」
ヘラの声は、冷たくも甘やかだった。
まるで毒を含んだ蜜のように、静かにハデスの心へと染みていく。
「お前は、世界をどうする気だ……?」
「どうもしないわ」
ヘラは一歩、彼に近づく。
「ただ、協力してほしいだけ。ねぇ、断ったりしないわよね?」
「……もし断ったら?」
ヘラの笑みが深くなる。
その瞬間、彼女の杖の先から淡い光が揺らめいた。
それは“記録の魔法陣”。
ハデスだけが知る、ある“過去”を映し出すものだった。
「あなたの“秘密”を、すべてゼウスに話す。
どうなるか……分かってるでしょう?」
沈黙。
ハデスの拳がわずかに震える。
その眼差しには怒りよりも、深い後悔が滲んでいた。
「……貴様。私を利用するつもりか」
「どうとでも言いなさい」
ヘラは背を向け、窓辺に歩く。
「弱みを握られた己を恥じることね。あなたの選択は、もう決まっているのだから」
「……くっ」
ハデスは、歯を食いしばる。
そして低く、諦めたように言葉を落とす。
「……わかった。やればいいんだろう」
ヘラは微笑んだ。
「そう、それでいいの。早ければ早いほどいいわ。
――“時”は、私の味方をしているのだから」
* * *
思い返した後、我に戻ったヘラは再び窓の外を見下ろしていた。
(ハデスは私を恨むでしょうね。でも、構わない。
クロノスの復活さえ果たせば、世界の理は“私のもの”になる)
その眼差しは、もはや“女神”ではなかった。
愛と嫉妬の神ヘラではなく、“支配者”の顔。
やがて、背後の暗がりから黒い影が現れた。
その声は、低く、冷たく、どこか懐かしい響きを持っていた。
「……見事なものだ、ヘラ。
お前は、己の憎しみすら利用する」
ヘラの唇がわずかに弧を描く。
「あなたが言うの? クロノス」
闇の中から伸びた手が、薄く光をまとっていた。
炎の揺らめきも、風の音も、すべてが凍りつく。
「取引の時だ、女神よ」
クロノスの声が、ヘラの耳元で囁いた。
「――タルタロスから救い出してくれたそなたに、
お前の望む世界を見せてやろう」
「ふふふ。それは、楽しみね」
「そうだ、面白い助っ人を紹介しよう」
その姿は、グラデーションがかったピンクベージュの髪に、
透き通るようなグリーンの瞳……。
「なっ……。一体これはどういうことだ?」
「フハハハ!そう、慌てるな。どうだ、ヘラ。彼女によく似ているであろう?」
「似ている……?では、この者は一体」
「まぁ、楽しんで見物してるがよい。いずれわかる……」
そう言い残して、彼女とクロノスは闇の中に消えていった。




