35話 女神と冥王の契約
―上層階 ヘラの間―
静寂を裂くように、厚い扉が軋んだ。
黄金の装飾が施された広間に、重く冷たい空気が流れ込む。
その中心――女神ヘラは白い玉座に腰を掛け、冷ややかに報告を聞いていた。
「ヘラ様、申し訳ございません。邪魔が入り、レダ様の最後を見届けることができませんでした。
ですが、世界樹に異変が起きている以上、それも時間の問題かと」
報告を終えたアルプの声がかすかに震えていた。
ヘラが、肘掛を指先でコツコツと叩く音が響く。
「そう……仕方ないわね」
やがて彼女はゆるやかに立ち上がり、長いマントを翻す。
窓の外の夕闇のは、雲が燃えるように紅く染まる。
「まぁ、いいわ。まだ手は残っているもの」
窓越しの風が彼女の金髪を揺らす。
その瞳の奥には、静かだが確かな炎が宿っていた。
(――オピオタウロスを討って、力を奪うはずだったのに。
ゼウスがまたしても邪魔をした。あの男……いつも私の前に立ちはだかる。
けれど、今回は違う。ニーズヘッグの封印はハデスに委ねられている。
冥王が相手では、ゼウスも容易には介入できない。
それに――)
彼女の唇に、薄い笑みが浮かぶ。
脳裏に蘇るのは、あの夜。
ヘラが“冥界の王”を呼び出したときの光景だった。
――――――――――――
ヘラの間の中央で、ハデスが腕を組んで立っていた。
彼の背後には、青黒い冥界のオーラが漂っていた。
「ヘラよ、わざわざ上層階に呼びつけて、我に何の用があるというのだ」
低く響く声に、ヘラは微笑を浮かべた。
「あなたに、手伝って欲しいことがあるの」
「手伝いだと?」
ハデスの眉がわずかに動く。
「そう。一つは、ニーズヘッグに封印を施してほしい。
そしてもう一つは……クロノスの解放よ」
その名を聞いた瞬間、空気が張り詰めた。
ハデスの表情がわずかに強張り、瞳の奥に怒りと警戒が宿る。
「……封印にクロノスだと? 一体何のために……」
「それは、あなたが知る必要はないわ」
ヘラの声は、冷たくも甘やかだった。
まるで毒を含んだ蜜のように、静かにハデスの心へと染みていく。
「お前は、世界をどうする気だ……?」
「どうもしないわ」
ヘラは一歩、彼に近づく。
「ただ、協力してほしいだけ。ねぇ、断ったりしないわよね?」
「……もし断ったら?」
ヘラの笑みが深くなる。
その瞬間、彼女の杖の先から淡い光が揺らめいた。
それは“記録の魔法陣”。
ハデスだけが知る、ある“過去”を映し出すものだった。
「あなたの“秘密”を、すべてゼウスに話す。
どうなるか……分かってるでしょう?」
沈黙。
ハデスの拳がわずかに震える。
その眼差しには怒りよりも、深い後悔が滲んでいた。
「……貴様。私を利用するつもりか」
「どうとでも言いなさい」
ヘラは背を向け、窓辺に歩く。
「弱みを握られた己を恥じることね。あなたの選択は、もう決まっているのだから」
「……くっ」
ハデスの歯が軋む音が響いた。
そして低く、諦めたように言葉を落とす。
「……わかった。やればいいんだろう」
ヘラは微笑んだ。
「そう、それでいいの。早ければ早いほどいいわ。
――“時”は、私の味方をしているのだから」
――――――――――――
思い返した後、我に戻ったヘラは再び窓の外を見下ろしていた。
(ハデスは私を恨むでしょうね。でも、構わない。
クロノスの復活さえ果たせば、世界の理は“私のもの”になる)
その眼差しは、もはや“女神”ではなかった。
愛と嫉妬の神ヘラではなく、“支配者”の顔。
やがて、背後の暗がりから黒い影が現れた。
その声は、低く、冷たく、どこか懐かしい響きを持っていた。
「……見事なものだ、ヘラ。
お前は、己の憎しみすら利用する」
ヘラの唇がわずかに弧を描く。
「あなたが言うの? クロノス」
闇の中から伸びた手が、薄く光をまとっていた。
炎の揺らめきも、風の音も、すべてが凍りつく。
「取引の時だ、女神よ」
クロノスの声が、ヘラの耳元で囁いた。
「――タルタロスから救い出してくれたそなたに、お前の望む世界を、見せてやろう」
「ふふふ。それは、楽しみね」
「そうだ、面白い助っ人を紹介しよう」
その姿は、グラデーションがかったピンク色の神に透き通るようなグリーンの瞳……。
「なっ……。一体これはどういうことだ?」
「フハハハ!そう、慌てるな。どうだ、ヘラ。彼女によく似ているであろう?」
「似ている……?では、この者は一体」
「まぁ、楽しんで見物してるがよい。いずれわかる……」
そう言い残して、彼女とクロノスは闇夜に消えていった。




