23話 影に潜む黒い牙
いつしか、アルプが扮したケット・シーの“ミスト”は、レダに気に入られるようになっていた。
レダの警戒心は、もはやほとんど存在しないと言っても過言ではなかった。
その無防備さを見たミストの紅玉の瞳が、ひそやかに光を帯びる。
(面白いように順調だ…)
屋敷の中、月光に照らされた影が長く伸びる。
ミストは柔らかく尻尾を揺らしながら、表向きは穏やかな旅猫の顔を作る。
しかしその内心には、ヘラの命を果たすための冷徹な計算が巡っていた。
(そろそろ、計画を勧めよう…)
夜も更け、屋敷は月光に包まれた静寂の中にあった。
白い壁に差し込む月明りは床に長く影を落とし、ランプの淡い揺らぎと混ざり合って幻想的な光景を作り出す。
レダは日課の湯あみに向かうため、浴室へと歩を進める。
かすかな風がカーテンを揺らし、たち込める温かい湯気と夜の匂いが屋敷内を満たす。
一日の疲れを肌で感じている、レダの湯あみを手伝いながらミストは、そっと手を差し伸べた。
「夜は冷えますね。こちらをどうぞ、レダ様」
ミストの手には、温かく整えられた肌着がある。
肌触りは柔らかく、光に淡く反射する繊維に包まれると、心までほっとするような感触だ。
だが、その肌着にはミストが巧みに混ぜ込んだ微量の毒が仕込まれていた。
匂いも色もなく、触れてもまったく違和感はない。
レダは無邪気に微笑み、肌着を受け取る。
「ありがとう、ミスト。こうしてくれると本当に助かるわ」
フィロラはその様子を横目で見守る。最初こそ警戒を緩めず、鋭い視線をミストに向けていたが、日々のレダの無邪気な優しさを目の当たりにするうち、徐々に警戒心が和らいでいった。
「……特に悪意はなさそうね……」
そう心の中で呟き、羽音を小さくして、屋敷の仕事に戻る。
それでも、どこか胸の奥に小さな不安が残る。
ミストの紅玉の瞳は冷たく光り、計画の進行を確信する。
(ふ……レダの無防備さと、守る者の油断。これほど順調にことが運ぶとは……)
レダは湯あみを終え、温かい湯気の中で肌着を身にまとい、体を温める。
柔らかな生地が肌に触れるたび、心まで温かく感じる。
ミストはその傍らに座り、穏やかな声でささやく。
「体を冷やさぬよう、ゆっくり休んでくださいね」
フィロラはまだ薄く不安を覚えていたが、安心しきったレダの様子を見ると、声をかけることもできずに距離を置く。
(……でも、何かがおかしいような……)
屋敷には月光が差し込み、白い壁に長い影を落とす。ミストの動作は静かで自然、献身的な猫の姿を演じる。だが、手元で仕込んだ毒は、肌に触れるだけでゆっくりと作用を始めていた。
(やがて……この優しい女も、私の手の中で静かに崩れるのだ。ヘラ様、もう少しご辛抱を……)
翌日、レダは微かな疲労を感じながらも普段通り屋敷の仕事をこなす。
肌着から作用する毒は少量であるため、すぐに症状は出ない。しかし体の奥で確実に力を奪い、徐々に倦怠感と眠気を増していく。
ミストは傍らで優雅に尾を揺らしながら、甘くささやく。
「少し休んで……無理をなさらないで」
フィロラは気づきたくないと心の中で葛藤する。
「……怪しい、何かがおかしい。でも、レダ様が安心している……」
こうして、守る者の目も、徐々に油断に染まっていく。
夜の屋敷に漂う静かな空気。
ミストの紅玉の瞳は冷たく光り、心の奥で微笑む。
(優しさの中に隠れた命は、静かに蝕まれていく……)
レダはまだその危険に気づかず、肌着に包まれた体の温もりに安堵し、眠りに身を委ねる。
フィロラの警戒心は、日々の小さな安心に引きずられて緩み、わずかに油断が生まれる。
ミストはその様子を見守りつつ、計画の次の段階を静かに思い描く__。
こうして、月光に包まれた屋敷で、優しさと無防備さに隠された陰謀は、着実に進行していった。




