21話 黒猫の微笑
アルプは、月光の森――ルナフォレストに降り立った。
昼間は濃い霧に覆われ、どこまでも続く木々の迷路。
ほんの一歩、足を踏み外せば崖か沼かも分からないほど視界は悪い。
しかし夜になると、霧がゆっくりと晴れ、枝葉の隙間から淡い銀の光が差し込む。
月光が湖面を照らし、静かな風が花々を揺らすその光景は、まるで夢と現実の境を歩くようだった。
その奥に、小さな王国――ケット・シーの国・セレネア王国が姿を現す。
森と共に息づく月の民たちの国。
ひんやりとした空気の中、家々の窓からはオレンジ色の光が漏れ、
機織りの音、子どもの笑い声、染色用の水音が穏やかに響いていた。
月光に照らされた畑には、青白く光る花が咲き誇っている。
妖精たちは羽音をたてながら花を摘み取り、井戸で清めた水で染め、魔法で布を乾かす。
布には緻密な刺繍が施され、その肌触りは絹より滑らか。
完成した布は神々への献上品にもなるという。
アルプはその光景を一瞥し、薄く笑った。
「美しい――けれど、脆い。月の下で咲くものは、いつか必ず闇に呑まれる」
目的を思い出したアルプは、静かに姿を変える。
黒曜石のような毛並み、紅玉のような瞳。
一匹のケット・シーに化けると、しなやかに尻尾を揺らしながら街並みを進んだ。
(ふん……隠れていても、どの家か一目で分かるはず)
アルプの視線の先、魔力の流れが濃い一点がある。
それはまるで、夜の海に沈む宝石のような気配――レダの家だった。
市場を抜け、裏路地を進み、月光の差す石畳を渡る。
ケット・シーの見張りたちの巡回を巧みに避け、
屋根伝いに跳ね、時折影に溶けるように姿を隠す。
妖精の光がふわりと飛び交うたび、アルプは息を殺して通り過ぎた。
(……結界の魔力がここからでも感じる。間違いない)
やがて、森の外れ――月光を正面から受ける白い屋敷が現れた。
蔦の絡まる石造りの壁。
他の家々よりも古く、静かな気配をまとっている。
その屋敷こそ、エレニの母――レダの住まう場所だった。
「ここだ……」
アルプは囁くと、あえて一歩前に出て、尖った小枝を踏みつけた。
乾いた音が夜気を裂き、低くうめく声を上げる。
「うっ……!」
その声に、屋敷の二階、窓の灯が揺れる。
レダがカーテンを開けかけたところを、側にいた妖精が慌てて止めた。
「レダ様、むやみに窓を開けてはなりません!」
「でも……外から、うめき声がした気がするの」
「ならば、私が見てまいります」
妖精は外に出て、慎重に庭を見回した。
その視線の先――一匹のケット・シーが、うずくまっていた。
「どうされました?」
「あ、足を……ケガをして……」
「確かに、痛そうですね。お待ちください」
その時、レダが扉を開けて出てきた。
月明かりに照らされたその姿は、とても美しかった。
柔らかなピンク色の髪が風に揺れ、瞳には母性の温かさが宿っている。
「まあ、可哀相に……。中に入れて手当てをしましょう」
アルプは心の中で冷たく笑う。
(ふ、これがレダか……。噂通り、優しすぎる女だ)
屋敷に入ると、天井には夜行花のランプがいくつも吊るされ、
淡い光が部屋を包んでいた。
居間の中央には暖炉があり、妖精たちが忙しなく薬草を煮ている。
アルプは椅子に座り、癒しの魔法を受けた。
「これで大丈夫。傷は浅いですよ」
「温めたミルクをどうぞ。冷えた体に効きますよ」
「ありがとうございます……旅の途中でケガをしてしまい、困っていました。本当に助かりました」
「気にしなくていいのよ」
レダの声は穏やかで、まるで母親に話しかけられているような安心感があった。
しばし沈黙の後、アルプは慎重に言葉を選びながら口を開く。
「あの……良かったら、お礼に私をここで働かせてください。旅の途中の身ですが、掃除や力仕事なら得意です」
レダは驚いたように目を瞬かせた。
「まぁ……そんな、大したこともしていないのに。旅の途中ではないの?」
「旅は気ままなものです。世界を歩いて学ぶだけ。あなた様のお役に立てるなら光栄です」
レダは少し考えた後、柔らかく微笑んだ。
「なら……妖精たちの仕事を手伝ってもらいましょうか」
「喜んで」
「あなたの名前は?」
「ミストとお呼びください」
「私はレダ。よろしくね、ミスト」
その会話を聞いていた妖精のひとり――フィロラが小声で耳打ちする。
「レダ様……本当に彼女を信じて大丈夫でしょうか? 見知らぬ者ですし、何か企んでいるかもしれません。」
「心配しなくていいわ。旅の途中でケガをしていたのよ。放っておけないでしょう?」
「ですが……私の勘では、何か異質な気配を感じます。しばらくは私が見張ります」
ミストは微笑みながら頭を下げる。
「ご心配なく。私はただの旅猫です」
フィロラはため息をつき、目を細めて一歩下がる。
「……承知しました。でも、目は離しませんよ」
アルプはその視線を受け流しながら、心の中で笑う。
(面白い……この家は思ったより守りが堅い。だが、いずれ隙はできる)
夜行花の灯がゆらめく中、ミストは静かに屋敷の奥を見渡した。
(ヘラ様……レダは確かにここに。だが、容易には殺せぬ女だ)
月に照らされた森を風が静かに通り抜け、夜の陰謀を包み込んでいった――。




