111話 勝利の果実
冥界の果樹園は、異様なほど静かだった。
黒土に根を張る果樹の枝には、鈍く光る実が揺れている。
ノーラとデキマは、その一本の前に立っていた。
「……そろそろね」
ノーラが小さく呟く。
デキマは、わざとらしくため息をついた。
「困ったわねぇ。今回は、不作じゃない?」
手を伸ばし、実を確かめるふりをする。
「形も艶も、いまいちだし……」
「ええ。これじゃ、“勝利”なんて名前、付けられないわ」
二人の声は、あまりにも自然だった。
――その時、地面が震えた。
ドン……ドン……まるで山が歩くような重低音が響く。
「……来たわね」
果樹園の外縁が砕け散る。
岩と土煙を引き裂き、巨影が姿を現した。
テュポーン。
苛立ちを煮詰めた殺気が、空気を歪める。
「――モイラァ!!」
咆哮が果樹園を揺るがす。
「今すぐ、その勝利の果実を渡すのだ!!」
「テ……テュポーン!?」
ノーラは、わざと怯えた声を上げる。
「ま、待って……! 今、収穫中で……」
「今すぐ渡さなければ――」
テュポーンの尾が地面を叩き、衝撃波が走る。
「この場で、皆殺しだ」
「……わ、分かったわ」
ノーラは両手を上げ、震える声で続けた。
「落ち着いて……ね? ただし――ひとつだけにして」
「ふん……」
テュポーンは鼻で笑う。
「ひとつあれば十分だ。さぁ、よこすんだ!!」
「ノーラ!!」
デキマが叫ぶ。
「デキマ……仕方ないわ……」
ノーラは震えるふりをしながら、果実を一つもぎ取った。
その瞬間――。
「待て」
低く重い声が響き、空間が歪む。
時の狭間が裂け、一人の男が姿を現した。
「……クロノス」
テュポーンが舌打ちする。
「邪魔をするな。今は急いでいる」
「それを――食べるな」
「黙れ!!」
怒鳴り返すテュポーン。
「お前の指図など、聞くものか!」
――示し合わせたかのように、轟雷が天を裂いた。
「テュポーン!!!!」
雷光と共に、ゼウス声が鳴り響く。
「貴様の相手は、この私だろう!!」
「ゼ、ゼウス!!!!!」
テュポーンの顔が歪む。
「くっ……! 早くよこせ!!!!」
ノーラは恐る恐る――だが確実に、果実を地面へ置いた。
テュポーンは竜の頭をした手を伸ばし、それを掴み取る。
そして一息に口へ放り込んだ。
「……ふ」
嗤うテュポーン。
しかし――。
その瞬間、胸に広がったのは勝利への高揚感でも甘さでもなく、
虚無感そして――刹那無常だった。
「な、なんだ……これは……」
それは、どんな願いも叶えぬ果実。
希望を映さず、未来を拒む――無常の果実。
テュポーンの百の頭が、一斉に呻く。
「ぐ……お、おお……?」
その刹那――。
身体が重く、関節が軋む。
動かない。
まるで時間そのものに縫い留められたかのように。
「く……っ……!」
「……馬鹿が」
クロノスが冷たく呟く。
「ワシの言うことを聞かぬからだ」
「クロノス!!」
テュポーンが吼える。
「モイラめ……!」
その背後で、影が蠢く。
「今だ!」
リオの声と共に、地面から黒い鎖が立ち上がった。
「影縛り――!」
クロノスの足元を絡め取る鎖。
「な、何をする!!」
「もう、逃がさない!!」
果樹園に、戦いの幕が――確実に下りた。




