110話 運命の三女神
冥界菓子店アンダーヴェイル──
チョコレートを思わせる茶褐色の木の扉を、
メリノエは、そっと押し開けた。
甘く、どこか懐かしい香りが鼻をくすぐる。
「……冥界は、思ったより被害が少ないみたいね」
「うん……」
静かな店内に、鈴の音が小さく響いた。
「いらっしゃいませ……」
奥から現れたのは、まだ幼さの残る少女だった。
「こんにちは。あの……今日はお客ではなく、
こちらの店主様に、お会いしに来ました」
「少しお待ちください」
少女はそう言って奥へ引っ込み、
ほどなくして二人の女性を伴って戻ってくる。
「こんにちは、冥界のお嬢様方」
柔らかく微笑んだのは、
落ち着いた雰囲気の女性だった。
「私が店主のノーラ。
こちらがパティシエのデキマ。
そして――受付のモルタよ」
「私たち三人で、この店を営んでいるんだけど……
今日は、どんな御用かしら?」
メリノエは一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「実は……
テュポーンが“勝利の果実”を
狙って動いていることを、お伝えしに来ました」
「……あぁ」
ノーラが、軽く頷く。
「その件ね」
「ゼウス様から、
知らせを受けて来てくれたのでしょう?」
「はい」
すると、デキマが肩をすくめて言った。
「心配しなくて大丈夫よ」
「勝利の果実は――もう収穫済み」
「えっ……?」
メリノエとマカリアが、同時に目を見開く。
「彼らが戦っている間に、ね」
「果樹園には……
代わりに、別の実をつけておいたわ」
「そろそろ収穫に行かないと、
“偽物だ”ってバレちゃう頃合いかしら」
どこか楽しげに言うノーラに、
マカリアは思わず息を呑んだ。
「……そこまで、もう……」
「それが、私たちの仕事だもの」
ノーラは、にこりと笑う。
「知らせに来てくれて、ありがとう。
後は――私たちに、任せて」
「……はい!」
メリノエは、深く頷いた。
* * *
《メリノエです。
アンダーヴェイルのモイラと接触しました》
《勝利の果実は、すでに収穫済み。
果樹園には偽物が設置されているそうです》
《了解。メリノエ、マカリア。ご苦労様》
《二人は、アカデミーで待機していて》
《承知しました。果樹園の位置は、
魔法マップに印を付けておきました》
《助かる》
通信が切れ、メリノエは一息つく。
「父上……」
「うむ。聞いておる」
ゼウスは、低く頷いた。
「勝利の果実は、すでにこちらの手中というわけか」
「果樹園には、偽物を置いてあるそうです」
「ふむ……さすがはモイラ」
ゼウスは、わずかに口元を緩める。
「察知するのも、動くのも早い。ならば――」
その視線が、遠くを見据える。
「後は、ワシが出向くだけだな。
ストス、一緒に来てくれ。
今度こそ、あいつをタルタロスへ送り込む」
「わかりました」
ストスは、深く頷いた。
雷なき神王の瞳に、
静かな決意が宿っていた。
* * *
洞窟に、重い足音が響いた。
岩盤そのものが軋み、天井から小石が降り注ぐ。
テュポーンは、ゆっくりと洞窟の奥へ進む。
かつて、神王ゼウスが封じられていた場所。
雷の王の手足が縫い留められ、
無力を晒していた――はずの祭壇。
「……何だ、これは」
獣皮は、剥がされている。
拘束具は、砕かれ、外され――
そこにあるべき“神”の気配が、
完全に消えていた。
「……空、だと?」
空虚。
匂いも、血も、神の残滓すらない。
次の瞬間――
洞窟全体が、揺れた。
「――――――――――――――ッ!!!!」
怒号。
それは声ではなかった。
山を砕き、大地を裂く、純粋な破壊の意思。
「ゼウスゥゥゥゥゥ!!!!」
岩壁が弾け、洞窟の一部が崩落する。
「逃げたか……!
いや、逃がしたな……!」
テュポーンの視線が、鋭く背後を射抜いた。
「……デルピュネー」
闇の奥から、青白い蛇身の女神が姿を現す。
「も、申し訳ありません……!
想定よりも早く、介入が――」
「黙れ」
一言。
それだけで、デルピュネーの喉が凍りつく。
「貴様は言ったな。
“雷なき神王は、動けぬ”と」
「そ、それは……事実で……」
「では――これは何だ?」
テュポーンが、空の祭壇を指差す。
「手も、足も、本体すら消えている。
これが、貴様の言う“事実”か?」
デルピュネーの瞳が、恐怖に歪む。
「……も、申し訳……」
最後まで、言わせなかった。
次の瞬間。
グシャッ――!
テュポーンの巨大な手が、
デルピュネーの頭部を掴み、骨が砕ける。
「役立たずめ」
悲鳴は――上がらなかった。
神であろうと、命は命。
テュポーンの怒りの前では、等しく脆い。
投げ捨てられた骸が、岩壁に叩きつけられ、
動かなくなる。
洞窟に、静寂が戻った。
「……クロノス」
テュポーンは、低く唸る。
「貴様の言った通りだ。
奴らは、確実に“次”へ進んでいる」
拳を、強く握る。
「ならば――」
その口元に、凶悪な笑みが浮かんだ。
「勝利の果実を、奪うまで」
「この世界に、逃げ場は無い」
怒りは、収まらない。
それは、やがて――
世界そのものを、飲み込む。




