107話 雷なき神王
洞窟の空気が、重く沈黙していた。
エレニは、ゼウスの傍らに膝をついた。
鎖に繋がれたその身体は、神王とは思えぬほどに痩せ、血の巡りも弱々しい。
だが――
その胸は、確かに上下していた。
「……治していきますね……」
震えを抑え、エレニは告げる。
答えはない。
それでも、彼女は両手を伸ばした。
切り離され、封じられていた神の手足。
それらが、彼女の意志に応えるように、淡く光を帯びる。
雷ではない。
それは、命を繋ぐための光だった。
エレニの掌から流れ込む神力が、断たれた腱へと触れる。
軋むような感覚。
骨と肉と、神の器が、ゆっくりと――戻っていく。
「……っ」
エレニの喉から、短い息が漏れた。
指先が痺れる。
だが、止めない。
止めるわけには、いかなかった。
やがて。
ゼウスの指が、わずかに――動いた。
「……動いた……」
ジーノが、息を呑む。
神王の胸に、確かな鼓動が戻る。
血の気が、少しずつ肌へと還っていく。
だが。
雷は、宿らなかった。
ゼウスは、ゆっくりと目を開く。
「……ふ……」
掠れた声。
それでも、確かな意識だった。
「……何とか繋がったな……」
自嘲気味な微笑が浮かぶ。
「だが……神としては、まだ――空だ」
エレニは、唇を噛みしめる。
「ごめんなさい……」
「謝るな」
ゼウスは、かすかに首を振った。
「……十分だ……」
その時だった。
洞窟の奥で、低く――空気が鳴った。
岩壁に刻まれた封印紋が、わずかに軋む。
「……?」
アイアスが、眉をひそめる。
杖の光が、揺らいだかと思うと、自然に整った。
誰が触れたわけでもない。
それでも、空間が“正された”ような感覚。
ゼウスが、ゆっくりと息を吸う。
「力が……戻ってきている……」
その声には、先ほどまでなかった重みがあった。
威圧ではない。
命令でもない。
ただ、そこに“王が在る”という感覚。
エレニは、はっとする。
(……世界が、聞いてる)
世界樹の方向から、微かな振動が伝わってきた。
遠く、けれど確かな応答。
ゼウスは、まだ立ち上がらない。
立ち上がれない。
だが――
彼の存在は、すでに洞窟の中心だった。
「……エレニ」
名を呼ばれ、彼女は顔を上げる。
「無理をするな」
「……はい」
その一言で、十分だった。
ゼウスは、生きている。
神王は、戻りつつある。
だが。
雷霆は、まだ――眠ったままだ。
* * *
デルピュネーは、岩壁を蹴り、獲物を追っていた。
「逃がすものか……!」
尾が岩を削り、火花が散る。
奪われたはずの“神の手足”。
それを囮にされていると知りつつも、視線はどうしても離せなかった。
――奪われてはならない。
――返してはならない。
それが、主より課された絶対だった。
その時。
胸の奥で、何かが――ずれた。
「……?」
足が、止まる。
追っていた影が、闇に溶けるのも構わず、デルピュネーは顔を上げた。
洞窟の空気が、変わっている。
湿り気も、重さも同じ。
だが――“流れ”が違う。
「……まさか」
喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
彼女は、ゆっくりと瞳を細める。
封牢に満ちていた、あの感覚。
神を削り、弱らせ、閉じ込めるための――
鈍く、澱んだ気配が。
薄れている。
「……触れたな」
否。
触れただけではない。
繋ぎ直している。
デルピュネーの背に、ざわりと逆鱗が走る。
「癒し……?
いや……これは……」
思い出す。
雷霆の王が、まだ完全に砕かれる前の、あの存在感。
力ではない。
威圧でもない。
ただ、そこに在るだけで、世界が従う感覚。
「……生きているだけで、厄介な男を……!」
その名を、デルピュネーは忌々しげに噛み潰す。
「……チッ」
尾が、苛立ちを叩きつけるように地面を打つ。
「囮か」
ようやく、理解した。
偽物の手足。
幻影。
追わせるための餌。
――本命は、最初から側にいた。
「……小賢しい」
だが。
唇が、歪む。
「だが、遅い」
デルピュネーは、ゆっくりと身を翻した。
追撃をやめ、狩りを切り替える。
「神王が戻る前に――」
爪が、岩を抉る。
「今度こそ、完全に沈めてやる」
洞窟へ彼女は、確実に――戻り始めていた。




