106話 作戦開始!
世界樹の影を離れると、空気が変わった。
湿り気を帯びた風。
土と岩の匂い。
そして――わずかに混じる、異質な気配。
「……ここから先だ」
ヘルメスが低く告げる。
崖の中腹。
岩肌が裂けたように口を開ける洞窟が、そこにあった。
コーリュキオン洞窟。
神すら閉じ込める――封牢。
内部は闇に沈み、奥行きすら測れない。
「ここが……」
エレニは、無意識に息を整えた。
胸の奥が、ざわつく。
(……お父様が、ここに)
視線を逸らしかけた、その時。
「――配置につけ」
アイアスの声が、通信機を通して届く。
短く、迷いのない命令だった。
作戦は、すでに始まっている。
* * *
洞窟の外。
岩陰に身を潜めながら、リオ、メリノエ、マカリアが偽物の“手足”を抱えていた。
呪符と幻術で作られたそれは、本物と見紛うほどの存在感を放っている。
「……気味悪い」
マカリアが小さく呟く。
「でも、これが鍵よ」
ヘルメスは、冷静だった。
「デルピュネーは、“奪われたもの”に強く反応する」
「行きましょう」
リオが頷く。
ヘルメスが、洞窟入口から足を踏み入れ叫んだ。
「デルピュネー、居るんだろ?」
影が、揺れた。
ズ……ズズ……ズズ……。
洞窟の奥から、地面を引きずるような音が近づく。
すると、上半身は女性、下半身が竜の姿をした半獣が現れた。
鋭い目でヘルメスを睨みつける。
「何しに来た!」
「へっ。決まってるだろ、良い物がここに隠してあるって聞いてさ」
「これの事じゃないかなーっと思って」
デルピュネーは、リオ達が手にしている偽物の手足を目にする。
「お前ら!! 誰の指図で、それを守ってると思う! 絶対に、渡さぬ!!」
デルピュネーが、ヘルメス達を追いかけた。
ズ……ズズ……ズギギ……。
岩を引きずる音。
低く、湿った息遣い。
洞窟の入口に張りつめていた“気配”が、
確かに――離れた。
リオ、メリノエ、マカリアの姿が、闇に溶ける。
――影渡。
気配も、足音も残さず、
彼女たちは別方向へと消えていった。
《今だ。侵入開始》
周囲を警戒しながら、ディオが合図を送った。
《了解》
アイアスが答えた。
エレニはシルベアを抱え直す。
小さな身体が、震えていた。
「……大丈夫。一緒に行こう」
囁くと、シルベアは小さく鳴いた。
「エレニ、俺の後ろを離れるな」
アイアスが前に出る。
「俺とジーノで、前方警戒だ」
「了解」
「……行くぞ」
一歩。
また一歩。
闇が、彼女たちを呑み込んでいく。
光は、背後で細くなり。
空気は、重くなる。
足音が、洞窟の壁に反響する。
――戻れない。
だが。
進まなければ、何も取り戻せない。
エレニは、胸の奥で強く念じた。
(待っていて……お父様)
その祈りを、
闇だけが、静かに受け止めていた。
洞窟の内部は、想像以上に深かった。
光源となる魔導灯は、岩壁に吸われるように弱まっていく。
湿った空気が肺に絡みつき、足音だけがやけに大きく反響する。
「……妙だな」
ジーノが、声を潜めて言った。
「洞窟っていうより……中身が“組み替えられてる”感じがする」
「テュポーンの力ね」
エレニが、低く答える。
「ここはただの洞窟じゃない。
“神を閉じ込めるための場所”になってる」
その言葉どおりだった。
通路は途中でねじ曲がり、
天井は不自然な角度で迫り、
床には古い紋様――拘束と封印の魔術式が、岩に溶け込むように刻まれている。
「……待って」
エレニが、足を止めた。
「何か、感じる?」
アイアスが、すぐに前へ出る。
「いや……音も気配もない……でも、ある」
胸の奥が、微かに熱を帯びていた。
懐かしい雷の残滓。
強く、優しく、そして――今は弱々しい。
(……近い)
エレニは、導かれるように左の通路へ進む。
やがて。
洞窟の壁際に、不自然なものが見えた。
「……あれは」
獣の皮。
岩に打ち付けられるようにして、
何かを包んだまま、封印具で固定されている。
その中から、微弱だが確かな神気が漏れていた。
「……手だ」
ジーノが、息を呑む。
「ゼウス様の……」
「間違いない」
エレニは、震える手で近づく。
皮に触れた瞬間、
びりっと雷の残響が指先を弾いた。
「……っ」
「エレニ!」
「大丈夫……」
歯を食いしばり、呪符を剥がす。
獣の皮が、ゆっくりと緩み――
中から現れたのは、
雷を失い、血の気のない神王の手だった。
それでも、
その指は、微かに――生きている。
「……生きてる」
エレニの声が、震える。
「お父様は……生きてる……!」
「急げ」
アイアスが、低く言う。
「残りを探す」
洞窟の奥。
さらに深く進むと、同じように封じられた熊の皮が、
三つ――いや、四つ。
両足。
そして、もう一方の腕。
それらは、まるで“分断された神性”のように、
洞窟の各所へ配置されていた。
「……徹底してる」
ジーノが、唸る。
「戻る場所を、完全に奪う気だ」
「でも――」
エレニは、すべてを見回す。
「……全部、見つけた」
最後の封印を解いた、その先。
洞窟は、広い空洞へと繋がっていた。
天井は高く、
中央には、石の祭壇のようなものがある。
そこに――
「……お父様……」
横たわる、ひとりの神。
雷霆を失い、
鎖に繋がれ、
かつて世界を支配した威厳は影を潜めていた。
だが。
その姿は、紛れもなく――ゼウスだった。
「……エレニ……?」
掠れた声。
それでも、確かに娘の名を呼んだ。
「……っ」
エレニは、走り出していた。
膝をつき、そっと、その手を握る。
「……ごめんなさい」
涙が、零れ落ちる。
「私が……もっと、強ければ……」
「……馬鹿を……言うな……」
ゼウスは、かすかに笑った。
「……無事で……よかった……」
その瞬間。
洞窟の奥で、何かが――軋んだ。
時間は、残されていない。
だが。
辿り着いた。
奪われた神王は、
確かに――ここにいる。




