103話 悲報
テュポーンは、肩から伸びる竜の頭をもつ腕で
いとも簡単にガッシリと山を掴み、ゼウスに投げつける。
「く……。何てことをしやがる……」
ゼウスは、雷霆をもってそれに応戦した。
ぶつかり合うたびに、天空で砕け散り、地上へ散乱する。
距離を取れり、天を裂く雷を投じた。
雷柱が幾重にも落ち、空そのものが砕け散る。
テュポーンが接近すると――
神王は、金剛の鎌を握り締めた。
「――災厄め!退くのだ!!」
霹靂の一閃が、殷雷と共にテュポーンの巨体を切り裂く。
竜の首が焼け、翼が裂け、血が空に散った。
世界は、確かに神王の力を恐れていた。
だが。
原初の破壊神は、倒れない。
咆哮とともに踏み込み、炎と毒と暴風を同時に叩きつける。
炎と雷がぶつかり、天と地の境界が消え失せる。
激闘の末――
ゼウスは、テュポーンをカシオス山へと追い詰めた。
「ここまでだ、テュポーン!」
勝利を確信した瞬間。
――反撃は、唐突だった。
テュポーンの竜首が、同時に動く。
絡みつくような力。
「……なに……!?」
巨腕が、神王の身体を締め上げた。
雷霆が弾かれ、
金剛の鎌が、空へと弾き飛ばされる。
「王よ」
低く、嗤う声。
「お前は、“世界”に縛られすぎている」
次の瞬間。
鋭い痛みが、ゼウスの四肢を貫いた。
「――ぐああああああ!!」
手足の腱が、容赦なく断ち切られる。
雷は失われ、身体は自由を奪われた。
神王は、地へと叩き落とされる。
そして――
コーリュキオン洞窟。
闇深く、神さえも閉じ込める封牢へと、
ゼウスは投げ込まれた。
雷を失い。
鎌を失い。
自由を奪われて。
世界を守る王は――
初めて、完全な敗北を喫した。
雷は、完全に沈黙していた。
洞窟の奥――
岩肌に打ち捨てられたゼウスは、動けずにいた。
テュポーンは、その姿を見下ろす。
「……これでいい」
引き裂かれた腱。
雷霆も、金剛の鎌も、すでに奪われている。
だが――それでも。
神王は、まだ“象徴”として危険だった。
テュポーンは、地に落ちていた獣の皮を掴み上げる。
原初の獣の皮。
神々の力を封じる呪いを宿したもの。
それを、ゼウスの手足へと被せた。
絡みつくように、皮が締まり、
断たれた腱を包み隠す。
――見えぬように。
――取り戻されぬように。
「奪われた力は、忘れさせねばならぬ」
テュポーンは、洞窟の奥へと声を投げる。
「デルピュネー」
闇が、動いた。
上半身女の姿だが、下半身が竜――。
鱗に覆われた身体と、冷たい眼差し。
デルピュネーが、ゆっくりと姿を現す。
「ここを守れ」
テュポーンの命令は、短い。
「この神が、再び空を見ることはない」
デルピュネーは、無言で頷いた。
洞窟の入り口に陣取り、
鋭い爪を岩に立てる。
逃げ場はない。
助けも、届かない。
テュポーンは、背を向けた。
「傷を癒しに行く」
世界の奥――
ガイアの胎へ。
その背中を見送りながら、
洞窟には、完全な闇が落ちる。
雷神が、囚われ洞窟には、静寂が戻った。
テュポーンの気配が完全に遠ざかり、
デルピュネーが番犬のように洞口を塞ぐ。
雷はない。
風もない。
ただ、重い闇だけが支配している。
――その闇の、さらに奥。
誰にも気づかれぬ隙間に、
ひとつの影が、溶けるように存在していた。
翼を畳み、息を殺し、
時の流れに身を合わせる者。
ヘルメスだった。
(……ここまで、やるとは)
軽口も、嘲笑もない。
ただ、神使としての冷静な観察だけがあった。
彼は一部始終を見ていた。
ゼウスが締め上げられる瞬間。
雷霆と金剛の鎌が奪われる瞬間。
手足の腱が断たれ、
熊の皮で隠される、そのすべてを。
(奪うだけじゃない……
“戻れなくする”気だ)
デルピュネーが配置されるのも、
テュポーンが去るのも、
一切を、見届けた。
(これを知っているのは……
今、この場にいる、俺だけだ)
動けば、見つかる。
だが、動かなければ――世界が終わる。
ヘルメスは、ほんの一瞬だけ、
囚われた神王に視線を向けた。
(……必ず、伝える)
次の瞬間。
影が、消えた。
風にもならず、
音にもならず、
存在そのものが、抜け落ちる。
* * *
――オリンポス野営。
揺れる天幕の奥。
地図と星図を広げていたアテナの前に、
風が、突然形を持った。
「……ヘルメス?」
次の瞬間、
彼は、膝をついていた。
「報告だ」
その声は、いつになく硬い。
「神王ゼウスは――敗北した」
アテナの指が、ぴくりと止まる。
「そんなっ…………。
………それで、ゼウスは……」
「テュポーンは、雷霆と金剛の鎌を奪取。
ゼウスの手足の腱を切断し、
熊の皮で封じた」
天幕の空気が、凍る。
「現在、コーリュキオン洞窟に幽閉。
番人は、半獣の竜女デルピュネー」
沈黙。
数秒。
いや、永遠にも感じられる間。
やがて、アテナが息を吐いた。
「……最悪の事態ね」
「だが」
ヘルメスは、視線を上げる。
「救出は、不可能じゃない」
アテナの瞳が、鋭く光る。
「理由は?」
「俺が、全部を見た」
その一言で、場の意味が変わった。
敗北ではない。
次の一手が、存在する。
アテナは、静かに頷く。
「……よく戻ったわ、ヘルメス」
神々の知恵と、神々の速さが、
ようやく、同じ地点に立った。
世界は、まだ終わっていない。




