100話 世界を踏み潰すもの
冥界――
死者の秩序が支配するその地で、
冥界の番犬ケルベロスが、
耳を伏せ、震えながら後ずらしをし、低く鳴いた。
「……キューン……」
それは威嚇でも、獲物を前にした声でもない。
ただ、完全に怯えきった声だった。
「ケルベロス、どうした!?」
ハデスが、玉座から立ち上がる。
冥界に侵入者はない。
生者は死者を脅かさず、神々でさえ無秩序に踏み込むことはない。
それでも――
冥界そのものが、震えている。
「……一体、何が……」
ハデスは、無意識に拳を握り締めていた。
これは、死の領分ではない。
生と死、その両方を踏み潰す災厄だ。
* * *
――オリンポス野営
天幕が倒れ、立っていることすら困難なほどの震動が走った瞬間、
ゼウスは即座に理解した。
「……まさか!!」
雷霆が、自然とその身に集まる。
「このままでは、世界樹が危険だ」
アテナが、険しい表情で頷く。
「雷神よ、迎え撃つのですか?」
「まず――ここから引き離す」
ゼウスは、空を見上げた。
「地上で戦えば、すべてが焼け落ちる。
奴は……存在するだけで災厄だ」
雷鳴が轟く。
「上へ誘導する。
空で受け止める」
その声に、迷いはなかった。
世界を守るため、神王は前に出る。
* * *
殻から飛び出したそれは、一瞬にして巨大化し
現れたのは、神とも魔とも定義できぬ存在。
腿から上は人の形をしている。
だが、その眼は炎のように赤く、理性など宿してはいない。
肩から生えた、無数の竜の首。
背には巨大な翼。
脚は、毒蛇がとぐろを巻くような異形。
原初の破壊神――テュポーン。
テュポーンは、ゆっくりと世界を見渡した。
逃げ惑う者たち。
震える大地。
荒れ狂う海。
そして――
雷をまとい、空へと上がる一柱の神。
「……雷か」
その声は、嵐に紛れて低く響く。
懐かしい因縁。
何度も世界を揺らした、宿敵。
テュポーンの口元が、わずかに歪んだ。
「手合わせといこう」
その瞬間。
雷鳴が、天と地を貫いた。
大地は炎上し、
海は煮えたぎり、
タルタロスの底までもが、震撼する。
神と災厄。
世界の存亡を賭けた戦いが、幕を開けた。
空が、裂けた。
雷霆が奔流となり、天を貫く。
ゼウスが放った一撃は、もはや“雷”ではない。
秩序そのものを叩きつける、神王の裁断だった。
「なぜ、お前がここに――!」
轟音とともに、雷柱がテュポーンへ落ちる。
だが。
テュポーンの肩から生えた無数の竜首が、一斉に咆哮した。
炎。
毒。
暴風。
原初の災厄が、雷を喰らい、噛み砕く。
衝突の瞬間、空間が歪み、雲が蒸発した。
大地は遠くで裂け、海は逆巻き、
冥界の底でさえ、鎖が軋む音が響く。
「……まだだ」
ゼウスは後退しない。
黄金の雷霆を手に、間合いを詰める。
雷を投じ、接近し、
神王は渾身の一撃を振るった。
――ドオオオオオオオオン!!!!
衝撃が、世界を叩いた。
だが、テュポーンは笑った。
蛇の脚が空を蹴り、翼が嵐を生む。
「雷神よ」
その声は、雷鳴より低く、重い。
「まだ“王”を名乗るか」
テュポーンの炎が、ゼウスを包囲する。
熱で、空が燃える。
光で、視界が潰れる。
それでもゼウスは、雷を手放さない。
――引き離す。
何としても――世界樹から遠ざける。
その意志だけが、神王を支えていた。
再び、雷と炎がぶつかる。
天と地の境界が、消えた。
勝敗は、まだ見えない。
だが確かに――
世界は今、神王が押され始めている気配を、感じ取っていた。




