99話 破壊神
冷たい。
それが、レイの最初の感覚だった。
エレニの体から、熱が失われていく。
血の匂い。
世界樹の葉が揺れる音。
遠くで、まだ戦いが続いているような気配。
「……エレニ……」
「エレニ様!!」
呼んでも、返事はない。
胸は、わずかに上下している。
だが、それは「生きている」と呼ぶには、あまりに頼りなかった。
「しっかりして……お願い……」
声が震える。
手が震える。
――何も、できない。
「エレニ!! しっかりするんだ!!」
状況を判断したアイアスが、ペガサスで駆け付けた。
「アイアス……エレニが、エレニが……」
「リオ、アカデミーに行っててくれ。
俺は、エレニとレイを連れて急いで向かう」
「わかりました!」
アイアスは、エレニを抱え、レイを懐に入れると
ペガサスに乗り、颯爽と飛び立った。
そして、ひとり呆然と立ち尽くしていたエニオも、
アレスのもとへ、アレス軍の兵士らに連れられて行った。
* * *
オリンポス野営――
ガターーン!!!
ゼウスが、驚きのあまり立った勢いで座っていた椅子が倒れた。
「なに!! エレニが倒れただと!!?」
ゼウスの声が、雷鳴のごとく響き天幕が震える。
「なぜ? ディオの槍はアレスに刺さったはず。アレスも撤退しているのでは?」
気を張っていたアテナも、動転した。
「アレスの娘により、刺されたもようです」
ヘルメスが、戦況を報告した。
「エレニの容態は?」
「まだ、わかりません……」
その一言が、オリンポス野営全体に緊張が走った。
* * *
アカデミー医務室――
青白く血の気のないエレニが
医務室のベッドに横たわっていた。
「レイ、レイ!! しっかりしてください!!」
横たわるエレニをぼーっと見つめるだけのレイに
リオが必死に呼び掛ける。
「忘れたんですか?
ゼウス様が、仰っていた言葉を!!
まだ、間に合うはずです!!」
胸の奥で、何かが引っかかっていた。
ずっと昔のようで、つい昨日のことのような――
――雷鳴のように、低く、重い声。
『レイ』
『お前はドリュアスだ』
『その力は“息吹”』
はっと、息を呑む。
そうだ――
世界樹の花が咲いた――私が目覚めた日の記憶。
『枯れた場所に命を戻し』
『毒を清め』
『傷を癒す』
あの時は、ただ聞いていただけだった。
自分にはまだ遠い話だと、思っていた。
『ときには――』
『死の淵にある者を、呼び戻すこともできる』
「……呼び戻す……」
言葉が、唇から零れ落ちる。
視線が、エレニへ戻る。
蒼白な顔。
閉じた瞼。
動かない指先。
「……まだ……死んでない……よね?」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
世界樹の根元。
生命が最も濃く集まる場所。
ここでなら――
胸の奥が、じんわりと熱を持ち始める。
怖い。
何かを間違えたら、取り返しがつかない気がする。
それでも。
「……エレニは……」
喉が詰まる。
「……私を……守ってくれた……」
なら。
今度は、私の番だ。
レイが、そっと目を閉じると涙がこぼれた。
世界樹の息遣いに、耳を澄ます。
土の匂い。
樹液の流れ。
命が巡る感覚。
胸に、両手を重ねる。
「……お願い……」
エレニの魂に、声を掛ける。
「……戻ってきて……」
その瞬間。
レイの掌から、淡い緑の光が溢れ出した。
「レイ、思い出したんですね!」
リオが、励ますように後押しする。
それは、炎のように激しくはない。
雷のように荒々しくもない。
――ただ、春の芽吹きのような光。
エレニの体を、優しく包み込んでいく。
まだ、結果はわからない。
生と死の境界線は、あまりにも細く、脆い。
それでもレイは、祈るのをやめなかった。
呼び戻す。
その言葉を、胸の中で何度も繰り返していた。
* * *
戦場の喧騒は、わずかに後退していた。
アレス軍の旗が引き、兵の流れが変わる。
それを、クロノスは高所から静かに見下ろしていた。
「……撤退したか」
声に、感情はない。
脇腹を押さえ、怒りと屈辱に歪むアレスの姿。
そして――
世界樹の根元に倒れ伏す、雷を宿した女神。
エレニ。
その身を抱きしめ、必死に呼びかけるレイ。
クロノスの口元が、わずかに歪んだ。
「好機だ」
計画に、狂いはない。
いや――むしろ、予定よりも早い。
エレニが立っている限り、世界樹は完全には堕ちない。
ゼウスが動かずとも、あの女神が“楔”になっていた。
だが今。
「倒れたな、雷の女神」
死んだかどうかは、問題ではない。
重要なのは――戦場から消えたという事実。
クロノスは、手にする卵へと視線を投げる。
それは、ヘラから与えられていた魔獣の卵。
封じられ、縛られ、忘れ去られた災厄の眠る場所。
「ついにこの時が来た……。
出でよ」
低く、重い声。
世界が、軋んだ。
「ドリュアスは傷つき、雷は沈黙した」
地面に、歪んだ魔法陣が浮かび上がる。
神代の文字。
禁忌の契約。
「今を逃せば、次はない」
クロノスは、ためらわない。
「——目覚めよ」
魔法陣が、深紅に染まる。
卵が徐々に、巨大化し亀裂が入る。
大地が、震え始めた。
遠くで、兵士たちが悲鳴を上げる。
山が、呻く。
空気が、重く沈む。
「……来い」
裂けた時空の奥から。
災厄の息遣いが、漏れ出した。
鱗。
炎。
嵐のような咆哮。
世界が、生き物のように恐怖に震える。
「テュポーン」
クロノスの声が、確信を帯びる。
「今度こそ、終わらせる」
雷の守護を失った世界に、
原初の破壊神が、姿を現そうとしていた。




