NAO -電子の雨の中で。-
私には見えている。
遥か上空、成層圏の衛星から降り注ぐこのデータの粒子。
送受信されているその一粒一粒が、私には雨のように見えている。
熱、位置、思考、感情、嘘、命令、広告、削除された真実――。
都市中を覆うこの銀色の雨は、すべてを記録し、監視し、管理する。
《中央情報管理局》通称セントラルは絶えずこの情報の雨を降らし続けている。
見えないはずのそれを、私はずっと見てきた。
幼い頃からーー
ーーー
この都市に常に流れ続けている、情報の粒子 -レインコード。
今日もこの街に、冷たい電子の雨が降っている。
音もなく、感情もなく。
けれど私は、その中に流れる「何か」を確かに感じ取っていた。
ビルの屋上で膝を抱えていると、視界の隅に微かな“ノイズ”が走った。
それは粒子の一つが不規則に震え、流れを乱すような小さな揺らぎ。
「……これは」
私は立ち上がり、目を凝らす。
無数の粒子の海の中に、わずかに違う“文字列”が浮かんでいる。
――タすケtE
未規格の乱数と文字。
通常の通信プロトコルでは処理されない形式だ。
つまり、誰かがこの雨に、直接“思い”を乗せて送っている。
「場所は……第3スラム、南ブロック。あの辺りね」
粒子の流れを逆算し、位置を特定する。
発信源は、情報遮蔽地域――IDを持たない者たちが潜む場所だった。
私は無数の電子雨の中たった一つ、色で言えば赤い雨粒を見て迷わず屋上から飛び降りる。
風を受けて落下する間も、情報の雨が私の周囲にまとわりついてくる。
どこまでも冷たく、どこまでも無関心に。
だけど私は、その中から確かに“助けを求める声”を見つけた。
スラムの路地裏は静まり返っていた。
濡れたコンクリートの匂いと、低く唸る送電ノイズが混ざる。
ここは遮蔽地区ともあって電子の雨は極端に少ない。
「……いた、あれね。」
ブランケットにくるまって倒れている女性と、震える小さな子供。
女は意識がなく、子供はどうしていいか分からず立ち尽くしていた。
私はフードを深くかぶり、彼らに近づく。
気づいた少年が警戒して一歩引いた。
「だれ……?」
「通りすがり。大丈夫、何もしないよ」
私はそっと腕を伸ばし、母親に触れずに情報の雨へと指を滑らせる。
レインコードの流れを“手”で読み、彼女のデータを確認する。
――IDなし。登録履歴なし。行政圏外扱い。
つまり、この都市では“いない者”として処理されている。
事情はわからないが、この母親は随分衰弱しているようだった。
熱にうなされ唇が震えている。呼吸も浅い。
「……」
少し考えた後、
私は袖口からインターフェースケーブルを引き出し、近くの非常通信用ポートに接続。
周囲の無人医療ドローンを強制起動させ、応急診断プログラムを挿入した。
銀色の雨の中、白い機械が滑るように現れ、女にスキャンを開始する。
少年が目を見開き、言葉を失う。
女の左腕に静脈注射だろうか、薬剤が投与される。
メディカルマシンに取り付けられている警告灯が
先程までの黄色から緑へとゆっくりと変化した。
間に合ったのだと、安堵する。
「お母さんは大丈夫。命に別状はない。きっと良くなる。」
「……ほんとに? おかあさん、助かるの?」
私は微笑まずに頷いた。
それが、私にできる唯一の“応答”だった。
処理が終わると、私は痕跡を消してその場を離れる。
IDに残らない、不正通信の痕跡は、雨に紛れてやがて消える。
背後で、少年が母にすがりつき、泣きながら呼びかけていた。
その声を聞きながら、私は静かにフードを上げる。
こんな世界でも、たとえ個人データが消失しても、想いまで消えるわけじゃない。
尊厳が消えるわけじゃない。母親を救いたいと願う少年の思いも。
私は今日も、この都市のどこかで、雨を見ている。