雷神
「皆早く! 先頭車両の方へ!」
混乱する出雲丸の車内に、ツクヨミの切羽詰まった声が響く。
悪魔フール・フールと天使ラミエルの襲来。それは、東京より逃げてきた人々に、安息の時間などまだ来ていないという事実を告げていた。
この状況で列車を止めることはできない。運転手達には「全速力で西へ向かうように」と頼んだ。
後は、人々を守りやすくするため一カ所に集める。それがツクヨミにできる精一杯だった。
パニックを起こしバラバラになるのは危険だが、人間が一カ所に集中すれば、それだけ一網打尽にされるリスクも上がる。それは承知の上だった。
出雲丸の車上に出て、上空の悪魔と対峙している天神が万が一敗北すれば、その未来は限りなく現実のものとなるだろう。
恐怖と不安。
昨夜からベルゼブブ、サタン、フール・フールと立て続けに悪魔の襲撃を受けた人々は、絶望に顔を染めるだけだった。
折角ここまで来たのに。ようやく、あの地獄のような東京から抜け出せたのに。最早ここまでかと、諦めに近い気持ちが避難民達の心を支配する。
「……お母さん……。私達、死んじゃうの……?」
母の腕に抱かれる少女が、微かな声で問いかけた。それをツクヨミは耳にしてしまい、何も言えず唇を噛みしめる。
窓の外では数秒おきに雷鳴が轟き、車内を昼よりも明るくする。爆発音のような落雷の音量は、人々の悲鳴すらかき消してしまうほど。
そんな嵐の中心にあって――誰も、安心することなどできずにいた。
(天神……!)
希望があるとすれば、それは天神ただ一柱。だがそれは、縋るにしてはあまりにも微かな希望の光だった。
ツクヨミはいつも、こんな時自分に戦う力があればと悔しく思う。しかし彼女は夜を司る神。戦いの神ではない。
それに、仮にツクヨミが戦えたとして、今度は天神が自身の無力を嘆くだけだろう。今のツクヨミと同じように。戦う力が、守る力があれば、と。
(それでも……天神……。アンタは……!)
恐怖する人々の傍に寄り添い、ツクヨミは天神を想う。
誰よりも国を案じ、人を守りたがっている神のことを。それなのに、戦うことができないでいる天神のことを。
彼の悔しさは、自分のそれより比にならないだろう。ツクヨミはそう推測する。
だがもし、彼がそれでも希望の光になるのなら――。
***
「おっ、やっとるやっとるのぅ!」
「トール神……!」
出雲丸の天井ハッチを開け、北欧のトールがひょっこり顔を覗かせる。
天神は激しい向かい風に飛ばされないように、出雲丸にしがみつきながら其方を確認する。
そして次に、トールと共に上空を見上げた。
雷光によって照らし出される、とぐろを巻いた巨大な龍のような積乱雲。その暗黒の龍の眼前で、悪魔と天使が戦っていた。
『ホーリー・ホーリー・ガトリングガン……発射』
ロボットのような見た目のラミエル。その両腕から、デナリウス銀貨が高速で射出される。回転する機関銃の高火力は、悪魔の肉体すら貫通する程。
悪魔は肉体を再生できるとは言え、ハチの巣にされればひとたまりもない。フール・フールは戦闘機のような速度で空中を飛び回り、ラミエルの放った銀貨の弾幕から逃れる。
「人間共が開発した兵器を両腕に取り付けるなど……! いよいよもってプライドも何もないな、ラミエルゥゥ!」
弾幕の隙間を縫うようにして飛行し、フール・フールはラミエルまでの距離を詰める。
そして雷撃の魔力を込めた右腕を、ラミエルの身体を切り裂くようにして振り下ろした。
『サンダーウォール展開』
「ッ……!」
振り下ろした悪魔の右腕は、天使がその装甲から放った雷撃の壁によって防がれた。防御壁そのものは破壊したものの、天使の機体に損傷はない。
そしてラミエルは反撃に、こめかみの辺りに取り付けた小機関銃から発砲する。小さな弾丸は、恐らく銀の針か何かだろう。威力はほぼないものの、速度と、何より不意打ちとして有効だ。
フール・フールはいくらかの針をその身に受けながらも、再び上空に飛び上がって、ラミエルの射程距離外に逃れていった。
「ふーむ、こりゃ思った以上に接戦じゃのぅ」
天神の背後で、トールは呑気に髭を撫でつつ戦いを眺めている。
一見すると近代兵器、あるいはそれ以上の強力な未来的火器に身を包んだラミエルが、有利に戦っているかのように思う。
しかし実際はフール・フールも致命的ダメージを受けておらず、互いに決定打を与えられずにいる状況だった。
「あの悪魔は魔力を移動速度に変えとるから、あんなビュンビュン飛べるんじゃな。普通ならとっくに力尽きて墜落しとるわい。しかし天使? の方も……。豊富な霊力を、数多積んだ兵器を使う動力に変換しておる。砲撃に雷の盾と更には移動のために火を噴く足……。多彩な技を体現するとは、器用な奴じゃ」
トールは豪快で乱雑そうな性格に見えて、実際はよく周囲を観察している神なのだなと天神は確信した。
分析力と判断力。北欧神話最強の神の武器は、その屈強な肉体でも破壊力絶大な槌でもなく、冷静に物事を見つめる神眼にあるのかもしれない。
「まっ、ワシの場合は神力をパワーに全振りじゃがのぅ! 一発叩き込めばあんな奴らは瞬殺じゃわい! ガッハッハ!」
天神の視線をどう受け取ったのか、話の最後には自分自身を持ち上げて盛大に笑う。
力と技と速さ。同じ雷を司る者が集まっても、その使い道は実に様々。
ベルゼブブと戦った白峰神も、その信仰を力に変え、己の移動速度上昇に割り振っていた。そして戦いの神でもないのに、必死に戦った。最後には怨霊としての力も解放し、散って行った。
(……ならば、私は……!)
天神は悩む。その時間すら勿体無く感じているにも関わらず。
だが時間は、状況は待ってなどくれない。個人の感情とは無関係に、非情にも移り替わる。戦況は動き続ける。
上空を飛ぶフール・フールを撃ち落とすために、ラミエルがその位置を変えながら照準を合わせている――その時だった。
両足のブースターから霊力を燃焼させ、出雲丸の天板ギリギリを飛来した。そしてトールや天神のいる天井ハッチ付近を、横切った時。
ラミエルの不気味に光る赤色のモノアイは、天神を捉えた。
たった一瞬ではあるが、確かに、天神とラミエルは目が合ってしまった。
『魔力検出。該当データ無し。殲滅対象変更。目標――アンノウン』
「!?」
ラミエルは攻撃目標をフール・フールから天神に切り替えたようだ。砲身の腕が天神に向けられ、銀貨の弾丸が射出される。
天神は横に跳んでかわし、トールはハッチを閉めて車内に引っこんだ。
上空にいるフール・フールはというと、突然の事態を把握できずにいた。
「何だ……? ラミエルの奴は、何を……?」
悪魔に構わず、容赦なくガトリング砲を放つラミエルから、天神は必死に逃げ回る。
しかしここは列車の車上という、突風吹き荒れる不安定な足場。そして身を守る遮蔽物も何もない。
すぐに天神は両足を撃ち抜かれ、出雲丸の車上に伏して血を流した。
「ぐッ……! お、お待ち下さい! 私は貴方達の敵では……!」
『目標の無力化確認。完全消滅の為、マキシマムサンダーボルトガン使用。発射まで、残り30秒』
「ッ……!」
機械化した天使には、交渉など通じない。
ラミエルは背中から巨大な大砲を出現させ、肩に担ぎ、その砲身を天神に向ける。
雷撃と霊力のエネルギーが充填され、そのレーザー攻撃を受ければ、天神など一瞬で消し炭にされてしまうだろう。
そうしている間にも、遥か上空からフール・フールも迫っている。これは好機だと判断したのか。天神がやられている間に、人々を手にかけるのかもしれない。
ツクヨミに後を託すわけにもいかない。
トールに関しては、自衛のために戦っても、日本人を守りはしないはずだ。
もはや絶対絶命。もう、どうしようもない。
進退ここに窮まって、それでも天神は迷っていた。自分には、戦うことはできないのだろうと。
「天神ッ!!」
――その時だった。
危険だと制止するトールを押しのけ、ツクヨミが天井ハッチから顔を出してきたのは。
鬼気迫る顔。ツクヨミも不安と恐怖を隠し切れていない。それでも、伝えたいことがある。だから戦場への蓋を開けた。
「何やってんのよ!! もう後悔しないんじゃなかったの!? それがアンタの選択でいいのね!? 戦わないことを選んで、それで満足でいいのね!?」
「ツクヨミ様……!」
「守りたい気持ちがあるなら! それがアンタの本心なら!! 守ればいいじゃない! 戦えばいいじゃない! あのバカみたいに!! 大して強くもないくせに、ボロボロになって血ヘド吐いてでも戦った、白峰みたいにやってみなさいよ!!」
「……ですが! 私が戦えば、この国が傾くのですよ!?」
「そんなことが聞きたいんじゃないのよ、コッチはあああああああああ!!」
ツクヨミ自身、自分がここまで大声を出せるのかと驚いた。言っている内容も酷いものだ。自分は戦わないくせに、天神に「戦わないのか」と問いかけている。
だが、それでも構わないと思っていた。
国を、大地を守るために戦わないのか。それとも出雲丸の人々を守るために戦うのか。正直どちらでも良かった。天神が後悔しないなら。後悔に苛まれて千年過ごした天神が、納得できる決断なら。ツクヨミは尊重するつもりだった。
そしてツクヨミは知っていた。天神の心を。誰よりも穏やかで、優しい天神が――心の底から、国と人を守りたいと想っていることを。
だからこそ激を飛ばす。どちらも選択できず、悩んでばかりで、黙って血を流している天神に向かって。
口と性格の悪いツクヨミなりに、天神の背中を押すために。
『チャージ終了まで、残り10秒――』
「終わりだ極東のサル共! サタン様の世に、栄光あれ!」
「アンタが、アンタの思うままに! やってやんなさいよ!! やりたいように生きなさいよ!! アンタは自由に生きることができるんだから! 神として、アンタはもう自由になったのよ!! 道真ぇ!!!」
――あぁ。涙を流したのは、何百年ぶりだろうか。
『マキシマムサンダーボルトガン――発射』
そして雷光が、世界の全てを白に染める。
だが雷鳴が収まり、世界に再び夜が訪れた時、そこには――。
夜よりも暗い『黒』が待っていた。
「……ツクヨミ様……」
大気が震える。
草木が怯える。
動物達は野山に逃げる。
原初の記憶に刻まれた、『人ならざる者』への恐怖を敏感に察知して。
『魔力検出。数値測定不能。エラー、エラー、エラー、エラー、エラー』
「……!?」
「何じゃあ、奴は……!?」
そこに立っていたのは、『天神』ではなかった。
人々が知っている優しい湯島先生でもない。
フール・フールもラミエルもトールも、その姿に驚愕する。
壊れたメガネを投げ捨て、涙を拭い、彼は列車の上に立つ。
その身体から、ドス黒い瘴気を噴き上げながら。
「ツクヨミ様……どうか、お許し下さい……!」
世界に轟雷が鳴り響く。
悪魔と天使が呼び込んだ雷雲を蹴散らし、新たに真っ黒で鈍重な雲が降りてくる。
「もう一度だけ……戦うことを……! 今度は自分の『怒り』のためでなく、誰かのために戦いますから!!」
誰しもの理解が追い付いていない状況で、ツクヨミだけが知っていた。彼の想いを。彼の、本当の『神性』。その本来の名前を。
「ブチかましなさい……! 道真としてでも、天神としてでもなく! アンタの思うがままに! アンタはアンタの心にだけ従いなさい!! そうでしょ――『雷神』ッ!!!」
目覚めた日本の『カミナリ様』が今、雷霆を司る異教の存在達と対峙する。
全ては国と人を守るため。
例えその力のために、日本全国が、彼の生み出す雷雲に包まれようとも。