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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【小説】夢見る亡骸


この作品は、note、エブリスタ、pixiv、アルファポリス、ツギクル、小説家になろう、ノベマ、ノベルアップ+、カクヨム、ノベリズム、魔法のiランド、ハーメルン、ノベルバ、ブログ、に掲載しています。


 大学時代の仲間と共に製薬会社を起業し、新薬開発を成功させ一代で巨万の富を築いた伊藤 敬一郎(いとう けいいちろう)は、ゆっくりと肘掛け椅子から腰を浮かせ、寝床に就いた。

 最近悪夢にうなされ、食欲がなく好きだったワインも飲めなくなった。

 今夜は特に動悸(どうき)がひどくて、窓の外の景色を眺めて心を(しず)めようとしたが、なおさら落ち着かなくなるばかりだった。

 左胸を軽く押さえながら、カーテンに手をかけた。

「今夜も、寝付けそうにないな」

 眼窩(がんか)に濃い(くま)がはっきりと窓ガラスに写り、お化けの様だな、などと思ったが室内を振り返った瞬間、息が詰まった。

 すぐ後ろに、20歳前後と思われる若い女が立っていたのだ。

彩花あやか ───」

 敬一郎はカーテンから下ろした左手を追いすがるように伸ばした。

 5年前に死んだはずの娘はゆっくりと下がり、虚空を(つか)んだ手をさらに伸ばして歩を進めた。

 そのさらに後ろに、もう一人若い女がいた。

 薄い微笑と共に、敬一郎の恐怖に引き()った表情を楽しんでいるように見えた。

 天井を仰ぐと、顔が隠れそうなほど長い髪の間から、目元の大きなホクロが覗く。

 勝ち誇ったように見下ろす表情と共に、かすれた声で笑ったような気がした。

 そして、ゆっくりと身体が透き通り、部屋の壁が現れたのだった。

 全身がワナワナと震え、歯がかみ合わずガチガチと音を立てる。

 髪を掻きむしりながらベッドへ滑り込むと、掛け布団を頭の上まで被って息を殺した。

「あんたは、心臓に難病を抱えた人たちを救う、画期的な新薬を開発したくせに、なかなか世に出そうとしなかった。

 だから私の妹は ───」

 掛け布団越しに冷たい手の感触が伝わり、ゆっくりと()がされていく。

 (のど)にボールが詰まったように息ができなくなって、眼球が飛び出すほど目を()いた後、黒目がぐるりとひっくり返った。

 意識が遠のきそうになったとき、突然喉の違和感が消えてゼイゼイと空気を肺の浅い部分に何度も吸い込み、喉を掻きむしっていた手をゆっくりと緩めた。

 夢の中の出来事なのか、現実なのか、自分が生きているのかも分からなくなり、また布団に(くる)まって嗚咽(おえつ)()らして何時間も震えていたのだった。


 東京都蕨塚区の閑静な住宅街に、ヨーロッパの石造りの外観を模した、豪邸が建っていた。

 近所では「古城」と呼ばれ、ヨーロッパの城を思わせる外観は、主人の趣味を色濃く表わしていた。

 大きな木製ドアの中には、サーベルや甲冑(かっちゅう)の模造品が並び、上がり口がなくて、赤い絨毯(じゅうたん)に土足で上がるようになっている。

 伊藤が雇った、若い石川 花(いしかわ はな)は広いリビングの中央で、白いテーブルクロスを広げ夕食の支度をしていた。

 これまた伊藤の趣味で「メイド」として雇われ、ヒラヒラとしたレースやリボンで着飾った服装を、好きとも嫌いとも思わず淡々と仕事をする。

 燭台(しょくだい)に灯を入れる、と言っても電球色のLEDのスイッチを付けるのだからわざわざ他人にやらせなくても、などと考えるが毎日のルーティーンになっていた。

 この屋敷に職を求めてきた理由は2つある。

 まずヨーロッパの(おもむき)が、趣味に合うからである。

 趣味趣向ではなくて心の奥に、しまい込んでいるものに打ってつけなのだ。

 2つ目は、主人の伊藤 敬一郎に近づくためである。

 夕食はいつもきっかり7時に始まり、客を呼ぶ日が多かった。

 製薬会社や薬局関係者、医者、大学の研究者などが、知識人ぶって世の中を批判してみたりなどしている。

 メイドの石川にとっては、嫌悪感すら覚える話題である。

 こうして2時間ほどの夕食が終わると片付け、自室に戻ってため息をついた。

 メイド服というものは、ヒラヒラした飾りばかりで悪趣味なロリコン好みにできている。

 手先が器用な石川は、ちょっと現代風にアレンジしてタイトなイメージに作り替えてみた。

 これが伊藤にも受けて、時々カスタマイズして欲しいと要望されたほどだった。

 ふん、と鼻を鳴らすと脱着できるレースを外し、シックな黒衣に早変わりする。

 イメージは、ヴァンパイアである。

 そう、伊藤は愚かにも、自ら進んで血を(すす)られるために雇ったのだ。

 少しずつ、少しずつ、奴の魂を削り、血を抜き取り、肉を削ぎ、地獄へ落とす。

 頭の中に怨念(おんねん)が満たされる快感に酔いしれ、今度は本物の燭台に火を灯した。

 今夜も、魂をあの世に導く炎がゆらめき、胸の前で手を組んだ彼女の心を(しず)めていく。

「あと一回 ───」

 口角を上げ、歪めた(あご)を月明りが照らした。


 大理石のようなオフホワイトの壁が、くすんだ日本の色彩とは異なる趣を漂わせる「古城」の前に女は腕組みをして(たたず)んでいた。

 (かたわ)らで、周囲をスマホで撮っていた男が、

「いかにもって感じの建物だな」

 としきりに(うな)っている。

 探偵である2人は、行方不明者を捜索する案件で、何度か魔術信仰の宗教団体へ行きついていた。

 ターゲットが黒魔術にどっぷりとハマり、宗教で安らぎを得ている面もあるため一概に否定はできない面もあるが、事件性がない結末にガックリしてしまうのだった。

 明らかに違和感のある建物は、宗教団体絡みな場合もある。

 黒いジャケットと、黒パンツの上田 莉子(うえだ りこ)は、インターホンの前に立った。

「ここの主は、あのトーイ製薬を一代で成功させた伊藤 敬一郎だったのだろう。

 怪しい館に製薬会社って、怖い組み合わせだよな」

 周囲の景色からは浮いて見える黒衣に身を包んだ井澤 健太(いざわ けんた)は顔を(しか)めた。

(わたくし)、サクリファイズ・インカンテーションの上田と申します」

 愛想よくちょこんとお辞儀をしながらカメラに笑顔を向ける彼女に、内心「魔術信仰してるキャラを演じろよ」などと思ったが、どうでもいいと思い直し井澤も後に続いた。

 だだっ広いリビングには白いクロスをかけた大テーブルが(しつら)えてあった。

「いらっしゃいませ、ごゆっくりどうぞ」

 ボディラインにピッタリとフィットした黒衣にレースをあしらって、洗練されたファッションの若い女性がシャンパンを勧めてきた。

「私は、メイドの石川と申します」

 今どきリアルなメイドなどいるのか、と驚きの眼差しを向けると、彼女は遠慮なく向かい側に腰を下ろして席を勧めた。

 そこへ50歳前後の女性が入ってくると石川は、弾かれたように立ち上がった。

「あら、いいのよ。

 楽にしててちょうだい」

 手で制して座らせたのは、敬一郎の妻である、麻美(あさみ)だった。

 とりあえず、とシャンパンで乾杯して舌を湿らせると、早速(さっそく)切り出した。

「娘の彩花も、夫の敬一郎も、毎晩悪夢に苦しめられて、衰弱死したのです。

 どう考えても、魔術が絡んでいるとしか思えません」

 彼女自身も、最近深く眠れない夜が増えたと言うのである。

「あと一回、魔術で人が死ぬかもしれないと ───」

 何の気なしに井澤が(つぶや)くと、彼女の顔が引きつった。


 話が一段落すると、石川はキッチンへと下がっていった。

 上田が後に付いて行こうとすると、

「仕事ですから」

 と言いながら振り向いた顔に一瞬影が差した。

「その服、かわいいわね。

 シュッとしてて、良くあるメイド服とイメージが違うけど、もしかして」

「私が作ったの」

「うわあ、(すご)いね」

 などと話を盛り上げつつ、キッチンへ入り、皿を出したり食材をレンジで温めたりなどし始めた。

 大テーブルにパンとサラダとハムなど、簡単なランチを並べると石川がもう一人の住人を連れて入ってきた。

橙沢 茜(とうざわ あかね)です」

 起きたばかりなのか、(かす)れた小さな声なので、上体を乗り出して聞き耳を立てた。

「橙沢さんは、帝都大学文学部の大学院生なんです」

 補足した石川は言葉を切った。

 ため息をついた麻美の表情がこわばった。

「へえ、私、小説が好きなんです。

 おすすめの本とか、教えて欲しいな」

 気さくに笑顔を向けながら上田が言った。

 食事を済ませると、石川が部屋に案内してくれた。

 2人は麻美から依頼を受けて、住み込みで調査をすることになっていた。

 表向きは魔術に詳しい知人、ということにしていた。

 リビングから玄関ホールへ戻ると、ゆるやかなサーキュラー階段が、入口から見て左手の壁沿いにある。

 アイアンワークの手すりが規則正しい縦線を刻み、何ともいえないスケール感を(かも)し出す。

 2階は中央の廊下を挟んで左右に部屋が並んでいる。

 一番奥の左手に石川の部屋があり、向かい側に橙沢の部屋がある。

 その手前は両側共に物置部屋になっていて、一番手前の来客用の部屋を使うことになっていた。

 左側に上田、右側に井澤が入ると、当面の着替えを入れたキャリーバッグを引き入れた。


 東京都蕨塚区の警察署で、鷹山 剛(たかやま つよし)は席を立った。

 同じ捜査一課の刑事である、朧月 十座(おぼろづき じゅうざ)に目で合図すると、覆面パトカーまで一言も言葉を発せずに走っていく。

 勢いよく運転席へ滑り込むと、ミラーとステアリング、ブレーキの確認をしながら言った。

「殺人事件だって言い張ってる、こんな話、聞いたことあるか」

 助手席の朧月がくるくると指を回しながら、

「生真面目にパトカーを確認するあたり、危機感はないようですね。

 ふふふ、それより僕の好みのシチュエーションじゃないですか」

 不気味な光を(たた)えた双眸(そうぼう)が、少し濁っているような気がするのは、オカルト好きな彼の言動のせいだろうか。

「一晩泊ってくるか」

 何の気なしに言ったのだが、

「本当に良いんですか」

 小躍りしそうな勢いで明るい声が返って来た。

 周囲に犯人が潜伏している可能性を考えて、サイレンは使わずに制限時速を軽く破って急行する。

 少し手前の路地に停め、屋敷に入っていくと驚いた。

 というより朧月のほうは興奮してキョロキョロ見回しながら「ほう」とか「うわあ」とか言ってうるさい。

 こんな古城のような家で変死体が見つかったら、オカルト狂でなくても神秘を感じてしまうだろう。

 被害者の書斎へ通したのは、自分をメイドと称した石川という若い女だった。

 果たして、洋風に設えた木のドアが並ぶ2階の真ん中の左手の部屋の鍵を開けると、メイドを手で制して現場に踏み込む。

 たくさんの死体を見てきた2人でも、息を飲むほど壮絶(そうぜつ)な死に顔だったからである。

 外傷はないのだが、目を剝き苦悶に歪み切った顔の輪郭。

 毛髪はまだらに抜け落ち、両手の指の間にむしり取ったと思われる毛が絡みついていた。

 口からは吐瀉物(としゃぶつ)と一緒に血が吹き出し、喉にはかきむしった跡が生々しい。

 鼻からも下腹部にも、液体と固体が入り混じって、出る物はすべて絞り出したように身体を汚し、臭いが充満している。

「こりゃあ、気の毒な仏さんだな」

 しゃがみ込んで顔を覗き込んだ鷹山が言う。

 現場の写真を撮った後、被害者の妻である麻美の強い希望もあって、朧月を残していくことにした。


 井澤は、向かい側の上田の部屋で状況を整理していた。

「まず、伊藤 彩花(いとう あやか)が5年前に衰弱死した。

 精神的にも、身体的にも追い込まれて、哀れな死に顔だったそうだ」

「それが、呪いのせいだっていうのね。

 他殺だとして、誰かに(うら)みを買っていたのかしら」

 井澤は肩をすくめて見せた。

「友人関係を当たってみたが、個人的な怨みを持っていそうな人物はいなかった。

 だとすれば、一代で財を築いた敬一郎の方だろうな。

 心臓の難病を直す成分を発見したときのニュース記事が出てきた」

「なかなか世に出そうとしなかったために、批判されていたのよね」

 頷いて、先を続けた。

「難病で苦しむ人たちを、早く救ってあげたい気持ちを持てなかったのはなぜか」

「研究者として、突拍子もない夢を追うような彼のテーマが、度々学会で批判されていて、ネットで炎上も起きていたわね」

「教鞭をとった大学では、学生からの評価が低かったようだ。

 授業に工夫がないとか、中身が難しすぎて理解できないとか」

 一息ついて、キッチンから持ってきたコーヒーメーカーで深煎りを落とした。

 香りが張りつめた神経を(ゆる)め、カップに注いでブラックのまま口に運ぶ。

「そうなると、犯人はどこにいてもおかしくないわ」

 椅子に深く腰掛け、天井に視線を移して瞑目した井澤は間を置いてから言った。

「メイドの石川には、裏がありそうだ」

 仕事が終わり、夜になると、部屋に閉じこもったきり出てこない。

 これ自体は珍しくないが、外から観察しても、遮光カーテンをずっと閉めたままである。

 人間の心理として、日に何度か陽の光を浴びたいと思うものだ。

 精神的に不健全な状況なのかも知れない。

居候(いそうろう)の橙沢 茜について、興味深い事実がわかったわ」

 廊下の奥に仕掛けたカメラの映像と、石川と橙沢の部屋の盗聴器の音を確かめながら、先を促した。

「敬一郎は、論文以外にもエッセイや小説を書いていて、教え子の友人だった橙沢に意見を求めたり、推敲や事務的な仕事をやってもらっていたらしいの。

 そして、賃金、というよりも高価な服や貴金属をあげていたようね」

「そっちの線か」

「麻美も関係を知っていて、公認で不倫していたようよ」


 麻美の部屋は、敬一郎の書斎の向かい側にある。

 夕食を済ませた麻美と橙沢、井澤が2階へ戻り、上田は石川と一緒にキッチンで片付けものをしていた。

 敬一郎が亡くなったとき、警察に通報して調べてもらったが証拠が見つからず、病死とされていた。

 そもそも、呪いで人を殺したとしても殺人の構成要素を満たさない。

 必ず何かあるはずだが、警察に詳しい検死をしてもらおうにも、遺体はとうの昔になかった。

「そろそろ引き際か ───」

 カーテンを開けて外の景色を眺めても、夜の帳が降りた後は街灯と一軒家の明かりがちらほら見えるだけだった。

 そのとき、女の叫び声と物音が廊下に響いた。

 廊下へ躍り出ると、麻美の部屋のドアが開いていて、彼女が呆然(ぼうぜん)とした顔で立っていた。

「伊藤さん、何か ───」

 言いかけた井澤はその場に立ちつくした。

 彼女の手には鮮血が(したた)るハサミがぶら下がっていた。

 部屋の中を見ている彼女をすり抜け、中へ飛び込むと橙沢が胸から血を流して、あお向けに倒れていた。

 駆けつけた上田が警察に通報すると、鷹山と朧月という刑事が息を切らせて駆けつけた。

 同時に呼んだ救急車が彼女を運ぶ前に、現場の写真を撮ってから、麻美を連れて蕨塚署へ戻って行った。

 探偵としての仕事は、一段落したところだったが、上田が意外なことを言った。

「花ちゃんが、部屋を見せてくれるって」

 驚いて振り返ると彼女は奥の部屋へ向かって歩きながら、ついて来るように手で促した。

 石川の部屋には、小さなテーブルがあった。

 白いクロスをかけて、本物の燭台と、大小の皿やナイフが置かれ、陶器の天秤、魔法陣がかかれた箱など、華やかささえ感じさせる物が並ぶ。

「サクリファイズ・インカンテーションの関係者の方って聞いて、是非見てもらいたいと思ってたの。

 儀式をやればやるほど、来世で幸せになれるからこんなに揃えちゃった」

 仕事中には見せたことのない笑顔がこぼれ、宝物を()めて欲しい、とでも言うように一つ一つ手に取って見せるのだった。


「あの子が、夫と不倫していたことは知っていました」

 取り調べ室で彼女は、うなだれながらボソリと呟くように言った。

 もう、精魂尽き果てた、という様子で次々に言葉が口を突いてでた。

「もう、何もかもお話します。

 不倫の件は、夫が生前から分かっていましたし、夫が高価な服やハンドバッグ、アクセサリーなどを買い与えているのも見ました。

 会話がほとんどなくて、夫婦の関係は元々あまり良くなかったですし、私は何も言わなかったのです。

 でも、夫が離婚話を切り出してから、許せなくなりました」

「敬一郎さんは不審死をしていますね。

 それについては」

 鷹山は穏やかな口調だった。

「いくら何でも、長年連れ添った夫を殺そうなんて思いませんよ。

 誰かに殺されたような気がするんです」

 語気を強めて言った。

「ただ、あの子にケジメを付けさせようとしました。

 大学に言えば、自主退学を求められる可能性がありますし、就職に響くかもしれないと知ッていました」

 腕を組んで鷹山は黙って(うなづ)いた。

「最近になって、あの子の部屋から毒物の痕跡を、メイドが見つけたのです。

 問い詰めると、隠し持っていたナイフで切りつけられました。

 殺されると思って、持っていたハサミで ───」


 捜査の結果、その物質は金属の精練副産物に含まれる劇物だった。

 水に溶けやすく無味無臭なので気づきにくく、手がかりなしに特定するのは困難である。

 食事の中に少しずつ混入して継続すれば衰弱死を装うことも可能である。

 橙沢の胸の傷は軽傷だった。

 刃に厚みがあるハサミで、深く刺すことは困難である。

 そして胸を突くのはありがちな失敗である。

 肋骨(ろっこつ)が内臓を守っているから、刃が通らないからだ。

 治療が終わるとすぐに逮捕された。


 

 5年前。

 帝都大学で教授の伊藤 敬一郎に自作のミステリィを読んでもらい、薬学の見地から意見を聞いていた橙沢は、食事に誘われ関係を持つようになる。

 だが、不倫への罪悪感から別れ話を切り出すと、

「大学にばらすぞ。

 俺には君が必要だし、何かとお互いに利益になるはずだよ」

 などと言い、高価な服やバッグなどを買い与えた。

 いつしか家に住み込みで原稿執筆の手伝いをするようになった。

 娘の彩花からも不倫関係を責められ、神経を張りつめた生活が続く。

「もう、耐えられない」

 思いつめた彼女は、証拠が残らない毒物を調べ、一家全員を殺害する計画を入念に準備した。

 彩花を毒殺すると、敬一郎から疑われるようになる。

 自分から注意をそらすために、魔術信仰のサクリファイズ・インカンテーションに入っていると噂の石川に、メイドの募集をそれとなく知らせた。

 重い心臓病を患い、治療薬が間に合わず死亡した妹の件は、単なる偶然だった。


 事務所に戻った井澤と上田は深煎りコーヒーを淹れたカップを口へ運んだ。

 探偵の仕事は、浮気調査がかなりのウエイトを占めている。

「今回も、浮気がらみか ───」

 心地よい香りが神経を鎮め、身体を軽くしていく。

「探偵は、浮気調査のためにいるようなものよ」

 吐いて捨てるように言った。

「たまには、殺人事件とか警察の捜査に協力するようなデカい山はないかな」

 と言ってみたものの、不謹慎だな、と思い直した。

「直接解決に結びつかなかったけど、殺人事件に関わったと言えるんじゃないかしら」

 井澤は、この話題を打ち切ろうと思い、パソコンのメールチェックを始めた。

 また、身辺調査とペットの捜索依頼があった。

 深いため息をついて、手帳を取り出し、スケジュールを調べ始めたのだった。



この物語はフィクションです


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