9話 ホワイトムスクの卒業写真
最近仕事が立て込んでいる。
と言うか、やけに仕事の量が増えている気がする。
冷蔵庫にボトルのアイスコーヒーを取りに行くのが面倒になり、ボトルごと書斎に持って来て飲んでいる。
勿論、グラスに注ぐなど面倒で、そのままラッパ飲みという奴だ。
お陰でコーヒーの接種量は大幅に増えている。
何て燃費の悪い事だろう。
「コーヒーの飲み過ぎは胃に悪いですよ。せめてミルクがお砂糖か、どちらかお入れになった方が良いと思います」
編集者の上杉さんには何度かそう言われた。
私は牛乳が苦手。
しかし十代の頃は日に二リットル程の牛乳を飲んでいた。
だが、大人になると、その牛乳でお腹が緩くなるという体質になってしまった。
大人になってから食の環境は色々と変わった。
苦手だったホルモン系が好きになったり、魚が好きになったり、京風の味の薄い煮物が大好物になったり。
逆に若い頃に好んでいたガムや飴など、口の中に長時間残るモノがダメになったり……。
まあ、なかなか難しいポンコツなのかもしれない。
今日は実は徹夜で原稿を書いている。
別に徹夜する程、追い詰められている訳では無いのだが、気分が乗っている事もあり、その勢いを殺さない様に、書けるところまで書こうと思ったらそのまま朝を迎えた。
作家とはそんな生活が日常で、身体を壊す先生も多い。
漫画家などは私たちよりも過酷な状況なのかもしれない。
普段は音楽を聴きながら書く事は無いのだが、今日は何故かFMラジオを聴きながら書いている。
そのノイズが今の私には丁度いい気がする。
車の音がして、ガレージに赤いアウディが入って来た。
鬼の上杉編集者のお出ましだ。
しかし、今日渡す分の原稿は既に完成しており、敢えてメールを送っていないだけだ。
今日の私には余裕がある。
玄関が開いて、上杉さんの声がした。
先日、雪の中で上杉さんを探し回り風邪をひいた一件があり、上杉さんにはちゃんと合鍵を持ってもらっている。
「先生。おはようございます」
上杉さんは書斎の入口から私に言う。
「おはようございます」
と私はキーボードを叩きながら挨拶した。
「先生、朝食まだですよね。サンドイッチを買って来たので一緒に食べませんか」
私は上杉さんに微笑んだ。
「じゃあ、コーヒー淹れますね」
と上杉さんはダイニングへと行ってしまった。
原稿の心配はしないのか……。
私はキリの良いところで原稿を保存して、ダイニングに向かった。
既にミルがけたたましい音を立ててコーヒー豆を挽いていた。
私は自分の椅子に座るとタバコに火をつける。
ふとテーブルの上に目をやると上杉さんの仕事用の資料が置いてあった。
卒業特集か……。
上杉さんの資料を私が見る事はあまりない。
作家に見せたくないモノもあるだろうとの配慮である。
上杉さんはサンドイッチをテーブルの上に広げて、コーヒーカップを出した。
「先生。もしかして徹夜ですか」
なかなか鋭い。
私はコクリと頷いた。
「ダメですよ。しっかり寝て戴かないと」
そう言いながらコーヒーをカップに注ぐ。
懐柔策に出て来たか……。
「締め切りよりも身体ですよ」
おっと、そんな言葉を上杉さんから聞ける日が来るとは……。
「しっかり食べて、体力付けて下さいよ」
ん……。
何か可笑しいな……。
上杉さんは私の前にサンドイッチを広げた。
私はじっと上杉さんを見る。
上杉さんはニコニコと微笑みながら私を見ている。
何かあるな……。
上杉さんは私の視線に気付き、
「ん……。どうかしましたか……」
と言う。
私は、首を横に振ってサンドイッチを一つ手に取った。
多分、毒は入っていない筈だ。
上杉さんはテーブルの上に置いたクリアファイルを手に取った。
「それはそうと……」
それはそうと……。
この言葉は話題をすり替える時に使う言葉で、「ところで」と同じ使い方をする。
私は、サンドイッチを口に入れてコーヒーカップを手に取った。
「そろそろ卒業の季節なんですよね……」
まあ、季節で言うとそうだ。
「そうですね……」
上杉さんはクリアファイルからさっき私が見た資料を出して、テーブルの上に置いた。
「今度「卒業」をテーマに特集を組むんですけど」
「はあ……」
私は二つ目のサンドイッチに手を伸ばす。
「まあ、丁度良い時期ですし、良いかもしれませんね」
上杉さんの目が光った気がした。
気がしただけかもしれないが……。
「先生にとって卒業って何ですか」
は……。
何ですかって何ですか……。
私はサンドイッチを手に持ったまま固まった。
「何ですかって言われましても……。卒業って節目みたいなモノじゃないですか」
私はサンドイッチを口に入れた。
上杉さんは大きく息を吐いて、
「そんな答えじゃ面白くないですよ。もっと作家らしい言葉を……」
ん……。
何だこれは。
何かに使おうとしているのか……。
「そうですね……。あまり古い小説に卒業をテーマにしたモノは無いんですよね。アメリカ映画の『卒業』なんかは有名ですが、チャールズ・ウエッブという人が書いた作品ですが……」
上杉さんがドンとテーブルを叩いた。
私は驚いて身を引いた。
「先生が書かれた作品の中に卒業をテーマにされたモノはありましたっけ」
何とも強引な話の曲げ方をする。
私はコーヒーカップを手に取った。
「まあ、短編では幾つかありますけど……」
上杉さんは笑顔を作った。
「あの……」
私はカップを置いて上杉さんに訊いた。
「はい、何でしょう」
上杉さんの表情が私には少し怪しく見えた。
「本題をどうぞ……」
私の言葉に上杉さんは、クリアファイルの中の資料を全部出した。
そして私に微笑む。
「今度の特集で、作家の先生方の卒業する人への贈る言葉ってのを企画しようと思っているんです。卒業と言っても色々あるじゃないですか、例えば中学生と高校生でも違うし、大学生はもっと違う。それに定年退職なんて言うのも一種の卒業だと思うんですよね。それに離婚なんていうモノも……」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
私は一気に喋り始めた上杉さんを止めた。
「何となく、わかった気がしますので、本題を……」
上杉さんは椅子に座り直し、咳払いを一回した。
「先生には、その贈る言葉とコラムをお願いしたいと思っておりまして……」
贈る言葉とコラム……。
私は三つ目のサンドイッチを手に取り頷く。
嫌な予感がする……。
「えっと……。それは……急ぎの……」
「急ぎです」
上杉さんは食い気味に言葉を発した。
「んと……。締め切りってのは……」
「今日です」
また食い気味の上杉さんを見て私は大きく息を吐いた。
やっぱり……。
私はズレた眼鏡を上げて、しっかりと上杉さんを見る。
上杉さんは私に手を合わせた。
「お願いします。何でもしますので、一生のお願いです」
何でもする……。
何でもするのか……。
此処で男なら、卑猥な要求なんかする奴も居るのかもしれない。
それもありだ。
私はクリアファイルの下に置かれた厳かな装丁の本を見付けた。
「それは何でしょうか」
私はその本を見て訊いた。
「あ、これは私の卒業アルバムですね。高校の……」
高校の卒業アルバム……。
その中に高校生の上杉さんが居るのか……。
私はその卒業アルバムにそっと手を伸ばした。
当然、これを見るくらいの権利はある筈だ。
「見てもよろしいでしょうか」
上杉さんはその卒業アルバムの上にドンと手を置いた。
「引き受けて戴けるという事でよろしければ……」
そう来たか……。
まあ、そう来るだろうとは思っていた。
「どうしましょうかね……。今一つ、卒業のイメージが湧かなくて……」
これでどうだ……。
上杉さんは口を瞑り、片方の口角だけを上げる。
そしてそっと卒業アルバムから手を離した。
「先生の卒業アルバムって無いんですか。それがあった方がよりイメージも湧くと思うのですが……」
私の……。
そんなモノ、面白くも何とも無い。
私は再び、上杉さんの卒業アルバムに手を伸ばした。
するとまた上杉さんはそれを手で押さえる。
「何処かにあるとは思うのですが、何処に行ったのか……」
と私は手を引っ込めて、コーヒーカップを取った。
「あの……」
私はコーヒーを一口飲んで訊いた。
「はい……。何でしょうか」
上杉さんは私をじっと見たまま言う。
「そんなに見せたくないモノなら、何故此処へ……」
私はカップを置いて訊く。
上杉さんは少し黙って、
「何かのウェポンになればと思い……」
上杉さんは真っ直ぐな人だ。
そこは正直に言わないのでは無いだろうか。
私は笑いを堪えて、冷静な表情で言う。
「やっぱり恥ずかしいですか」
「はい。パンツを見られるよりも……」
私は堪えていた笑いが出てしまった。
笑う私に上杉さんは、
「な、何か可笑しな事言いましたか」
と言う。
私はしばらく笑っていた。
「いや、参りました」
私はサンドイッチをもう一つ取った。
「書きますよ。書きますから」
そう言うと素早く上杉さんの卒業アルバムに手を伸ばした。
しかしまた上杉さんはそのアルバムを手で押さえた。
「なかなかやりますね……」
私は上杉さんに言う。
「ええ、私のアイデンティティに関わる事なので」
真剣な表情に私はまた笑った。
「あまり変わりませんね」
私は上杉さんの卒業アルバムの写真を見てそう言ったのだが、これは嘘。
面影はあるのだが、同一人物と捉えるには少々時間が掛かる。
ふっくらした頬と眼鏡、それにショートヘア。
制服姿も手伝って、なかなかのレトロ感に近いモノを味わえた気がした。
上杉さんは顔を隠して恥ずかしそうにしている。
パンツを見られるよりも恥ずかしい程なのだから、この姿は正しいのかもしれない。
昔は良く、違う学校の友人の卒業アルバムを見て、「この子が可愛い」とか「この子知ってる」などと盛り上がったモノだった。
しかし、卒業アルバムが大人になった時に如何に役に立たないモノかを証明する事が出来た。
「先生、もう良いですか。返してもらっても」
と上杉さんは言う。
実はもう既に三度目の解放要求だった。
「いや、もう少し見せて下さい」
私はニヤリと笑い言う。
あれから半時間程の攻防の後に、その時間が無駄な事を上杉さんに説明してようやく卒業アルバムを見ている。
私はそのアルバムを捲り、ふと気付いた。
「今の卒業アルバムには住所録は載ってないんですね」
卒業アルバムを高額で買い取る業者が居る時代。
そんなモノを載せる事も無いだろう。
「そうですね……。個人情報の流出の恐れがありますし」
私は顔を隠したまま言う上杉さんの前に、卒業アルバムを閉じて置いた。
しまった。
上杉さんの写真をスマホで撮っておけば良かった。
私はそう思ったが、それをやると彼女は多分怒るだろう。
「さあ、では書きますか……」
私は立ち上がる。
上杉さんは真っ赤にした顔をようやく見せた。
正直、あまり考える必要も無い原稿。
それっぽい事をさっさと書いてしまおう。
私はそう考えながら書斎へと入った。
上杉さんも私に着いて書斎へと入って来た。
「仰げば尊し……。歌いましたか」
私はキーボードを叩きながら上杉さんに訊いた。
「あ、いえ……。私の一つ前の卒業生は歌ってましたけど、私の時は無かったですね」
君が代に続いて仰げば尊しも無くなったか……。
私は無言で頷く。
「上杉さんにとって卒業ソングって何ですか」
上杉さんは少し考えて、
「卒業式で歌った歌は校歌だけですね。友達の学校ではEXILEなんかを歌ったって言ってましたけど」
卒業式でEXILEか……。
やはり時代は変わったな……。
「泣きましたか」
「え……」
私はモニターの横から顔を出して上杉さんを見た。
「卒業式で、泣きましたか」
上杉さんは口を瞑ると頷き、
「泣きましたね……。確か」
私は上杉さんに微笑み、またモニターの陰に隠れてキーボードを叩く。
「先生の時は、卒業ソングって何ですか」
私は手を止めて少し考えた。
「あまり記憶には無いのですけど……。卒業ソングって言って思い出すのは「卒業写真」ですかね」
「ああ、あの松任谷由実さんの」
私はモニターの陰からまた顔を出した。
「正確には荒井由実さんですね」
上杉さんは頷いていた。
「尾崎豊さんの「卒業」なんて言うのもありましたね」
私はまたキーボードを叩いた。
「そう考えると時代と共に変わるモノですね」
昔の自分の姿を見られたからなのか、少ししおらしい上杉さんだった。
私は上杉さんに頼まれた原稿を一時間程で書き、上杉さんにメールを送った。
「はい、送りましたよ」
と上杉さんに声を掛けた。
しかし返事が無い。
モニターの陰から顔を出して上杉さんを見ると眠っているのが見えた。
私はそれを見て微笑み、昨日書き上げていた原稿も上杉さんに送った。
私は上杉さんを書斎に残して、ダイニングへと戻る。
そしてコーヒーメーカーにコーヒー豆をセットしてコーヒーを淹れた。
コーヒーが出来るのを待つ間、私はテーブルの上にそのままだった上杉さんの卒業アルバムを開いた。
少しルール違反の様な気がして、罪悪感を覚えたが……。
卒業アルバムなんて必要なのだろうか……。
大人になると見返す事も無い。
しかもこのアルバムの制作費はかなり高額で、今は希望者のみの購入になっている学校もあると言う。
そして今は写真がデジタル化し、こんなアルバムに残すよりもデジタルで残す方が効率も良い。
USBメモリやDVDの類で写真を渡す方が現代らしいのだろう。
何なら動画で残す事も可能だ。
その辺りも時代と共に変わって行くモノなのだろう。
私は視線を感じて振り返った。
そこには上杉さんが腕を組んで立っていた。
「あ、起きましたか」
私は上杉さんに微笑む。
しかし上杉さんは私の傍にドスドスと歩いてやって来て、卒業アルバムを取り上げた。
「何を見てるんですか……」
私は頭を下げた。
「いや、二度と見れないと思うと、もう一度見ておきたいと思いまして」
私はカップを出してコーヒーを注いだ。
「コーヒー淹れ直しましたので、どうぞ」
と椅子に座った。
上杉さんは私の向かいに座ると、じっと私を睨む様に見ていた。
そして、
「やっぱりアンフェアです」
と突然言い出した。
「アンフェア……。と、言いますと……」
私は口元でカップを止めて上杉さんに訊いた。
「私も先生の卒業アルバムが見たいです」
上杉さんは身を乗り出して言った。
そんなモノ。
一ミリも楽しい事なんてある筈も無いのに……。
「先生も見られると恥ずかしいんですね」
恥ずかしい……。
そんな感覚はまったくない。
ただ面白くも何とも無いモノだと言うだけなのだが……。
「私のだけ見て、ズルい」
私は真剣な表情の上杉さんを見た。
そして微笑む。
「わかりましたよ。探してきますので、少し待ってて下さい」
私はカップを置いて立ち上がった。
確か書斎に普通に立ててあるのだが……。
私は書斎の本棚の隅に立てたアルバムを手に取った。
それを持ってダイニングへと戻る。
「これでフェアトレードですね」
とアルバムを上杉さんに渡した。
上杉さんはそのアルバムを受け取ると、そのページを一枚一枚捲って行きます。
友人が生まれた子供の写真を毎日毎日送って来る時期があった。
正直、子供の写真を毎日送られても……と思った事があり、もらった方は昨日との違いがまったくわからなかったりもする。
友人から送られてくる子供の写真は年に一度で良いと思った。
上杉さんは私の卒業アルバムをどんな気持ちで見ているのだろうか……。
私はその感覚がわからなかった。
「面白いのか……って思ってるんでしょ」
上杉さんは私を見て笑った。
「ええ……。そんなアルバムの何が面白いのかと思いまして……」
私はコーヒーを飲みながら答える。
「じゃあ、先生は私のアルバムの何が見たかったんですか……」
その言葉に私は固まった。
私は純粋に高校生の上杉さんを見たかったから。
ん……。
何故見たかったのか……。
別に今とのギャップを笑おうと思った訳では無い。
じゃあ何故……。
口では、卒業のイメージを作りたかったなどと言った。
しかし、それだけじゃない筈。
私は上杉さんの何かを知りたかった。
何かとは……。
私はその何かを避けているのだろうか。
何かとは何だ……。
視線を上杉さんに戻すと、じっと私を見る二つの目があった。
私は慌てて目を逸らす。
そしてもう一度上杉さんを見ると、上杉さんはニヤリと笑って、
「見つけましたよ。先生」
と言う。
高校生の時から老けて見えた私。
今もそんなに変わらない筈だ。
変わったと言えば体重が増えた事くらいか。
「先生、やっぱり可愛い」
上杉さんはそう言うとクスクスと笑い出す。
ひ、人の写真を見て笑うとは失敬な……。
なんて事を言える筈も無く、私はコーヒーのお代わりを注ぐ。
「先生って若い頃と今のイメージにギャップがあるんですけど……」
私はカップを置いて、上杉さんの横に立った。
確かにギャップはあるのかもしれない。
私が作家になり、初めての本を当時の担任の先生に献本した。
その礼状に、
「お前が作家になるなんて夢にも思わなかった」
と書いてあった。
当時の私を知る人間は皆、そう言うかもしれない。
そんな事を考えていると、上杉さんに当時の私を見られるのがたまらなく恥ずかしいと思った。
「そろそろ、終わりにしましょうか」
私は卒業アルバムに手を伸ばす。
「ダメです。一晩中でも見ますから」
いやいや、それは流石に……。
「面白く無いでしょう。そんなモノ」
「最高に面白いです。ピューリッツァー賞あげたいくらいです」
「そんな訳無いでしょう」
「ダメです。まだ返せません」
私と上杉さんはそんなやり取りをした。
上杉さんは小一時間、私の卒業アルバムを見ていた。
そしてようやく私の手にそのアルバムは返って来た。
上杉さんは思い出したかの様に私が送った原稿を会社に転送していた。
「先生、助かりました」
上杉さんは改めて頭を下げていた。
「いえいえ、困った時はお互い様です」
私はそう言った。
ん……。
私が困った時って、何をしてもらえてるんだったかな……。
一瞬だがそんな事を考えた。
「ちゃんとギャラはお支払いしますので、安心して下さい」
ギャラの話では無い。
ギブアンドテイクの話だ。
私が困った時に何を……。
「あ、先生、お腹空いたでしょう。何か作りましょうか」
と上杉さんは立ち上がった。
まあ、これもギブアンドテイクの一つか。
私は黙って椅子に座った。
私は自分の卒業アルバムを開いた。
当時の私。
その私でさえ、こんな仕事をするなど考えてもみなかった。
当時から好きで本は読んでいたが、まさか自分が本を書く方になるとは……。
「まさか、こんな未来になるとは、思ってなかった……って顔ですね」
上杉さんは私の横からアルバムを覗き込んだ。
そして彼女も自分のアルバムを開いて私の前に置いた。
「私だってそうですよ。こんな小説家の先生に卒業アルバムを見せるなんて思ってもみなかったですから」
私は上杉さんのアルバムに私のアルバムを並べてみた。
「私たち、高校生の時なら、なかなかお似合いのカップルかもしれませんね」
上杉さんはそう言って笑う。
お似合いかどうかは別として、このアルバムの時間は止まっている。
実際には十五年程の開きがある。
上杉さんが生まれた時、私はもう中学生だった。
「あ、そうだ」
上杉さんはスマホを出し、私のアルバムの顔写真を撮った。
「昔の彼氏だって皆に見せます」
え……。
私は呆気に取られ、言葉も出なかった。
「案外、格好良いって話になるかもしれないですよ」
そう言うとクスクス笑ってコンロで沸騰する鍋にパスタの束を入れた。
私もこっそりスマホを出し、上杉さんの顔写真を撮った。
待て、私が上杉さんの写真を撮っても、
「昔の彼女だ」
なんて自慢する相手も居ない。
どうする……。
上杉さんはキッチンから私を見て笑っていた。
「今、私の写真、撮ったでしょ」
「あ、いや……」
上杉さんはカウンターに手を突いて乗り出す。
「変な事に使わないで下さいよ」
と言った。
変な事……。
変な事って何だ……。
私は手に持ったスマホに映る若き日の上杉さんを見た。
上杉さんはご機嫌でパスタの入った鍋をかき混ぜていた。
テーブルの上に並んだ高校生の私と上杉さんは、変わらない笑顔で笑っていた。
私は二つの卒業アルバムを閉じ、重ねてテーブルの端に置いた。
やっぱり思い出は記憶の中だけで良い。
私は微笑むと、スマホに映る上杉さんの写真を消した。