6話 ホワイトムスクの雪
さっきから担当編集者の上杉さんは窓の外を何度も見て、困った表情でダイニングテーブルに戻って来る。
それもその筈で、窓の外は大雪、一時間程で窓の外を真っ白な世界に変えてしまった。
「来る時は降ってなかったのに……」
上杉さんは私の向かいに座ると、マグカップを両手で持って飲んでいる。
「まあ、降りそうな気配はありましたけどね……」
私も窓の外を見て、しんしんと降り積もる雪を見た。
確かに東京で此処まで雪が積もるのは珍しく、外に出て雪合戦でもしたい気分だった。
しないけど。
ダイニングに置いた二十四型の小型のテレビは徐々に麻痺していく東京の交通網を知らせていた。
「今なら電車で帰れますね……」
上杉さんは、
「電車だと駅から結構歩くんですよね……。タクシーが居れば良いですけど」
そう言ってデキャンタからコーヒーをカップに注いだ。
「雪、止みますかね……」
私は、テーブルの上のタバコの箱を取り、一本咥えた。
「どうでしょうね……。テレビでは明日迄降るって言ってますね……。十年に一度の大寒波って言ってますし」
大雪で街が麻痺するとか、台風で停電するとか、そんな緊急事態になると私は何故か胸が躍るタイプで、困り果てている上杉さんには悪いが、ワクワクしている。
「最悪、泊って行けば良いんですよ」
私は何気なくそう言うとタバコに火をつけ、煙を吐いた。
ふと視線を上杉さんに戻すと、完全に疑いの眼差しで私を見ていた。
「先生、私に何かする気でしょう」
私は思わず咥えたタバコを落してしまい、慌ててそれを拾う。
「ま、まさか……」
上杉さんは動揺した私を見て、表情を変えてクスクス笑い出した。
こんなからかい方をして上杉さんは楽しむ癖がある。
上杉さんは傍にあったクッキーの箱を開けてテーブルの真ん中に置く。
「北アメリカの大停電。先生知ってます」
北アメリカの大停電。
一九六五年に起きたアメリカとカナダに跨る大停電で、オンタリオ、コネチカット、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、ロードアイランド、バーモント、ニュージャージー、ニューヨーク州に約十二時間電力供給がされなかった。
「あの停電の十か月後にベビーブームが起こってるんですよね。人間って危機を感じると子孫を残そうと本能的に感じるんだそうですよ」
上杉さんはクッキーを摘まむと口に入れた。
私はタバコを吸いながら頷いた。
「それは確かにあるのかもしれないですね……」
私はまた窓の外を見た。
「じゃあ十か月後に産科は混み合うんですかね……」
しかし、大雪がそれに当たるとすれば雪国の出生率は高いという事になる。
いや、大雪に慣れてしまい、生命の危機なんて感じなくなってしまっているのかもしれない。
私はふと我に返り、上杉さんを見た。
上杉さんは頬杖を突いて私を見ていた。
「う、うちには客間もあるんで……」
私は、タバコを慌てて消し、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
上杉さんは私のマグカップにコーヒーを注いだ。
「しかし、都会の人って雪に慣れていないので、ちょっと雪が降ると麻痺しちゃいますよね」
上杉さんは私の前にカップを置いて椅子に座った。
「確かに言えてますね。上杉さんは御殿場生まれだと雪には慣れてますよね」
「ええ、でも言う程積もったりはしないんですよね。まあ、東京よりは雪には慣れてますけど」
私は頷き、箱からクッキーを一枚取り口に入れた。
テレビから電車が幾つか停まっているとのニュースが流れた。
「停まっちゃったみたいですね……」
「はい……」
上杉さんは呆然とそのニュースを見ている。
私は立ち上がり、リビングの窓から外を見た。
上杉さんの赤いアウディにも分厚い雪が載っていた。
気が付くと上杉さんも私の横に立ち、外を眺めている。
「白い雪に覆われると、いつもと違う街に見えますね……」
上杉さんは静かに言う。
確かに。
見慣れた風景ではない気がする。
私は、雪が落ちて来る曇った空を見上げた。
「止みそうにないですね……」
私はダイニングテーブルに戻り、コーヒーを飲んだ。
上杉さんはまだ雪の降り積もる街を見ている。
アフタヌーンティの時間も終わり、私は書斎に入り仕事をする。
上杉さんもリビングのソファでパソコンを広げて仕事をしていた。
書斎の窓から外を見ても先程と変わらず、雪が落ちてきている。
それどころか更に雪は強くなった気がする。
「先生」
書斎の入口から声がして私はそこに立つ上杉さんに目をやる。
「はい。どうかしましたか」
上杉さんは私の傍まで来て、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すみません。雪が止まなければ、今日、泊めて戴いてもよろしいですか」
改めて言われると少しドキッとする。
「あ、ああ、良いですよ。客間ありますので使って下さい。狭いですけど」
私は上杉さんに微笑む。
上杉さんは頭を下げて、礼を言った。
「ありがとうございます。ちょっと買い物に行ってきますので……」
そう言うと書斎を出て行った。
私は窓の外を見た。
この雪の中、買い物……。
そこのコンビニまでなら大丈夫だろう……。
私はパソコンのモニターに視線を戻し、仕事を続けた。
玄関から傘を差して出て行く上杉さんの姿が見え、私はそれを目で追う。
どうやらコンビニへと向かった様だった。
私はまた原稿を書き始める。
どのくらい原稿を書いていただろうか、気が付くと窓の外は薄暗くなり始めていた。
そして雪は一向に弱まらず、更に周囲を白の世界にしていた。
そう言えば、上杉さんはいつ帰ったのだろう……。
私は書斎を出てリビングを見た。
ソファに上杉さんの姿は無い。
あれ……。
客間かな……。
私は客間のドアをノックしたが、反応が無い。
そっとドアを開けると客間にもいなかった。
慌てて玄関を見ると上杉さんの靴は無く、まだ帰っていない様子だった。
私は上杉さんの電話を鳴らした。
するとそのコールはリビングから聞こえて来る。
リビングへ行くと、パソコンから充電している様だった。
窓の外を見ると、さっきよりも雪は強くなっていて、正に吹雪の様に辺りに降り積もっていた。
もう、あれから二時間近くは経っている。
コンビニまでなら往復してもせいぜい三十分程度だろう。
私は上着を来て、外に出た。
何処迄行ったのだろうか……。
私は近所のコンビニへと急いだ。
傘も差さずに出てしまったので、髪や服は直ぐに雪がまとわり付く。
コンビニの中に入り、上杉さんを探したが、見当たらなかった。
一体、何を買いに出たんだ……。
私はコンビニの先を曲がった所の大通りに出た。
雪のせいで車も少ない。
不安定な足元を気にしながら私は大通りを走った。
少し行った所にスーパーがあった。
夕食でも作ろうとしているのだろうか。
私はそう思い、スーパーの中に入った。
既に全身が雪に濡れ、私はスーパーの入口でその雪を払った。
スーパーの中を前髪から滴る雫を気にしながら回った。
しかし、此処にも上杉さんの姿は見当たらなかった。
私はまた外に出て、国道を歩く。
この先は人通りもあり雪が踏み固められていて走ると滑る。
私は慎重にその歩道を歩いた。
泊る事になったので、服を買っているのか……。
私はそう思い、カジュアルウエアの店を覗いた。
服も髪も濡れているので、中に入る事を躊躇したが、とりあえずタオルを買い、濡れた髪を拭いた。
そして店の中を一周したが、そこにも上杉さんの姿は見当たらなかった。
私は外に出て、吹雪く雪の中を歩いた。
もう思い付く店が無いので、そのあたりの店を片っ端から覗き込むが、上杉さんらしい人は見当たらなかった。
気が付くと日も暮れて、雪の積もった静かな街だけが静かに佇んでいる様だった。
もう帰っているかもしれない。
私は家に引き返す事にした。
いつもなら車で行く距離を歩き回った。
慣れない雪の上を歩くと普段使わない筋肉を使うのだろう、やけに足腰が重い。
元日に偶然行った神社の鳥居が見えた。
結構歩いたな……。
私は温かい缶コーヒーを買い、それを飲みながら少し店の軒下で休んだ。
買ったタオルも冷たく冷えていたが、それでまた頭に積もった雪を拭いた。
缶コーヒーで少し温まり、ザクザクと音を立てながら雪の中を歩く。
こんなに東京に雪が積もった記憶はそう何度も無い。
いや、此処まで積もった事は私が住み始めてからは一度も無いかもしれない。
角を曲がり家が見えた。
もう一度コンビニまで行ってみるか……。
私は家を通り過ぎて近くのコンビニへと向かった。
コンビニの駐車場にも車は無く、普段は見えるアスファルトも真っ白に雪に覆われていた。
コンビニの店の中で、窓際に並ぶ雑誌を見ている上杉さんの姿が見えた。
上杉さん……。
私はコンビニに入り、上杉さんの肩を叩いた。
「何処に行ってたんですか……」
私は息を切らしながら上杉さんに訊いた。
「あ、先生……」
上杉さんは私の髪や肩に積もる雪を払った。
「どうしたんですが、風邪ひいちゃいますよ」
私は、肩で息をしながら、上杉さんを連れて店の外に出る。
「探したんですよ。あまりに帰りが遅いもんですから……」
私は白い息を吐きながら上杉さんに言う。
「すみません。土地勘が無いモノで、迷ってしまって……」
コンビニの外に置いてあった傘立てから傘を取り、私の上にその傘を広げた。
「帰ったら鍵が掛かっていて、中に入れなかったモノで……」
そうだった。
このコンビニまで行くつもりで鍵を掛けて出てしまっていた。
「せめて電話は持って出て下さい」
私は安堵からか、一気に疲れが出た様な気がした。
膝に手を突いて、息を吐いた。
「国道沿いで服とか、夕飯の材料とか買ってたので……」
上杉さんは大きな袋を幾つも提げていた。
私は、その袋を上杉さんの手から取り、力なく微笑む。
「とりあえず帰りましょう。こんな雪の中じゃ冷え切ってしまったでしょう」
私はサクサクと音の鳴る雪の上を歩いた。
鍵を開けて家の中に入る。
私も上杉さんも玄関で上着を脱いで、その上着を玄関のハンガーに掛けた。
流石に上着からも雫が滴る様に落ちていた。
暖房の効いたリビングに入って初めて、外気が如何に冷たかったを実感した。
「シャワー使って下さい」
私が言うと、
「先生の方が濡れてますよ。先に使って下さい」
と私が肩に掛けていたタオルで私の濡れた頭を上杉さんは拭いた。
確かに傘も差さずに一時間以上、雪の中を走り回っていた。
私は自分の姿に気付き、
「そうですね……。じゃあお先に失礼します。直ぐに出ますので……」
と言うとバスルームへと入った。
熱いシャワーを出して、頭から浴びると少し暖まった気がした。
足先の感覚も戻り、生き返った気持ちだった。
シャワー終えて、いつもと違いちゃんと服を来てリビングへと出た。
「上杉さん、シャワー使って下さい」
私はソファに座る上杉さんに声を掛ける。
「上杉さん……」
私は返事の無い上杉さんに近付くと、座ったまま寝ている様子だった。
私は客間のベッドから毛布を持って来て上杉さんに掛けました。
多分、慣れない街の雪の中を歩き回ったせいで疲れたのでしょう。
ソファの上には部屋着や下着が広げられていて、そのタグを取っていた様です。
私はクスリと笑い、そのタグを捨てた。
そして夕飯を作ろうと買ってきたのだろうか、スーパーの袋をダイニングテーブルの上に置き、食材を冷蔵庫に入れた。
料理をしない私には食材を見ても何を作ろうとしていたのかさっぱりわからず、とりあえず冷蔵庫に入れるしかなかった。
その後、私は書斎に戻り、書きかけの原稿を書いた。
上杉さんが目覚めたのはそれから一時間程してからの事だった。
「先生」
上杉さんは書斎の入口で立っていました。
「あ、置きましたか……」
私はちらと上杉さんを見てまたモニターに視線を戻す。
すると上杉さんは手に下着を持ったまま私の傍に来て、
「どうして起こしてくれないんですか……」
と言います。
そして手に下着を持っている事に気付き、それを身体の後ろに隠しました。
「気持ち良さそうに眠っておられたので……」
椅子をくるっと回し彼女の方を見て微笑んだ。
「お風呂、お湯張っておきましたので、ゆっくり入って来て下さい」
彼女は何かを言おうとして飲み込んだ様子でした。
そして、
「ありがとうございます」
と言うと書斎を出て行った。
私はその背中を見て微笑み、また仕事に戻った。
女性の風呂は長いと言うが、上杉さんはあっという間に出て来た。
「お風呂戴きました」
上杉さんは髪を拭きながら言う。
「あ、ドライヤー」
彼女の濡れた髪に気付き、私が立ち上がろうとすると、
「あ、いえ、自然乾燥派なんです」
と上杉さんは言う。
ドライヤーの熱で髪が傷むので自然乾燥を好む女性もいると聞いた事があった。
「何か作りますね……。お腹空いてますよね」
いつもなら何処かに食べに行きましょうと言うのだが、今日はそんな訳にも行かない積雪で、食事に関しては彼女に頼むしか無い様だ。
「すみません……」
私が頭を下げると上杉さんはキッチンへ向かった様だった。
小一時間経った頃に、また上杉さんが書斎の入口に立って、
「先生、夕飯出来ましたよ」
と言い直ぐにダイニングへと戻って行きます。
私は、
「はい」
と返事をし、書き掛けの原稿を保存してダイニングへと向かった。
サラダとチキンステーキ、それにスープがテーブルに並んでいた。
「なかなか豪勢な食事ですね……」
私は自分の椅子に座った。
スライスしたバケットがテーブルに置かれ、小さな皿にカラシが載っています。
「さあ、食べましょう。お腹ペコペコなので」
上杉さんも流石にこの時間にはお腹が空く様です。
時計はもう夜の九時を回っていました。
「戴きます」
私は手を合わせると、早速スープをスプーンで掬い口にします。
「いかがですか」
上杉さんは私を覗き込む様に見ていた。
私が顔を上げて、
「とても美味しいですよ」
と答えると、上杉さんは嬉しそうに微笑み、
「良かった……」
と言う。
「あ、先生、何かお酒、飲まれますか」
とスプーンを置き、立ち上がろうと上杉さんは椅子を引く。
私は、首を横に振り、
「私は、食事は食事、お酒はお酒なので……。でも、上杉さんは飲んで下さいよ」
上杉さんはクスクスと笑うと、
「私も同じです」
と言って座り直しました。
「しかし良く降りますね……」
と窓の外を見て上杉さんは言う。
私も同じ様に窓の外を見る。
確かに良く降る雪だ。
もう何時間振り続けているのかわからない。
「まあ、うちは何日居てもらっても構わないので」
と私は冗談で上杉さんに言った。
すると上杉さんは、
「そんな事したら噂になってしまいますよ。先生は有名人ですし」
そう言って笑った。
私は独身だから、そんな噂は屁でも無い。
そう言おうとして止めた。
また変な誤解をされても困る。
「まあ、私は独身なので、先生と噂になっても一向に構わないのですけどね」
と上杉さんが言う。
スープを飲む手を私は止めて、クスクスと笑ってしまった。
「何が可笑しいのですか」
上杉さんはチキンステーキを口に運ぶ手を止めた。
しかし、此処で同じ事を考えていたなどと言える訳も無く、私は黙ってバケットにカラシを塗り口に入れた。
そう。
お互いに独身なのだから、そこに問題は無い。
ただ問題があるとすれば年齢の差。
親子程とは言わないが一回り以上離れている。
そんな私が上杉さんを嫁にもらおうとご両親に挨拶に行くと、きっと反対されるに決まっている。
それに私の友人たちには、若い嫁を貰うと半ば犯罪者の様な冷やかし方をされる。
作家仲間にはどうだろうか。
出版社の関係者と結婚すると、この先安泰などと言われる事があるのだろうか。
私は食事をしながら妄想した。
しかしこれは単なる妄想で、一ミリの現実味も無い。
「そう言えば、結婚」
上杉さんの口からそんな言葉が漏れる。
「え……」
私は慌てて声を上げた。
「ほら、年末に言っていた従妹。結婚の許しが出まして」
「ああ、そうですか。良かったですね」
私は水を取り、口の中のモノを流し込む。
「何か、厳しいご両親だとか仰ってたので、どうなったのか気になっていたんです」
上杉さんはバケットを食べながら、
「厳しいのはうちの父の方ですね。そういう順番を守らないとか、仕事だとか、年の差だとかにうるさいんですよ」
うるさいのか……。
私は顔を引き攣らせて笑った気がした。
「例えば先生が私と結婚する事になったとしたら、色々と突っ込まれそうな気がしますね」
例えばって……。
「例えばどんな所を……」
私も訊かなきゃ良いのに……。
「まずは私と先生の所得の差、生活文化の差、年の差もかな……」
上杉さんはサラダを食べ、
「先生って初婚って年じゃないじゃないですか。本当に初婚なのかとか訊かれる可能性大ですね」
まあ、妄想の世界の話だから……。
私は、苦笑して頷きます。
「所得の差なんて、私も超売れっ子作家とは違いますんでそんな変わらないじゃないですか。それに生活文化水準は上杉さんより私の方が低いですし……。年は……そうですね、結構離れている気はしますけど」
「あら、年こそ関係ないんじゃないですか。私と先生くらい年の離れた夫婦なんて沢山いますよ。現にうちの編集長なんて、三年前まで高校生だった奥さん居ますしね」
私は驚いて顔を上げた。
「え、永井さんの奥さんってそんな若いの……」
上杉さんの会社の編集長の永井さん。
多分、年は私よりの上だ。
それでも二十歳そこそこの奥さんをもらったらしい。
「何か熱出して倒れた時に奥さんに看病されて、キュンって来ちゃったらしいですよ」
何とも漫画の様な話だ。
私は永井さんを想像しながらその話を聞いていた。
「二回り以上の差ですからね……。ロリコン編集長と奥さん」
「ろ、ロリコン……」
上杉さんはチキンステーキを食べながら頷く。
「だって下手すれば孫の年ですよ」
そう言って声を出して笑った。
ほら、やっぱりこう言われるんだな……。
私はまた苦笑した。
食事を終えて、私はリビングでコーヒーを飲んでいた。
どうもおかしい。
頭がすっきりしなかった。
「先生、お酒でも飲まれますか。暖まりますよ」
上杉さんは買ってきた部屋着の上にカーディガンを着て、洗い物を済ませていた。
「いや、今日はやめておくよ。上杉さんは好きに飲んで」
私はコーヒーを飲み干し、そのカップをダイニングテーブルの上に置いた。
「ご馳走様」
そう言って、棚から体温計を探した。
「何かお探しですか……」
上杉さんが後ろから訊いて来る。
「体温計をね……。何か少し熱っぽくて……」
すると上杉さんは直ぐに体温計のある引き出しを開け、私に渡した。
「雪の中ビショビショになるからですよ」
私はそれを受け取って、上杉さんに頭を下げた。
誰のせいで、ああなったと思ってるんだ……。
私は体温計を脇に挟み、リビングのソファに座った。
ピコピコと検温が終わった音が鳴った。
三十八度。
ダメだ……。
完全に風邪をひいた。
私がその表示を見ていると、横から上杉さんも覗き込んでいた。
「先生、熱あるじゃないですか」
「あ、ああ。そうみたいだな……」
「もう寝て下さい。ほら」
子供でもあしらうかの様に私に言う。
そして私を寝室へと押し込む様に連れて行く。
そして私をベッドに寝かせると、
「冷やすモノ持ってきますので、ちゃんと毛布も掛けて……」
と私に布団まで掛けて、部屋を出て行った。
「どおりでしんどい訳だ……」
自分の熱を知ると一気に病人になる人が居るが、私もそのタイプ。
身体が急激にだるさを覚える。
そして、私はそのまま眠ってしまった様だった。
気が付くともう朝方の時間だった。
ただ私の寝室には窓が無く、外の光が一切入って来ない作りになっている。
ベッドの脇にある小さなライトが点いていて、私はベッドの端に伏せて眠る人影を見付けた。
「上杉さん……」
上杉さんはどうやら私の看病をしてくれていた様だった。
サイドボードの上にあった体温計を取り脇に挟んだ。
三十六度七分。
かなり楽になった。
伏せて眠っている寒そうな上杉さんを、ベッドの中に引っ張り込む訳にも行かず、私は上杉さんの肩を叩いて起こした。
「あ、先生……」
上杉さんはゆっくりと身体を起こし、
「熱は下がりましたか」
と言う。
「ああ……」
上杉さんは安堵の笑みを浮かべまたベッドの端に顔を伏せた。
私は伏せて寝てしまった上杉さんをどうするか迷い、結局朝まで眠れなかった。