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4話 ホワイトムスクの黄昏





 静かな午後。

 私は少し微睡んでいた様で、窓から差し込む、暖かな日差しが私を照らしてくれていた。


 おっと、いけない。原稿を仕上げなければ……。


 私はスリープモードになってしまっていたパソコンの画面を上げる。

 スリープモードならまだ良いが、キーボードのキーを押したまま微睡んでしまう時などは原稿いっぱいに同じ文字が入力されている時もある。


 すっきりしない頭を抱えたまま、私は書斎を出て冷蔵庫へと向かう。

 向かうと言う程の広い屋敷でもないが、冷蔵庫へ向かうのも面倒な時もあるのだ。

 勢いよく冷蔵庫を開けると、アイスコーヒーのボトルを出し、愛用のグラスに氷を入れたモノに注ぐ。


 既にカフェインなんて生易しいモノで私の睡魔に打ち勝つ事など出来ないのだが、とりあえず出来る事はしようという事だ。


 グラスを持って書斎に戻ると、またパソコンに向かい、ズレる眼鏡を上げた。


「長編を年末までに一篇お願いします」


 上杉さんにそう言われたのは確か春先だった気がする。

 連載を一本、短編を月に二本、コラムと、脚本なんかもやっている。

 その合間を縫って長編を……。

 私は他の作家と比べて、忙しいのだろうか……。

 良くわからないが、休みらしき休みは特にない。

 気がのらず進まない日もあったり、通常の三倍程書いてしまう日もある。

 しかし既に曜日の感覚は無く、編集者の上杉さんがやって来る日で曜日を知る。

 そんな生活だった。


 しかし、冬の午後の日差しとホワイトムスクの香りはどうも私の中の睡魔と結託し、眠りの世界へと私を誘うつもりらしい。

 私はタバコに火をつけ、その暖かな日差しに背中を押された睡魔と戦う事にする。


「眠い時は少し仮眠された方がすっきりして仕事は進みますよ」


 と上杉さんは言うのだが、締め切りが近くなると、


「寝てる暇なんて無いですよ。さっさと終わらせて一気に寝る方が先生もよろしいのでは」


 なんて言って来る。

 どっちが本当の上杉さんなのか……、何て考えるのだが、勿論どちらも上杉さんである事は言わずもがなといったところだろう。


 一向に原稿は進まず、同じシーンを書いては消し、消しては書きを繰り返している。

 原稿用紙にペンで原稿を書いていたら、それこそ部屋中に丸めた原稿用紙が散らばっていただろう。


 冷たいアイスコーヒーを一口飲み、タバコを消す。

 そして窓の外で弱い風に揺れるオリーブの樹を見た。

 艶の無いオリーブの小さな葉はカサカサと音を立てて春を待つ。

 今年はその樹に六つの実を付けた。

 そのままにしていたので、いつの間にか無くなっていたのだが。


 ダメだ。

 まったく原稿に身が入らない。

 もう約束の年末までは数日しかなく、そこまでに仕上げなければいけないのだが、どうしてもクライマックスのシーンにインパクトを付ける事が出来ず、苦しんでいる。


 多分、私には作家としての才能が無い。


 書けずに苦しむ度にそれを考える。

 今年も何度それを考えたか、覚えているだけでも両手の指では足らない。

 懇意にして下さる椎名先生なんかは、書き出す前にクライマックスからラストシーンを考えるらしく、そのシーンに向けて物語を進めて行くらしい。

 私も次回はそれに挑戦してみようと思っている。


 車の音がしてガレージに赤いアウディが入って来るのが見えた。

 どうやら上杉さんがやって来た様だ。


 今日は上杉さんの訪問日では無い筈なのだが……。


 私は書斎を出て、玄関へと向かい、ドアの鍵を開けた。

 車のドアが閉まる音がして、玄関のドアが開いた。


 荷物を抱えているのか、ドアが開くまでに時間が掛かっている。

 そしてゆっくりとドアが開き、外の冷たく冷えた大気が流れ込む。


「いらっしゃい」


 私は上杉さんに声を掛けた。


「はい、いらっしゃいました」


 上杉さんは薄く開けたドアの隙間に体を捻じ込む様に入って来る。

 そして、


「先生、これ持って戴けますか」


 と、手に持った紙袋を私に差し出した。

 私はその袋を取り、その重さに驚いた。


「何が入っているのですか……」


 私は底が抜けそうな紙袋を抱かかえて、ダイニングへと入った。

 玄関の鍵を閉めて、後から入って来る上杉さんは、


「先生へのクリスマスプレゼントとかお歳暮とか、編集部に届いたモノですよ」


 と、もう一つ持った紙袋を上杉さんもダイニングテーブルの上に置いた。


「今年は重いモノが多いですね」


 上杉さんは上着を脱いで、椅子に座った。

 私もそれを見て、向かいの椅子に座る。


「いつもすみませんね……」


 私は年末の激務に疲れた顔の上杉さんに言った。


「これも先生の実績のバロメーターの一つなので、私としても鼻が高いですよ」


「そんなモンなんですかねぇ……」


 私は微笑んで胸のポケットからタバコを出した。


「甘いモノ買ってきましたので、コーヒーでも淹れましょう」


 と上杉さんは立ち上がった。

 私は無言で頷くと、


「じゃあ私は原稿を進めますね」


 と立ち上がった。

 上杉さんはそんな私に無言で頷き、ケーキの箱をテーブルの上に置いた。


 書斎に戻ると、またパソコンがスリープモードになっていて、私はまたそれを立ち上げる。

 当たり前だが、先程から何も進んでいない。

 小人の靴屋みたいな奇特な人が居て、どんどん原稿を進めてくれれば良いのに……。

 などと思う事もある。

 作家とは本当に苦しい仕事だ。

 書けなくなって自ら命を絶った作家が大勢いる事も理解出来るが、私はそんなタイプでは無い。

「書けないから辞めてしまおう」と考えてしまうタイプだ。

 仕事なんて何でも良いし、飯が食える程の稼ぎで十分なのだからと考えてしまう。


 カチャカチャとキーボードを打ち、数行進める。

 そしてデリートと書かれたボタンを押し、その数行を消す。

 何度これを繰り返すのだろうか……。


「苦しそうですね……」


 書斎の入口に立つ上杉さんは、微笑んでいた。

 上杉さんの気配に気付かなかった私は、その声にピクリと体を震わせた。


「わかりますか」


 私も上杉さんに微笑み、そう言う。


 上杉さんは無言でまた微笑むと、


「コーヒー入りましたよ。糖分取って、少しリラックスしましょう」


 と言い、ダイニングへと戻って行った。

 私は、そんな上杉さんの背中を見送って、立ち上がった。






 フォンダンショコラ。

 チョコレート生地のケーキの中にガナッシュチョコレートを入れて焼く。

 食べる前にレンジで温めて食べる。

 フォークを入れると中のガナッシュが溶けて流れ出す。

 冬にはピッタリのケーキだ。


 白い皿に載ったフォンダンショコラと淹れたてのコーヒーがテーブルの上にあった。


「フォンダンショコラですね……」


 私は椅子に座り、それを見て微笑んだ。


「うーん。正確にはフォンダン・オ・ショコラ、もしくはフォンダントショコラですね」


 向かいに座った上杉さんはニコニコ笑いながらそう言う。

 私はフランス語には詳しくないので、ただ頷く。


「このお店のフォンダントショコラは、外はサクサクで中はトロトロなんですよ」


 上杉さんは手を合わせてそのフォンダンショコラをフォークで割る。

 すると中からトロトロのガナッシュチョコレートが流れ出した。

 私もそれを見て、同じ様にケーキを割った。

 チョコの香りが広がり、食欲をそそる。


「コーヒーはチョコが甘いのでサントスを淹れてみました」


 サントスは苦みに立つコーヒーなのだが、私はこのコーヒーが一番好きだったりする。


 上杉さんには少し苦いらしく、いつもより多めに砂糖を入れる。

 砂糖を入れてスプーンでコーヒーを混ぜる上杉さんの手を見てふと気付いた。


 左手の薬指に指輪が光っていた。


 いつもしてたのだろうか……。

 思い出せない。


 私は横目でチラとその指輪を見て、コーヒーを飲んだ。


 時期的にはクリスマスの後だ。

 誰かと良い仲になり、結婚の約束をしたとも考えられる。

 年齢的にも適齢期であるし、結婚してもおかしくない。

 しかし、そんな素振りは一切無かった。

 いや、そもそもそれを私に伝える必要も無い。

 突然、


「私、結婚したんですよ」


 と言われても、


「あ、そうですか、おめでとうございます」


 としか、私も返す事が出来ないのである。


「美味しいですよね……」


 上杉さんは私の顔を覗き込む様に見て囁く様に言う。


「ええ、とっても……。思ったよりも甘さは控えめなんですね」


 私はフォンダンショコラを口に入れて言った。


「最近は、甘くないチョコが流行っているので……。大人の味ですね……。これならブレンドコーヒーにすれば良かったですね」


 上杉さんはニコニコと微笑み、コーヒーカップに口を付けた。


「いえ、私はサントスが好きなので」


 私もコーヒーを飲んだ。


「長編……。どんな感じですか……」


 上杉さんの左手の薬指の疑問など、一気に吹き飛んでしまい、物凄い速さで現実に引き戻されてしまった。


「ああ、いや……。クライマックスに差し掛かったんですけど、どうしても納得行かなくて……」


 上杉さんはクスクスと笑い、私に指輪が見える様に左手で口を隠した。


「それで苦しんでらしたんですね」


 私は上杉さんがわざと指輪を見せているのかと思った。


「ええ、昨日からまったく進まなくて」


 私はフォンダンショコラの最後の欠片に、流れたチョコを付け口に入れた。


 上杉さんはフォークを置くと、身を乗り出した。


「年末までと言ってましたが、年明けで良いですよ。私ももう仕事納めになりますし、年始に完成すれば……」


 上杉さんは悪戯っぽい表情で微笑む。


「それは私には正月は無いという事になりますね……」


 私はコーヒーをすする様に飲む。


「帰郷なさる予定とか……」


 その言葉に、首を横に振った。


「いえ、もう故郷に帰る家も無いですから。最も父も母もまだ健在ですけど」


「あら、ご両親の話なんて訊いた事無かったですね……。どちらにいらっしゃるのですか」


 確かに上杉さんに両親の話などした事は無かった気がする。

 訊かれない話はしない主義なので、多分、話した事は無い。


「父がリタイヤした後、田舎町に引っ込んで、のんびり暮らしています。一度、行った事はあるのですが、退屈な町でした」


 私の言葉に上杉さんはクスクスと笑った。


「先生、家から出られないじゃないですか。何処に住んでも同じでしょうに」


 確かにそうなのだが、家から出ない事は同じでも、近くにコンビニやドラッグストアがある安心感は欲しい。


「両親の家から一番近いコンビニまで車で約三十分走ります。まあ、その分自然は多いですが……」


 上杉さんは無言で頷いていました。


「先生が、大自然が舞台のお話を書かれるとも思えませんしね」


 私は「同感」と言わんばかりに頷いた。


「最近知り合った方が居て……」


 私はピクリと顔を上げた。

 上杉さんはそれを見て、微笑みながら話を続けた。


「その方は、ご両親が仕事でずっと海外暮らしをされているそうで。帰省しようにも、まず、今、ご両親が何処に住んでいるのかを確認するところから始めないいけないらしくて」


 その男が指輪の贈り主なのだろうか……。


 私はコーヒーを飲み干した。

 すると上杉さんはサーバーのコーヒーを取り、私のカップに注いだ。


「一昨年なんかは、探しはしたものの、両親の家に行くまでに六日も掛かるアフリカの僻地だったらしく、帰省するのを断念したと言ってましたわ」


 上杉さんはクスクスと笑いながら話す。


「そんな僻地で何をされてるのでしょう」


 私はその彼のご両親に興味を持った。


「何か、動物の研究をされておられるらしくて、アフリカとか南アメリカとかシベリア、アラスカ、中央アジア……。決まって辺鄙な所にしか行かないそうですよ」


 私は二杯目のコーヒーに口を付け頷く。


「それじゃコンビニなんて些事ですね」


「ええ、とっても些事ですね」


 上杉さんはまた左手で口を隠して笑う。

 それを見て私は無理に笑顔を作った。


「上杉さんは帰省されないのですか」


 私はカップを置く。


「ああ、今年はどうしても帰らなきゃいけなくて、帰る予定です」


 どうしても帰らなきゃいけないのか……。

 やはり結婚の報告なのだろうか……。


 私は頷き、それ以上訊かなかった。


「まあ、直ぐに戻りますけどね」


 私はタバコを取り咥えた。


「どちらでしたっけ……。ご出身は」


 上杉さんもコーヒーを飲み終えたのか、お代わりを注いでいた。


「御殿場です。富士山の麓ですね」


「良いところですね……。私も何度か行きましたけど」


 私は煙を吐いた。


「それこそ富士山以外、何にもないですよ。まあ、此処から二時間位なんでいつでも帰れるんですけどね」


 私は上杉さんを見て微笑む。


「今年は二人で帰るんで、車なんで、もう少し掛かるかな……」


 二人……。

 やはり結婚の報告なのだろう……。


 私は力なく微笑み、視線をテーブルに落とした。


「先生……」


 私はその声に顔を上げた。


「どうなさったんですか。少し顔色は悪い様に見えますけど……」


 私は慌ててタバコを消した。


「ああ、寝不足なんですかね……。思う様に原稿が進まないとどうしても眠れなくて……」


 私はコーヒーカップを取り、ゴクリと飲んだ。


「少し仮眠なさって下さい。私は適当に帰りますので……」


 上杉さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。


 私は小さく頷くと目を伏せて微笑む。


「じゃあ、少しだけ、仮眠させて戴こうかな……」


 そう言って立ち上がった。

 上杉さんも私と一緒に立ち上がる。

 そして私の腕に手を添えてくれるのだが、その指に光る指輪がどうしても気になって仕方ない。


「帰られる時に声を掛けて下さい。その頃起きて仕事しますので……」


 私はそう言って、書斎の奥にある寝室に向かった。






 一切、窓からの光の入らない寝室に入ると、私はベッドに倒れ込んだ。

 作家なんていつ眠れるかわからない職業で、真昼間でも無理矢理眠る事もある。

 そのために寝室には時間が無い。

 そういった作りにした方が良いと、椎名先生のアドバイスがあり、そんな部屋にした。

 勿論窓はあるのだが、普段から雨戸代わりのシャッターが閉まっている。


 私は間接照明をつけ、薄暗い部屋で天井を見つめた。


 上杉さんの指輪が気になる……。

 何故だ。

 上杉さんが誰と結婚しても私には関係の無い話で、ご祝儀を贈るくらいの事だろう。

 それなのに何でこんなに胸が苦しいのだろうか。

 私は、上杉さんが好きなのか……。

 まさか……。

 年も親子に近い差がある。

 それなのに……。


 私は天井の模様を目で辿りながら考える。

 恋愛小説は苦手で、あまり書かない。

 それ故にわからなくなってしまったのだろうか。

 上杉さんの指輪が気になっているのは、単に事実を探求したいという気持ちからなのだろうか。

 それともやはり……。


「恋なのか……」


 私は小さく掠れた声で呟いた。


 馬鹿な……。

 私と上杉さんでは誰が見ても釣り合わない。

 それに作家と編集者だ。

 そんな事はあってはならない。


 私は自分に言い聞かせる様に目を閉じて何度も繰り返した。


 そして跳ね起きる様に体を起こした。

 そして寝室のドアを開けて部屋を出た。

 リビングの入口まで来ると上杉さんが電話で話をしている声が聞こえて来たので、私は思わず足を止めた。


「ええ、私が車で迎えに行くから……。うん。嫌かもしれないけど、ちゃんと一泊はする準備してきてよ。仕方ないじゃない……ちゃんとしないと」


 私は、上杉さんの会話に聞き耳を立てた。


「仕方無いでしょ……出来ちゃったモンは」


 私は、奈落の底に突き落とされた様な気がした。


 出来ちゃった……。

 そうか。

 上杉さんは子供が出来たのか……。


 私は壁に手を突いて、フラフラと歩くと、書斎に入って椅子に座った。


 私は書斎の机の引き出しから鎮痛剤を一錠毟り取ると、置いておいたアイスコーヒーと一緒に飲み込んだ。

 タバコが吸いたかったが、ダイニングテーブルの上に置いてきたので、取りにも行けず、窓の外を見た。

 さっきまでと変わらない日差しが少し角度を変えて、庭のオリーブの樹に長い影を作っている。


「そうか……出来ちゃったか……」


 私はオリーブの樹を見つめたまま呟く。


 上杉さんは彼氏を連れて御殿場の実家に帰る。

 そして子供が出来た事の報告と、結婚する報告をするのだろう。

 これは多分一般的にはおめでたい話で、私が割って入る話ではない。

 ましてや愛だの恋だのと私が考える話でもない。


 素直に祝福してあげよう。


 私は大きな溜息を吐くと、微笑んでみた。

 上手く笑って祝福出来るのだろうか……。


 私はスリープモードのパソコンのキーボードを叩いた。

 そして完全にフリーズしていた物語の続きを書き始めた。

 切っ掛けの良し悪しは別として、とりあえず書き進める事が出来る事を認識した。


 カチャカチャとキーボードを打つ音が聞こえたのか、上杉さんが書斎にやって来た。


「先生……。仮眠なされなかったんですか」


 私はその声に上杉さんを見るでもなく、キーボードを叩き続ける。


「うん。思い付いたんでね。今のうちに書いておこうと思って」


 上杉さんは私の傍に立ち、モニターを覗き込んだ。


「良かった。けど、無理なさらないで下さいね」


「ああ、ありがとう……」


 私は一心不乱にキーボードを叩き続ける。


「すまんが、ダイニングのタバコを持って来てくれないか」


 上杉さんは直ぐにダイニングテーブルからタバコを持って来てくれた。


「吸い過ぎには気を付けて下さいよ」


 と言いながら机の上にタバコを置く。


「お正月も休んで下さいね。来年も無理を言う予定ですから」


 私は笑いながら言う上杉さんの言葉に顔を上げた。


 来年は産休も取る事だろうし、彼女に迷惑を掛ける訳にはいかないだろうしな。


 私は微笑み、頷いた。


「では、私はこれで失礼しますね。先生も良いお年をお迎えください」


 上杉さんは小さく頭を下げた。

 私もそんな上杉さんに「良いお年を……」と一言言って立ち上がった。


 上着を着た彼女を玄関まで送る。


 上杉さんは靴を履くと振り返った。


「では、年明け、三日にはご挨拶に参りますので」


 再び彼女は頭を下げた。


 私は微笑んで、


「無理しなくて良いよ。新年の挨拶なんて電話でもネットでも……」


 私は床に置いてあった彼女の鞄を取り渡した。


「あら、私の大事な作家先生ですもの。必ず伺いますわ」


 上杉さんはドアの鍵を開けた。

 その指に指輪が輝いていた。


「綺麗な指輪ですね」


 私は上杉さんにそう言った。

 上杉さんは振り向いて満面の笑みを見せた。


「わかりますか。先生、全然気付いて下さらないんで、ちょっとショックだったんですよ」


 上杉さんは指輪を見せながら私の前に立った。


「気付いてましたよ。輝きが違う」


「嬉しいです」


 満足そうに上杉さんは指輪を触った。


「おめでとうございます」


 私は上杉さんに頭を下げて言った。


「え……」


 顔を上げると上杉さんは目を丸くして私を見ていた。


「まあ、頑張ったんで……」


「え……」


 今度は私がそう言う。


「んと……。多分、話が嚙み合ってない気がします」


 上杉さんは首を傾げながら靴を脱ぎ、再び家の中に入って来た。

 私もその後を、同じように首を傾げながらついて行く。

 上杉さんはダイニングテーブルに座れと私を促した。






 上杉さんの指輪は、俗に言う、「頑張っている自分へのご褒美」として自分で購入したらしい。

 その額は百万円。

 ボーナスをすべて注ぎ込み購入したという。


 婚約指輪では無かった事に私は密かに安堵した。


「私が結婚すると思ってらしたんですか」


 上杉さんは声を出して笑っていた。


 私は上杉さんの淹れたコーヒーをまた飲みながら、苦虫を噛み潰した様な表情をしていた。


「いや、実家へも二人で帰ると……」


 私は指を二本出して言う。


「ああ、こっちに従妹が居ましてね。その従妹が出来ちゃったらしくて、その子を連れて車で帰るんです。ちゃんとして結婚させなきゃいけないでしょ。自宅には彼氏と一緒に挨拶に行きなさいって話してるので、とりあえずは私の実家に一泊させて、翌日に彼氏と一緒に話をさせようかと……」


 上杉さんは両手でコーヒーカップを持ってコーヒーを飲む。


「田舎なんで、そう言う事にはうるさいんですよね……。うちの父も怒るだろうし……」


 なるほど……。

 上杉さんの話じゃなかったのか……。


 私は全身の力が抜けた気がした。


 上杉さんは、私に顔をニコニコしながら見ている。


「何か先生、嬉しそうですけど……、気のせいですかね……」


 私はドキッとしたが、多分バレてないと思う。


 やはり、男は女には勝てない生き物だ。








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