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15話 ホワイトムスクの夏時間(サマータイム)





 うーん。夏本番を迎えてしまった。


 私はキッチンでアイスコーヒーをグラスに注いで、いつもと変わらず、私の原稿をチェックしている上杉さんを横目でちらと見る。


 上杉さんのご友人の結婚式の二次会に出た後、急に進展があった様な気がしたのだが、あれは私の思い過ごしだったのだろうか。

「思い過ごしも恋のうち」なんていう歌が昔あった気がしたが、これも恋なのか……。

 もしかすると、私に無理を言ってしまった上杉さんの私に対するお礼の様なモノなのかもしれない。

 そんな風に思えて来た。

 まあ、その後、そのような事は一切無しに暑い夏を迎えてしまった。


「先生。此処の表現なのですが……」


 ダイニングテーブルの上杉さんはパソコンを覗き込みながら言う。


「あ、はい」


 私は上杉さんの横に立ち、一緒にノートパソコンの画面を覗き込む。


「此処の、「古谷の立つ窓の傍から流れ込む風が」よりも「風の流れ込む古谷の立つ窓の傍から」の方が良くないですか……」


 上杉さんは画面を指でなぞりながら言う。


 私はアイスコーヒーを一口飲み、頷く。


「そうですね……。そうしますか……。私もそこは迷ったのですが」


 上杉さんは私の顔を見上げる様に見ると微笑んでいた。

 私はその表情にドキッとして、身体を引いた。


「直ぐに直して送ります」


 私はグラスを手に持ったまま、書斎へと向かった。

 そして今の箇所を修正し、上杉さんに送った。


「送りました」


 私は上杉さんに聞こえる様に大声で言うと、ダイニングから上杉さんの返事が聞こえた。


 私はゆっくりとハイバックの椅子に身体を預けて、暑そうな庭を見た。

 風もあまりなく、オリーブの樹も揺れていない。

 今年は蝉の声が聞こえて来るのが例年より遅かった気がしたが、今はもうその蝉しぐれがうるさい程になっている。


 私は夏が嫌いだったりする。

 特にトラウマ的な何かがある訳では無いが、暑いのが苦手。

 極端に食欲が落ち、気が付くと一日中、このアイスコーヒーだけで過ごしてしまう事もある。

 先週もそれを上杉さんに指摘され、宿題をサボった子供の様に怒られた所だった。


「先生、お昼、何が良いですか」


 書斎の入口に立つ上杉さんは、微笑みながら訊いた。


「食欲無いとか仰るとは思いますが」


 うん。

 完璧な読み……。


「そうですね……」


 先週、怒られてからは結構食べている筈なのだが。


 上杉さんは私の傍まで来て、机に手を突いて、私のパソコンのモニターを覗き込む。


「そう言う私も、あまり食欲はありませんけど、そう言う時こそ食べなきゃいけない気がしますので……」


 未だに完成していない「恋愛小説」を上杉さんはじっと見る。

 それも急ぎで夏の特集用の短編の依頼が来たからで、私のせいではない。

 そしてその夏の特集は秋の特集も追加されて行った。

 このペースで行くと恋愛小説の完成は人類が月で暮らし始めるのとどちらが早いかという話になって来るかもしれない。


「少しスタミナの付くモノ作りましょう」


 上杉さんは私の顔を覗き込む様に見て、微笑みながら書斎を出て行った。


 よく「スタミナ」という単語を夏になると聞く気がするが、そもそもスタミナって何だろうか……。

 私はネットで検索してみた。

 スタミナとは肉体的な耐久力。

 精力、体力、持久力の事らしい。

 それを一回の食事で補う事が出来るのだろうか。

 そんなモノこそ、日々の積み重ねで、一度の食事で補うとすると、相当量のカロリーを摂取する事になるような気がする。

 確かにこの暑さの中で身体を動かすとなると、通常よりもカロリーを消費するのだろう。

 それを補うのはもちろん食事からしかなく、最近ではエナジードリンクなるモノも流行っている。

 昔は栄養ドリンクなどと言って今よりクスリに近いイメージだったのだが。


「素麺でも良いですか」


 突然、書斎の入口で上杉さんの声がする。


 素麺ならサラッと行けそうな気がする。


「ああ、勿論です」


 私がそう答えると上杉さんは微笑みながらまた戻って行った。


 昔は涼を取る方法が少なく、素麺を好んで食べていたのだろう。

 今は冷房の効いた部屋で熱いモノを食べるなどという事も良いのだろうが、冷房の無い時代は食べ物にも工夫がされていたのだ。







「先生。お昼、出来ましたよ」


 と上杉さんから声が掛かったのは、それからどの位経った頃だったか、私は返事をしてダイニングへと向かった。

 テーブルの上にはサラダボウルが置かれてあり、山盛りのサラダが目に入った。


 素麺と、サラダか……。


 私は自分の椅子に座り、グラスの冷えたお茶を一口飲んだ。


 すると上杉さんはお皿に盛られたモノを二つ持ってやって来た。


「焼き肉素麺です」


 ん……。

 や、焼肉素麺……。


「野菜と一緒に牛肉を炒めて、焼肉のたれで味付けして、それに湯がいた素麺を入れてみました」


 私はその皿をじっと見て、少しフリーズした。

 想像していた素麺とは対極にあるような素麺だった。


 上杉さんは手を合わせて焼肉素麺を食べ始める。


「食べないんですか。美味しいですよ」


 上杉さんは私を見てそう言うと微笑む。


「いえ。戴きます」


 私はその焼肉素麺を口に運んだ。

 確かに美味い。

 不思議と食欲が無くても食べる事が出来る。


「うん……。美味いですね……」


 私は上杉さんの顔を見て言う。

 すると上杉さんは口角を上げて歯を見せた。


「ほら、ただでさえ先生の食、細くなるじゃないですか。少しでもスタミナの付くモノをって考えるとこうなってしまったんですよね」


 私は、上杉さんの話に頷きながら、焼肉素麺を口に運ぶ。


「こんなレシピってネットに載ってたりするんですか」


「どうでしょうね……。載ってるかもしれませんけど、これは私のオリジナルですよ。素麺とビーフンって似てるじゃないですか。それでビーフンっぽく仕上げてみました」


 私は感心しながらまた口にする。

 うん。

 食欲が無くても進んでしまう。

 これはなかなか良い。


「でも、あれですよね……。本当に夏の暑い時って食べるモノ考えてしまいますよね……。お素麵作った人って本当に天才ですよ」


 そんな事を言いながら上杉さんは焼肉素麺を口に入れた。

 勿論、焼肉素麺なんてモノになるなんて、作った人は思っても見なかっただろうけど、夏の素麺は重宝する。


「日本には四季がありますからね。過酷な夏と冬も必ずやってきますし……」


 上杉さんは顎に手を当てて少し考えていた。


「子供の頃って暑い真夏でも外に出て走り回ってたじゃないですか……」


 確かにそうだ。

 海や池で泳いだりしていた気がする。

 そうやって暑さ対策を自分たちで考えて遊んでいたモンだ。


「でも、今は、熱中症になるから、家の中で過ごしなさいみたいな感じになっちゃっているじゃないですか。家の中でゲームしたりとか……」


 そもそも私が幼い頃には「熱中症」なんて言う言葉も無かった。

「熱射病」なんて言っていた気がする。


「今は学校も冷暖房完備ですからね……。夏休みなんて無くても良いかもしれませんね」


 確かにそうなのだ。

 冷房の効いた教室で勉強が出来るなんて最高かもしれない。

 と、言う程勉強が好きでも無かったが。


「日本の夏は三夏って言いましてね、初夏、仲夏、晩夏の三つに分かれてるんですよ。その三夏をどう過ごすか。それぞれに工夫したんですね……。昔はお盆を過ぎると少し涼しくなっていた気がしますが、今じゃ十月くらいまで暑いですからね……」


 上杉さんはうんうんと頷く。


「そうなんですよね……。衣替えなんて昔は日付が決まってたじゃないですか。それが今じゃ、いつまでも暑いので、夏から秋に代わるラインが難しくて。いつまでも上着の下はノースリーブだったりしますからね」


 気が付くと私は焼肉素麺を綺麗に食べてしまっていた。

 手を合わせて、


「ご馳走様でした」


 と言うとお茶を飲んだ。


「上杉さん、今年は夏休みは……」


 私はテーブルの上のタバコを手に取り、咥えながら訊いた。


「そうですね……。いつ取ろうかな……って考えている所です」


 上杉さんの会社は七月から九月の間の好きな時に夏休みを取る事が許されていて、空いている時に海外に行く人なども多くいる様だった。


「先生はどうされますか」


 上杉さんも食べ終えたお皿の上に箸を揃えて手を合わせている。


 私の夏休みか……。

 そんなモノをもらった覚えが一度も無い。


「何だったら一緒に取りますか。ほら、先日当たった旅行券なんかもありますし」


 私はタバコに火を点けるのを忘れて、慌ててマッチを灰皿に捨てた。


 そう。

 上杉さんのご友人の結婚式の二次会で、ヨーロッパ旅行とハワイ旅行、それに都内の某有名ホテルの食事付宿泊券まで当たったのだった。


 私は少し慌ててもう一本マッチを擦りタバコに火を点けた。


「休めるかなぁ……。結構仕事は立て込んでいるんですけど……」


 私は煙を吐きながら言う。


「あら、担当編集者は私ですからね……。その辺りは何とでもなると思いますよ」


 上杉さん。

 何とでもなるなら、普段からその調整はしてくれればいいのでは……。


「そう言えば、最近、サマータイムなんて言葉も聞かなくなりましたね……」


 上杉さんは二人の空になったお皿を引きながら言う。


 確かにサマータイムって言葉を聞かなくなった。

 勿論欧米ではサマータイムを普通に導入している。

 朝早くから動いて、早めに帰る。

 日本ではどうも馴染まなかった様だが……。


「先生もサマータイムやられますか」


「サマータイム……」


 たかだか一時間程生活時間を早めてもお得感が無い。

 しかも一日中、エアコンの効いた部屋で仕事をしている。

 そんな私にサマータイムのメリットは無い。


 上杉さんはアイスコーヒーのグラスを私の前に置いた。


「如何ですか……。私も先生に合わせて仕事しても良いですし……」


 上杉さんは身を乗り出して訊いて来る。


「サマータイムねぇ……。数時間ズレた程度じゃ暑いのは同じですし……」


 私はタバコを消しながら言う。


「あら、じゃあ夜中働いて、昼間お休みされるってのでも良いじゃないですか」


 私はアイスコーヒーのグラスを持った手を止めた。


 なるほど……。

 思い切って十二時間ずらすって事か……。


「まあ、夜中が暑くない訳じゃないですけど、昼間よりマシかもしれませんよ」


 それは一理ある。

 しかしそうなると上杉さんは夜中に此処に来る事になるし、他の作家先生の対応はどうするのだろう。


「他の先生方の対応はどうされるんですか」


 私はコーヒーを飲んで訊いた。


「他の先生は殆どメールなので、電話して話す事も殆ど無いですね。それに何人かの先生はバカンスでお休み取られてたり……」


 ば、バカンス……。

 そんな羨ましい事が出来るのか……。


「一層の事、夏の間何処か避暑地へでも行きますか……。お供しますけど」


 なるほど……。

 それも良い。


「避暑地って言うと軽井沢とかですか」


 私はグラスを置く。

 上杉さんはコーヒーを飲みながら頷く。


「良いですね。軽井沢……。夜はエアコンもいらない程に涼しいらしいですし」


 このご時世にエアコンがいらない……。

 日本にまだそんなところがあったのか……。


 私は顎に手を当てて少し考えてみた。


 いや、お供しますって上杉さんは言ったな……。

 それはこの間の缶詰生活的な事になるのではないだろうか。

 それ以前に、上杉さんと一緒に何処かに行くとなると私の安らぐ時間が無くなってしまうのでは無いだろうか。


「ヨーロッパ行って、ハワイ行って、都内のホテルでお食事してってコースも有りですよ」


 上杉さんはそう言って頬杖を突く。


 それでは仕事なんて出来る気がしない。

 それを許してくれる編集者だったら、どんなに楽だろうか。

 その皺寄せは必ず自分に返って来る筈だ。


 上杉さんは立ち上がり、食器を持ってシンクへと向かい、洗い始める。


「避暑地の問題は置いておいて、とりあえず、サマータイムで働くってのは如何ですか」


 水の流れる音と共に上杉さんはそう言った。


 うーん。

 そこにどれだけのメリットがあるかは別として、昼頃に寝て、日が暮れてから仕事をする。

 普通にそんな生活をしている作家も多くいるだろうが、確かにそれも悪くはないかもしれない。

 私の様に外に出る事の無い人間にとっては其処に不都合も無い。


 しかし、上杉さんは何時に此処に来て、何時に帰るのだろうか。

 彼女も車でやって来るので、電車の時間を気にする事も無い。


 二人にとって昼夜が逆転しても何ら問題は無いという事になる。

 得てして作家や編集者という生き物は過酷な生き方をしているという事なのだろう。


「では、とりあえず来週からやってみますか、サマータイムってのを」


 私はグラスに残ったアイスコーヒーを飲み干した。


 上杉さんは食器を洗い終え、アイスコーヒーのボトルを持って食卓へと戻って来た。

 そして空になった私のグラスに注いだ。


「では、私も来週から、その様に会社に申請しておきますね」


 上杉さんはニコニコと微笑みながらそう言った。






 私は書斎に戻り、今日中に上げる予定の短編の続きを書く。


「何でも良いから短編を書いて下さい」


 上杉さんの前の編集者はそんな注文をして来た。

「何でも良い」ってのが一番困るのは主婦だけの話では無く、作家も同じ事。


「都会に暮らす普通の人の焦燥で短編を一つ書き上げて下さい」


 上杉さんからはそんな注文が来る。

 これはかなり楽な注文だ。

 主婦が考える献立ならば、「お肉料理で野菜も摂れる料理を頼む」と言う程に楽になる。

 後はそれをどう料理するか、それが私の腕の見せ所だ。


 そんな線さえ引いてもらえれば楽に話を作る事は出来る。

 しかし、何の線引きも無い所に書けと言われてもなかなか難しい。


 ふと、パソコンを見るとメールが来ている事に気付く。

 そのメールを開けると、緑川充子からのメールが届いていた。

 先日、上杉さんの彼氏役で参加した結婚式の二次会で出会った、週刊誌の記者だった。


「またか……」


 私はそう呟くと、机の上のアイスコーヒーを一口飲み、そのメールに目を通した。


 最初の内は上杉さんに連絡が来ていたのだが、あまりに相手にしない上杉さんに痺れを切らしたのか、此処の所、私に直接メールで取材の依頼が来る様になった。


 何度か上杉さんに相談したのだが、


「充子からのメールは放置一択でお願いします」


 と言われてしまった。

 勿論、取材を受ける気も無いのだが、あまりに失礼かとも思える様になってきた。

 それに、無視し続けると、有る事無い事を書かれてしまう気もする。


 しかし、今日のメールは少し様子の違うメールだった。

 取材の件に関しては一切書かれていない。


「私は上杉が羨ましいです」


 そんな文章から始まっている。

 内容を要約すると、私とべったりと一緒に仕事が出来る上杉さんが羨ましく、私の作品や私にしっかりと寄り添い、作品が完成するまでを傍で見る事が出来る環境が自分にも欲しいと言う。

 私は上杉さんになりたい、などとも書いてある。


 何だこれは……。

 新手のラブレターか……。


 私は長い長いメールをスクロールする。


 緑川さんは元々、作家になりたかった。

 そして作家になるために色々と挑戦したが、ダメで、それならばと出版社に就職したが、文芸部には配属されず、週刊誌の記者となった。

 そしていつの間にか、週刊誌の世界にどっぷりと浸かってしまい、気が付くと週刊誌がメインの会社に転職してしまった。

 出来れば、今からでも作家になりたい。

 尊敬する私の下で小説を学びたい。

 などと書いてある。


 まあ、私としても、そんな作家を目指す人に協力してあげたいとは思うが、この緑川さんとの出会いは最悪で、今更、彼女に協力してあげようという気にもならない。


「どんな優しい言葉を投げかけて来ても、充子の言う事は全部嘘だと思って下さい」


 上杉さんも強い口調でそう言っていた。

 そんな上杉さんを敵に回してまで協力する必要も無いだろう。


 私はタバコを取り、咥えるとマッチを擦って火を点けた。

 夏の暑い日差しの中にタバコの煙が線を引く。


「先生」


 上杉さんが書斎の入口に立ってこっちを見ていた。


「ああ、どうしました」


 私は隠さなくても良い緑川さんからのメールを閉じた。


「来週からのサマータイム、会社から許可下りましたので、私も夜働きますね」


 上杉さんはそう言いながら私の傍に来た。


「会社に出社する事も無いので、毎日、こちらに訪問させて戴きます」


 私は上杉さんの言葉に何気なく頷き、ふと顔を上げた。


「え……」


「何か……」


 上杉さんはニコニコと微笑みながら私の顔を見ている。


「毎日……、ですか……」


 私は上杉さんに訊いた。


「はい、他に行くところも無いので……」


 気のせいか上杉さんの表情が嬉しそうに見えた。

 確かに行くところは無いかもしれないが、毎日私の家に仕事に来るのでは、上杉さんの負担が大きいのではないか。

 それより、そんな事なら軽井沢で仕事をするのと同じ、ホテルに缶詰めで仕事をした時と同じでは無いだろうか……。


「あの……」


 私の声に、上杉さんはモニターの書き掛けの原稿を覗き込みながら、


「はい、何でしょう……」


 と答える。


「毎日、来て頂くと、上杉さんの負担になりませんか」


 私は上杉さんを見上げる様にして訊いた。


 上杉さんは、顎に手を当てて少し考えている様子だった。


「私的には、仕事をするためにメリハリが必要で、自宅に居るとどうも仕事モードにならなくて……。たまにテレワークなんかもあるのですけど、どうしてもダラダラと過ごしてしまう事が多いんですよね……。それに……」


 それに……。

 他にも理由が……。


 私は唾を飲む。


「それに夜の出勤ならば、道も空いてますし、会社に行くより、先生の所へ来る方が早いですし……」


 あ、何だ……。

 そんな事か……。


 私は視線をモニターに戻した。


「紙の原稿を受け取っていた時代は、こんな仕事の仕方なんてあり得なかったでしょうけど、今は原稿の受け渡しもデータじゃないですか。私や先生が世界中何処に居ても、受け渡しが出来るんですよね……。便利な世の中になりましたね」


 私は咥えたタバコを消して、コーヒーを口にした。


「確かにそうですね。私がこっそり抜け出して、何処かの避暑地なんかに居ても、原稿さえ上杉さんに送っておけば良いんですからね」


 私はそう言って、キーボードに手を添える。

 すると上杉さんはその私の手に手を添える様に押さえた。


「先生、それは……」


「え……」


 私は上杉さんの顔を見る。


「それは、ズルいです」


 ズルい……。


「先生が避暑地に行かれる場合は、私も一緒させて戴く事になります。先生だけ何処か涼しい、環境の良い所で仕事をされるなんてあり得ませんわ」


 私は再びモニターに視線を戻す。


「つまり、先生が何処かに行かれるのであれば、私も必ずお供させて戴く事になります」


 私は少し考えて、


「それは……」


 と口を開いた。


「会社の方針です」


「会社の……」


「ええ、会社の方針で……、私の仕事です」


 会社の方針で私の仕事……。

 そう言われると私にそれを拒否する権利はない様に聞こえる。


「先生を他社と契約させない様にと特命を受けてますので……」


 他社と契約出来る程の余裕もない程に仕事は詰め込まれている。

 懇意にして戴いている椎名先生が、以前、


「一社契約で書くなんて一種のマゾヒスト的なモンだ。出来れば数社で書いた方が良い」


 と仰っていた。

 しかし、椎名先生も今は奥様の出版社一社でしか書かれていない。


「仕方ないって事もあるんだよ……」


 とこの間、戴いた電話では力なくそう仰っていた。

 向こうは奥様の会社との契約。

 それも仕方ないのかもしれない。

 しかし私の場合は、上杉さんは私の妻ではない。

 上杉さんの会社一社に拘る必要も無いのだろうが……。


「私が先生と結婚でもする事になれば、こんな事に必死にならずとも、独占契約を硬いモノに出来るのかもしれませんけどね……。私も野々瀬さんみたいに先生の奥さんになれれば良いなって思いますよ」


 上杉さんはそう言い放つとそそくさと書斎から出て行った。


 奥さんになれれば……。

 奥さんに……。


 私は勢い良く立ち上がり、書斎を出て行った上杉さんを見た。

 しかし、そこに上杉さんの姿はもう既に無かった。


「奥さんになりたい……」


 私は声に出してそう呟き、ゆっくりと椅子に座り直した。


 一体、どういうつもりで上杉さんは言ったのだろうか……。


 私は目を閉じて頭を抱える。


 本当に、彼女には悩まされる……。








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