12話 ホワイトムスクの一夜彼氏
何とも場違いな所に来てしまった。
私は会場に入った瞬間にそう思ってしまった。
私以外はスタッフを入れても、皆、若い。
これでは上杉さんの父親に見られても仕方がないかもしれない。
「先生……」
上杉さんに横から声を掛けられて、私は我に返った。
「あ、はい」
「リラックスしてください。私が上手くやりますから……」
上杉さんは私の耳元でそう言うと、いつもの様に微笑んだ。
此処は上杉さんの友人の結婚式の二次会の会場で。
何故そんな所に居るかと言うと、話せば長くなるのだが、掻い摘んで話すと、上杉さんに懇願され、カップル限定の二次会に彼氏役として同伴したのだが。
「よお、上杉……」
と若い男が上杉さんに声を掛ける。
そして横目で私を見た。
「何、彼氏連れて来たの……」
そう言うと私に頭を下げる。
「紹介してよ……」
その男は上杉さんにそう言った。
私は自己紹介した方が良いかと思ったが、
「こちらは先……」
上杉さん……。
先生はまずいでしょ……。
「千堂さん」
私は千堂さんなのね……。
確かに名前を名乗るとバレてしまう。
「こちらは青山君です」
私は紹介されて頭を下げた。
青山という男は私の顔をじっと見ている。
何度かメディアにも顔を晒している事もあるので、コアなファンなどであれば私の事もわかってしまう可能性もある。
私はドキドキしながら息を飲む。
「上杉が年上好きなのは知ってたけど、やっぱり彼氏も年上なんですね……」
青山は私に微笑みながら言う。
「俺たちの憧れの上杉の彼氏ですから、もっと胸張って良いですよ」
青山はそう言って去って行った。
どう言う事なんだ……。
「先生……すみません。今日は千堂で通してください」
上杉さんはまた小声で言った。
私は苦笑しながらコクリと頷く。
よくよく考えてみると、この会場に来ているのは皆、カップルで、人のパートナーに手を出してくるような心配は少ない。
私たちの様なニセモノが居るのであれば話は別だが。
「とりあえず、新郎新婦に挨拶に行きましょうか……」
上杉さんは私に腕を絡めて会場の中を歩く。
これをやられるとドキドキするのだが、今日は既に他の要因でドキドキしているので、何も感じない気がする。
通り掛かったお店のボーイに上杉さんは声を掛けた。
「すみません。車なのでジンジャーエールを一つ下さい」
ボーイは微笑み頭を下げると、直ぐにジンジャーエールのグラスとシャンパングラスを持って来た。
私の車で会場までやって来た。
したがって私がジンジャーエールという事になる。
私と上杉さんはそのグラスを受け取り、新郎新婦の傍まで行く。
しかし、その新郎新婦の周囲は大渋滞で、なかなか近付けない様子だった。
しかし、上杉さんはその集団に割って入る様にして新郎新婦の傍に立った。
私もそれに引っ張られる様に新郎新婦の前に出る。
「あら、上杉……」
新婦は上杉さんを見て笑っていた。
「今日はありがとうね」
上杉さんと新婦は抱き合っている。
「こちらは千堂さん」
上杉さんは抱擁が終わった後に私を紹介した。
まあ、千堂では無いのだが……。
「あ、上杉がお世話になってます」
私はお祝いの言葉を言い、頭を下げた。
すると新郎が傍に立つ。
「夫の村上です」
新婦が夫を紹介する。
まあ、会場の入口にも書いてあったので、名前は知っているが。
「千堂です」
「村上です。今日はありがとうございます」
と丁寧に頭を下げる好青年だった。
「少し騒がしいですが、楽しんで行ってください」
私は会釈して新郎と新婦のグラスにグラスを当てて乾杯した。
「お酒は飲まれないのですか」
と新郎の村上が私に訊く。
「ええ、車で来てしまって……」
そう言い微笑んだ。
「仕事の都合で遅くなってしまって」
上杉さんは新婦と話を続けていて、あまり会話をするとボロが出てしまう確率が上がってしまう。
「お忙しいのに、ありがとうございます」
村上はまた丁寧に頭を下げていた。
「料理も準備してますので、どうぞ」
村上は私に店の奥に並んでいる料理の方を手で指した。
「ありがとうございます。戴きます」
そう言うと新郎はまた別の友人に呼ばれ、挨拶していた。
ふう……。
助かった。
私は組んだままの上杉さんの腕を引っ張る。
上杉さんもそれに気付き、新婦との会話をやめた。
そしてその場を離れ、奥の食事あるスペースへと向かった。
「先生、スリル満点ですよね……」
上杉さんはまた私の耳元でそう言う。
「心臓に悪いですよ……」
私も上杉さんの耳元にそう返した。
私と上杉さんは食事を適当に皿に取ると、空いてるテーブルを見付けて座った。
座った瞬間にドッと疲れが出る。
「新婦が私の高校時代の同級生なんです。ですから私を知っているのは高校の同級生だけなので、そんなにいない筈なんですけど……」
上杉さんはロブスターにフォークを刺して口に入れる。
「そうなんですね。先程の青山さんが同級生ですか」
上杉さんはロブスターを食べながら無言で頷く。
「私の推測では後二、三人はいる筈ですけど」
後二、三回、千堂を名乗ればいい。
そう考えると少し楽になった。
上杉さんは、ボーイにシャンパンを頼んでいる。
直ぐに泡の立ち上るシャンパンがテーブルに置かれた。
私はそれを見て唾を飲み込んだ。
ふと上杉さんが顔を上げた。
「あ、先生も飲みたいですよね……」
そう言うと手を上げてボーイを呼ぼうとした。
私はその手を止めて、
「大丈夫ですよ」
「良いじゃないですか、代行運転を頼めば」
私は首を横に振った。
「酔うとボロを出す可能性もあるじゃないですか……」
上杉さんは少し考えて、
「それもそうですね……」
と言い微笑む。
もしかすると、ボロを出すのは私より、上杉さんの方が可能性は高いのかもしれない。
そう思った。
私は皿の上の生ハムメロンを口に入れた。
生ハムメロンを食べながらジンジャーエールを飲む日が来るなんて……。
私は美味しそうにクリュッグを飲む上杉さんを見て苦笑した。
クリュッグとはヘミングウェイが好んで飲んでいたシャンパンで、店で飲むと相当高い筈だった。
勿論、そんなシャンパンは置いていない店の方が多い。
料理といい、酒といい、かなり良いモノを出している。
この新郎新婦はかなりお金持ちなのだろうか……。
「私、シャンパン好きなんですけど、酔っちゃうんですよね……」
上杉さんはそう言いながらまたボーイを呼んでシャンパンをもらった。
「酔うとまずくないですか」
私は真剣にそう訊く。
「あら、先生が一緒なんで、安心してますけど」
上杉さんはシャンパンをまた口にした。
グラスの縁に付いた口紅を親指で拭きながら、
「先生もやっぱり飲みませんか」
と言う。
私は断腸の思いで、首を横に振った。
「いや、止めておきます……」
ふとテーブルの上にビンゴカードが置かれる。
顔を上げるとボーイがカードを配っていた。
「この後、ビンゴ大会がありますので……」
私は会釈してそのカードを手に取った。
私は自慢じゃないが、ビンゴ大会で何かが当たった事など一回も無い。
そして店の壁に掛かっている大きなモニターに「ビンゴ大会」の文字が映し出された。
「ビンゴ大会が始まりますね……」
と上杉さんは立ち上がり、私の手を引く。
「私はビンゴなんて当たった事なくて……」
そう言うと上杉さんは、
「私、結構当たるんですよ……」
そう言いクスリと笑った。
「多分、今日の景品は豪華だと思いますよ」
私もそれは思っていた。
一体どんな景品があるのだろうか……。
「では、今から、ビンゴ大会を開催します」
と司会を務める男がマイクの前で言う。
会場から拍手が沸き起こった。
何年ぶりだろうか……。
こんなビンゴなんてやるのは……。
とにかく私には博才らしきモノが一切ない。
なので競馬も競輪もパチンコだってやらない。
まあ、人生そのものがギャンブルの様なモノなので……。
「真ん中はフリーなので最初から穴開けて下さいね」
上杉さんは私のカードを取り真ん中の穴を開けた。
そしてじっとモニターを見つめている。
何処か子供様な眼差しで、私はそれを見て微笑んでしまった。
「では一つ目、行きますよ」
司会者がそう言うとモニターにランダムな数字が表示された。
「今はガラガラ回したりしないんですね……」
私は小声で上杉さんに訊いた。
「そうなんですよね。これは絶対、ガラガラ回す方がドキドキすると思うんですけどね」
一つ目はハズレ。
上杉さんは当たっているようだ。
これが運の違いなのだろう。
二つ目は私も当たる。
しかし、横を見ると上杉さんも当たっていた。
最短、四つの数字が出た時点でビンゴする人が出て来る。
まあ、なかなかそんな強運の持ち主はいないだろうが……。
ビンゴはどんどん進んで行く。
七つ目の数字が出た所で、「ビンゴ」と手を上げる人が居た。
私がその声の方向を見ると、最初に声を掛けて来た青山だった。
「青山君、当たりましたね……」
上杉さんは私の隣で、残念そうにコクリと頷いていた。
「さあ、ではお好きな景品パネルの番号を言って下さい」
司会者の声に青山は番号を言った。
「なんと、一発目から凄い商品が当たりました。沖縄旅行ペア二泊三日のチケットです」
ほう……。
これはなかなかの景品が入っているようだ。
青山はマイクの前に立ち、目録を手に、
「村上さん、佳奈さん、今日は本当におめでとうございます。美味しいお酒と料理、それにこんなモノまで戴き、感無量です」
そう言うとステージを下りて、拍手をもらいながら戻って行った。
一つ目が当たり始めると徐々にビンゴする人は出て来る。
八個目の数字でビンゴした人は、神戸牛セットを引き当てていた。
九個目のビンゴは二人居て、ロボット掃除機と高級レストランのお食事券が当たっていた。
「はい、今、リーチの方、どの位おられますか」
司会者の声に十名程の人が手を上げていた。
ふと隣を見ると上杉さんも手を上げている。
十個目の数字が引かれる。
またビンゴと声が上がる。
「おめでとうございます。電動ドリルセットです」
え……。
電動ドリル……。
会場からドッと笑いが起こった。
確かに今までと毛色の違う商品だ。
しかも重い筈。
それを持って帰るのも骨が折れるし、DIYをやらない人は一生使う事も無い。
しかし値段は高い筈だ。
「これは新郎の父上様の会社の製品で、今回是非にと会社の方から頂いて参りました」
なるほど、新郎の御父上はあのメーカーの人か……。
当たった女性は重そうにその電動ドリルセットを抱えて壇上を下りた。
十一個目。
この数字でビンゴの声は掛からないが、私もリーチになった。
確かにドキドキはする。
子供の様にモニターを見つめる自分が居て、横を見ると上杉さんも同じ様にモニターを見つめていた。
十二個目の数字が出た。
「ビンゴ」
「ビンゴ」
私は思わず声を張り上げて手を上げると、横で上杉さんも同じ様に手を上げていた。
私は上杉さんを見て笑った。
上杉さんも驚いた表情で私を見ていた。
「おっと、カップルで同時ビンゴ。此処まで仲が良いと運命を感じますね」
司会者はそう言うと、私と上杉さんをステージの上に招いた。
「さあ、番号を……」
残り少なくなったパネルを見た。
「上杉さんからどうぞ……」
「何を言ってるんですか、先生からどうぞ」
二人で、小声で言う。
結局私から引く事になり、私がパネルを選ぶと高級亀の子束子がそこには表示されていた。
会場の中でドッと笑いが起こった。
さっきの電動ドリルよりも笑われるモノだった。
私は木箱に入った高級束子を受け取った。
まあ、私の運はこんなモノでしょう。
上杉さんも隣でクスクスと笑いながら、自分もパネルを選ぶ。
「おっと、出ましたー。高級ホテルのお食事付、ペア宿泊券です」
都内でも有数の高級ホテルの宿泊券だった。
上杉さんは目録をもらって拍手を受けていた。
私たちは新郎新婦にお祝いの言葉を言うと壇上を下りた。
席に戻り、まだ続くビンゴ大会をじっと遠くから見つめていた。
「しかし、凄いですね上杉さんは……。流石は強運の持ち主だ」
私は温くなったジンジャーエールを飲んだ。
「二人、同時ビンゴって驚きました。やっぱり私と先生ってなんか運命感じますよ」
その言葉に私は何故かドキッとして、皿に載ったオードブルを口に入れた。
ビンゴの景品はすべて出てしまった様で、モニターの前に集まっていた人たちはまた散って言った。
すると、
「はい、此処でサプライズです」
と司会者が声を上げた。
「今、ビンゴされた方の中で、更なるプレゼントが隠されています。ハワイ旅行ペアチケット四泊六日をプレゼントされます」
凄いな。
ハワイ旅行もプレゼントか……。
これがメインの景品だな……。
私はジンジャーエールを飲みながらじっとモニターを見ていた。
どうせ私にはそれを当てる運は無い。
そう考えるとドキドキする事も無かった。
「その今日一番ラッキーな方は……」
ドラムロールの効果音が会場に鳴り響く。
そしてモニターに商品が映し出される。
「高級亀の子束子をゲットされた千堂さんです」
その司会者の声と同時に私にスポットライトが当たった。
私よりも向かいに座る上杉さんが驚いて立ち上がった。
「え、嘘……ちょっと……」
私は上杉さんを見上げる様に見て笑った。
「千堂さん、おめでとうございます。ささ、どうぞ、カップルで壇上の方へ」
そう言われて、私は上杉さんの手を引いて司会者の下へと向かった。
そのハワイ旅行の目録は新郎新婦から手渡された。
「いや、正に強運、カップルで高級ホテル宿泊券、ハワイ旅行、そして高級束子まで手にされました」
会場内にドッと笑いが起こった。
司会者は私にマイクを向ける。
「いや……。なんと言えば良いか……。驚いています」
「勿論、お二人でホテルもハワイも行かれますよね……」
そう言うと司会者はまたマイクを私の方に向ける。
しかしそのマイクを上杉さんが奪い取る。
「勿論です。そのせいでデキ婚なんて事になってしまったら、新郎新婦に責任取ってもらいます」
上杉さんの言葉で、また会場内に笑いが起きた。
私は一人で顔を引き攣らせていたと思う。
テーブルに戻ると、ドッと疲れた自分に気付く。
「何か凄い事になってしまいましたね……」
上杉さんは嬉しそうに笑っている。
それはそうだろう、これだけの商品を引き当てたのだから……。
すると、ボーイはお代わりのドリンクを持ってやって来た。
そして、
「本日のベストカップルを選んで下さい」
とタブレットを私たちの前に置いた。
入口で受付をした時に撮られた写真が表示されていた。
その中からベストカップルを選び、コンテストをやるらしい。
まあカップル限定のパーティで無ければ出来ないイベントだ。
「誰にしますか……」
上杉さんは顔を近付けて訊いた。
「私はわからないので、上杉さん、決めて下さい」
そう言うと上杉さんは入力し、タブレットをボーイに返した。
ボーイは頭を下げて去っていく。
「何かイベントも満載ですね……」
私は会場を見渡す。
何処もカップル同士で楽しそうに話をしている。
「こういうのも良いですね……」
上杉さんを見ると、シャンパンを飲み過ぎたのか、眠そうに頬杖を突いていた。
そろそろ退散しますか……。
私は上杉さんの肩を叩いた。
それで上杉さんは顔を上げる。
「そろそろ退散しますか……」
私は上杉さんに訊いた。
上杉さんは微笑み、コクリと頷いた。
私たちは新郎新婦に挨拶をするために席を立った。
相変わらず新郎新婦の前には人だかりが出来ている。
そこにまた上杉さんは割って入る。
「佳奈……」
上杉さんは新婦に声を掛けた。
「ごめん、私たちこれで……」
と上杉さんが言いかけた所に新郎もやって来た。
「いや、ビンゴ、凄かったですね……お二人で当てられて……」
いや、私の場合は束子を当てただけなのだが……。
「あ、そうだ。上杉……。私たち新婚旅行ヨーロッパ行ってから帰りにハワイ行くのよ。さっきのチケットでハワイ、一緒に行こうよ」
新婦は嬉しそうにそう言う。
いや、それはまずいだろう……。
私は顔を引き攣らせた。
「そうだな、是非、そうしましょうよ」
と新郎も言う。
上杉さんは顎に手を当てる。
「いいわね……。またスケジュール教えてよ」
そう言った。
おいおい、上杉……。
ここは上杉で通させてもらう。
どうするんだ……。
「良いわよね……」
上杉さんは私を振り返る。
え……。
私と行くのか……。
「ああ、スケジュールが合えば……」
私はそう言うと苦笑した。
「やった、じゃあまた連絡するわね」
新婦はそう言うと新郎の顔を嬉しそうに見ていた。
すると、会場のライトが消された。
「お待たせ、致しました。本日のメインイベントです」
ん……。
メインイベント……。
ビンゴがメインでは無かったのか……。
「本日のベストカップルの発表の時間になりました。尚、ベストカップルにはヨーロッパ一週間の旅がプレゼントされます」
それを横目に私たちは新郎新婦に頭を下げて、会場を出ようとした。
「本日のベストカップルは」
またドラムロールが鳴り始める。
「あ、忘れ物……」
と上杉さんは座っていたテーブルに小走りに戻った。
私はそれを見て、微笑む。
どうやらもらった商品の目録を椅子の上に忘れていたらしい。
「本日のベストカップルは……」
司会者の通る声が響いた。
流石にそれは私と上杉さんには関係の無い話だ。
今日だけの彼氏役だし……。
「この方たちです」
司会者の声で、大きなモニターに私と上杉さんの写真が映し出された。
上杉さんはそのモニターを見ながら私の傍に戻っていた。
「何……」
上杉さんは良くわからなかった様子で、黙ってもモニターを見ていた。
「ベストカップル……」
私もそのモニターを見て呟く。
そして私たちに本日二度目のスポットライトが当たった。
「嘘……」
ようやく理解したのか、上杉さんはそう呟いた。
流石にハワイ旅行とヨーロッパ旅行、高級ホテルの宿泊券、束子……、束子は良いか……、まで戴いて、先に帰る訳にも行かず、私たちは立ったまま壁にもたれて、会場を見ていた。
上杉さんは、
「これでヨーロッパも一緒に行けるじゃん」
と新婦の佳奈さんに言われていた。
流石に新婚旅行に同行するのはどうかと思うが。
「何か、一生分の運を使い果たした気がしますね……」
上杉さんはまだクリュッグを飲んでいた。
かなり酔っている筈なのだが、本人は冷静だった。
上杉さんは、新婦に呼ばれて。
「すみません。ちょっと行ってきます」
と私の傍を離れた。
私はタバコを吸おうと思い、会場の外にある喫煙所へと向かった。
タバコを咥えて火をつけると、久しぶりの煙を吸い込んだ。
今晩はよく眠れそうな気がする……。
私は夜空に向かって煙を吐いた。
少しクラクラするのは久しぶりのタバコのせいか、それとも疲れているのが原因なのかわからなかった。
すると一人の女性が喫煙室に入って来て私に会釈した。
私も小さく頭を下げてタバコを吸う。
「今日は凄かったですね……」
その女性はタバコに火をつけながら私に話しかけて来た。
「千堂さん」
どうやら司会者が何度も呼んだ名前を覚えてしまった様だった。
「ご本名が千堂さんなんですか……」
女性は煙を吐きながら言う。
「先生」
私は心臓が一瞬止まった気がした。
「小説家の……先生ですよね……」
え……。
私の事を知っている人が居たか……。
私はその女性をじっと見た。
何処かで逢った事のある人なのだろうか……。
ドキドキして、呼吸を止めた。
「編集者さんと付き合ってらっしゃるのは、知りませんでしたわ……」
私は、額に浮き出した汗を拭こうとポケットのチーフに手を伸ばした。
違う……。
これは上杉さんの下着だ。
私はズボンのポケットからハンカチを出す。
しかも、上杉さんが編集者である事も知っている。
もしかすると業界の人か……。
色々な疑問が更に疑問を生む。
「あの……」
私はそれだけ言うのが精一杯で、その後の言葉が出て来なかった。
女性は手に持ったバッグから名刺を取り出し私に渡した。
「私、週刊ファーストスクープの緑川と言います。一度、先生の取材をさせて下さい」
女性はそう言うとまだ長いタバコを折る様に消して、喫煙所を出て行った。
まずい事になったのかもしれない……。
私は喫煙所を出た。
「もう、探したんですよ……」
上杉さんは私を見付けるとそう言った。
私はそのまま上杉さんの手を引いて会場を出た。
どうしよう……。
困った。