10話 ホワイトムスクの桜日和
花冷えとはよく言ったモノで、桜の季節になると寒くなる。
パソコンのモニターの下に表示される温度は十三度。
春にしては少し肌寒い気温。
私は自分で淹れたコーヒーを飲みながら、原稿を書いている。
編集者の上杉さんは、
「すみません。明日は会社でお花見をする予定になってまして、もしかすると行けないかもしれません」
と昨日電話をくれた。
したがって今日は上杉さんが来る予定の日だったが来ないらしく、先程、原稿をメールで送ったので、仕事らしい仕事は終わり。
私は窓の外を見る。
庭のオリーブの樹も揺れる事も無い程、風も無い。
日差しもそれなりに春めいた質感があるが、気温は低い。
年明けから増えた仕事をこなすのに、まだペースが出来上がらない。
多分、そのまま今年の年末を迎えてしまう気がしているのだが。
「よろしければ、お花見、参加されませんか」
と上杉さんは気を使ってくれたのかもしれない。
もしかすると、「行かない」と断る事を知ってて誘ってくれたのかもしれない。
私は一人が良い。
こうやって静かな部屋で、一人原稿を書く時間も嫌いではない。
元々、サラリーマンが向いていない性格である事もあり、こうやって一人で仕事をする事は最高の環境なのかもしれない。
先日、椎名崙土先生から突然電話をもらった。
「サウナに行かないか」
との誘い。
どうやら先生は今、サウナにハマっているらしく、その良さをどうしても人に伝えたいらしい。
私はサウナというモノがどうしても苦手で、身体を汗が伝う不快感がどうにも耐え難い。
「そうか、それが気持ちいいのによ」
と椎名先生は言うのだが、未だにそれが理解出来ない。
まあ、こればかりは女性と行くのが難しい事もあるのだろう。
今まで三度誘われたがすべて断っている。
三顧の礼にも応じなかったという事になる。
「あら、気持ち良いですよ。行ってみると新しい世界が開けるかもしれないですよ」
と上杉さんは言っていたが、私は家の風呂で十分だ。
ふと書斎の応接テーブルの上に置いてある文庫本を見付ける。
北川悦吏子先生の『運命に、似た恋』。
どうやら上杉さんが置いて行ったモノらしい。
これはもしかすると上杉さんが私に恋愛小説を書かせたいがための策略なのかもしれない。
パラパラとその本を捲ってみる。
到底私には書けない文章で、北川先生の素晴らしさを感じる。
大人の純愛物語。
そもそも大人に純愛など出来るのか……。
私は其処に疑問を感じた。
いや、それ以前に、純愛とは何だろうか。
難しい問題である。
「純愛」を説明せよ。
なんて問題が大学入試などで出てしまうと正解率は一気に落ちるだろう。
ネットで検索してみた。
純愛とは、邪心の無い、ひたむきな愛。
「その人のためなら自分の命を犠牲にしてもかまわないというような愛」
「肉体関係を伴わない愛」
「見返りを求めない愛(無償の愛)」
と書いてある。
そのどれもが曖昧な気がする。
この説明を書いた人も実は純愛など知らないのかもしれない。
大人にそんな恋愛が出来るのか。
自己犠牲の愛、肉体関係の無い愛、無償の愛。
どれも非現実的な気がしてならない。
何か守るモノがあるから大人であり、セックスを前提に異性と交流を持つから大人。
そして、何かあると金で解決しようとするから大人なのだ。
やはり私が純愛の表現者となるには少し汚れ過ぎているのかもしれない。
手に持った文庫本を机の隅に置いて、コーヒーを飲んだ。
春の昼下がりに中年の男が一人、純愛について考える事自体も非現実的な事のようだ。
車の音がして私はガレージを見た。
赤いアウディが入って来ている。
上杉さんがやって来た様だった。
おかしいな。
今日は来ないと言っていた筈なのに……。
私は、立ち上がり、玄関へと向かった。
玄関の鍵を開けると上杉さんが立っていた。
「先生。済みません。今日は来ないつもりだったんですけど」
と荷物を両手に持ってドアの隙間から割り込む様に入って来た。
「いえいえ、それは良いのですが、どうされたんですか……」
私は上杉さんの持つ荷物を手に取り、ダイニングへと先に入った。
「どうもこうもありませんよ……」
上杉さんはテーブルの上に荷物を置いて、大きく息を吐きながら椅子に座った。
私はそんな上杉さんに、さっき淹れたコーヒーをカップに注いで出した。
上杉さんは礼を言うとそのコーヒーを一口飲んだ。
「お花見の場所取りが出来てなくて」
なるほど。
大抵の場合、お花見の場所取りは新入社員の大事な仕事で、そこから会社勤めが始まると言っても過言ではない。
「お花見を出来る場所が減ってしまった事も原因なんですけどね。朝一番に行っても場所なんてもう無い様子で、皆、昨日の夜から場所取りしてたみたいなんですよね」
そこまで熾烈な争いになっているのか……。
私は上杉さんの言葉に頷く。
上杉さんはテーブルの上に置いた紙袋を開き、中から仕出し弁当を取り出した。
「ですからお弁当、無駄になっちゃうので、先生の分も持ってきました。どうせ、お昼、まだでしょ」
どうせってのが引っ掛かるが、確かにまだ食べていない。
それに宴会用の仕出し弁当は豪勢で美味しい。
「まあ、何も知らない新人に場所取りさせる風習もダメなんですけどね。朝から公園行って、入っちゃいけない場所にブルーシートを広げてたみたいなんですよね」
私は上杉さんの向かいに座り、話を聞く。
「すると公園の管理人がやって来て、その新人に……」
上杉さんは弁当を開けた。
「責任者、呼んで来い……って感じで……」
「上杉さんが行ったの……」
私も弁当の蓋を開けた。
何とも豪勢なお弁当だった。
「行きましたよ……。こういう時って偉い人は逃げるんです。たかがお花見の場所取り如きで……って感じなんでしょうね……」
確かに。
そんなトラブルで社長が出て行くなど聞いた事も無い。
「皆、今会議室でお弁当食べてますよ」
私は箸を手に取って手を合わせた。
「おかげで私は、こんな豪勢なお弁当にありつけた訳ですね……」
上杉さんはお造りに醤油を垂らして口に放り込む。
「三千五百円の仕出し弁当ですよ」
高級料亭のお弁当でもそんなにしない筈なのですが、宴会用のお弁当となるとやはり値段も凄い。
「無駄にも出来ないし、かといって会議室で食べるのも味気ない気がするじゃないですか」
確かに。
会議室で食べるってのも勿体ない気がする。
「食事の味の八割がシチュエーションだと思うんですよね……」
八割がそうであるならば、料理人の立つ瀬がない気はするが……。
「ほら、母親の作ったお弁当も、普段教室で食べるより、遠足の時の方が美味しかった気がしませんか」
なるほど。
それはあるのかもしれない。
「コンビニのおにぎりだってそうですよ。車で移動しながら食べるのは単なる栄養補給的な扱いですが、落ち着いた公園で食べると、それはちゃんと食事をした気分になれるじゃないですか……」
私はお弁当を食べながら、上杉さんの話に頷くばかり。
今日の上杉さんは少々ご立腹で、良く喋る。
「場所取りをした新人の子たちはどうなりましたか」
上杉さんは口の中のモノを飲み込んで、
「そこなんですよ……」
と言う。
「私も場所を確認したんですけどね。確かに立ち入り禁止の看板が立ってたんですよね……いつもなら……」
いつもなら……。
それは……。
「今日はその看板が無くて、少し離れた所に立ててあったんですよ」
上杉さんはお弁当と一緒に持って来たお茶の缶を開けて飲んだ。
「公園の管理者が言うには、その看板をうちの新人が動かしたんじゃないかって言うんです。新人の子たちに訊いたんですけど、そんな事はしていないって言うんです」
まあ、いくら非常識でもそんな事はしないでしょう……。
私は苦笑しながら、一口で食べられる程の筍の炊き込みご飯を口に入れた。
「まあ、考えてみると新人の子たちも災難ですよね……。入社早々、怒られる羽目になってしまって。しかも仕事じゃなく、単なる花見の場所取りで……」
うーん。
何も出来ない新人が初めて与えられる仕事の様なモンなんだけどね……。
「先生も花見の場所取りってしましたか」
私も缶のお茶を開けて飲んだ。
「勿論、やりましたよ……」
箸を置いて、もう一口お茶を飲む。
「最も、私の場合は三十名程の規模だったんですけどね。山の上にある公園に朝から行って大判のブルーシートを何枚も広げて。それがこの時期でしょ。日が照っていても寒いんですよね。昼間なのに、広いブルーシートの上に座ってガタガタ震えていたのを覚えてますよ」
上杉さんは私の話を微笑みながら聞いていた。
「夕方から始まる花見の時には身体が冷え切ってて、冷えたビールなんて手に取るのも嫌でしたね。飲みましたけど」
私は箸を取り、弁当の続きを食べた。
「でも、何かそれが初めて与えられた仕事みたいな感じがして、失敗できない的な感覚ありましたね。これを失敗したら、この会社での自分の立場は終わるみたいな……」
上杉さんは声を出して笑った。
「わかります。別にそれで評価するなんて事は一切無いんですけどね。でも、それで会社に打ち解けるみたいな感覚はあるのかもしれないですね。君たちも会社を支えてるんだぞって感じの……」
上杉さんは海老の天麩羅を口に入れた。
「何も出来ない新人が会社のためにやる初めての仕事。正に無償の愛……」
ん……。
無償の愛……。
「あ、そうだ……」
私は立ち上がり書斎に行き、上杉さんが置いて行った文庫本『運命に、似た恋』を持って来た。
「これ、忘れてましたよ」
上杉さんはその本を受け取り、
「すみません。多分、先生の所に置き忘れたんだろうって思ってたんです」
そしてその本を傍らに置いた。
「先生に訊きたかったんですよ……」
来た……。
やはり私に恋愛小説を書かせようという魂胆だな……。
私は身構えるが、その素振りを見せない様にした。
「何でしょうか……」
上杉さんはその文庫本を私の前にそっと置く。
そして、
「このタイトル何ですけど……」
そう言うと文庫本の装丁を指差した。
基調を白としてそこに椅子の設計図が描かれ、タイトルと北川先生の名前が書かれてある。
「ほら、『運命に、似た恋』って間に「、」が入るじゃないですか」
確かに……。
通常ならば「運命に似た恋」で良いのかもしれない。
しかし北川先生は「運命に」と「似た恋」の間に「、」を入れている。
それも北川先生のセンスと言ってしまえばそれまでなのだが……。
「に似たって「に」が重なる事を嫌ったんですかね……」
上杉さんは頷いていた。
「私はもっと深い意味があるのかと思ってしまって……」
私は上杉さんの表情をじっと見る。
「この「運命に」と「似た恋」その二つの言葉の間に隠された言葉があるのかと思ったんです」
私は、上杉さんのこの発想が好きで、他の編集者からは訊けない話だろう。
「例えば、「運命に流される様な感覚に似た恋」とか……」
タイトルとしては長い。
しかし今は、その程度の長さのタイトルを付ける人も多い。
「その説はあるかもしれないですね……」
「先生ならどう付けますか」
また難しい質問が投げられた。
私はこの話を読んでいない。
「すみません。内容をあらすじ程度しか知らないので付けようがないですね……」
上杉さんは頭を下げた。
「あ、そうですよね……」
とその本を手に取り、バッグの中に入れた。
「上杉さん的には面白かったですか」
私はお弁当の最後の焼き魚を口に入れて訊いた。
「面白かったって言うか……。純愛とはって感覚が変わりました」
何……。
純愛の感覚が変わる……。
「愛とか恋とかって相手があっての事じゃないですか」
まあ、確かにそれはそうだが……。
「相手がはっきりとわからない相手に、愛とか恋とかしない。それが昔は前提だったんですよね」
上杉さんも最後の天麩羅を口に入れた。
「今はネットでも恋愛するって言います。顔も本名も知らない相手に恋をする時代ですよ。その恋が自分の中でホンモノだったら、相手がどんな人であってもその恋は揺るがない。そんな時代です。このお話はそんな話では無いですけど、思ってた人と違ったけど、その恋はいつの間にかホンモノになってしまったって話なんですよね」
私はうんうんと頷きながら上杉さんの話を聞いた。
「例えば、先生が私の事を好きだとしましょう」
え……。
私は少しドキッとしながら頷いた。
「私は上杉です。先生の認識はそうじゃないですか。しかし、ある日突然、私は実はヤマダでしたって言われたら、その私に対する好きって気持ちは変わりますか……」
私は少し考えた。
いや、考える振りをしたというのが正解なのかもしれない。
「目の前にいる女性に対しての気持ちですよね。それは変わらないと思います。だけど、何故、ヤマダさんなのに、私に上杉だと名乗ったのかは気になりますね……」
上杉さんはゆっくりと頷く。
「なるほど……。確かにそれは気になりますよね……。では質問を変えます」
私は何故か姿勢を正した。
「先生が幼い頃に好きだった子がいるとします。大人になってその子と再会し、再び恋に落ちました。しかし、その子は実は昔好きだった子ではなく、その子の友人だった事がわかりました。その場合、どうなりますか」
私は、上杉さんから視線を外し、テーブルの上のお茶の缶をじっと見つめた。
「複雑ですが……」
私は缶を取り、残ったお茶を飲み干した。
「その時の恋愛を信じるかもしれないですね……。過去は過去で、今の私は多分、今のその子の事を好きになったんだと思うので……」
上杉さんは、頬を緩めて私に微笑んだ。
「このお話はそんな話なんですよね……」
上杉さんはバッグの中の文庫本を取り出して私に見せた。
なるほど。
北川先生らしい話だ……。
私はそう思った。
「だから、「運命の恋」ではなく、『運命に、似た恋』なんですね……」
ようやくタイトルの中に「、」が入る意味がわかった気がした。
上杉さん的にもそう結論が出た様だった。
私は書斎で少し原稿を書く事にした。
上杉さんはリビングで仕事をすると言いパソコンを開いていた。
「運命に、似た恋か……」
私はそう呟くと背もたれに身体を倒した。
「恋がどうかしましたか……」
書斎の入口で上杉さんの声がした。
「あ、いや……」
私は身体を起こしてモニターに視線をやった。
「先生にも恋愛小説を書いて欲しいって思うんですよね……。それっぽい小説は幾つもありますけど……」
上杉さんは私の横に来てモニターを見つめる。
「恋愛経験の乏しい私では高すぎるハードルですよ……」
私はアイスコーヒーを入れたグラスを手に取った。
「あら、恋愛小説を書いておられる先生方が皆、恋愛経験が豊富とは限らないですよ」
上杉さんは声を出して笑った。
「皆、想像や理想の恋愛を書いておられるんだと思いますけど……」
確かにそうだ。
恋愛小説家が皆、恋愛経験が豊富である筈も無い。
もしかすると、恋愛小説家こそ恋愛経験が乏しく、想像や理想の世界を書くからこそ共感されるのかもしれない。
「良かったら、今から疑似恋愛しに行きませんか」
上杉さんは囁く様に言う。
私はその声にドキッとした。
「疑似恋愛ですか……」
上杉さんはニコニコと微笑みながら頷く。
「桜を見に行きましょう。せっかく天気も良いですし……」
そう言うと私の手を引いた。
桜並木の下を上杉さんと二人で歩く。
人が見るとカップルに見えるだろうか。
もしかしたら親子に見られる事もあるかもしれない。
「桜の季節って短いですけど、一年の内でも濃い時期ですよね。卒業や入学、勿論就職もありますし……。別れも出会いも。新しい事を始めようって気になるのもこの季節ですね」
上杉さんはコツコツと靴を鳴らしながら石畳の上を歩く。
私は桜の咲く枝を見て、
「そうですよね……。この淡い色彩が記憶力を高めるのかもしれないですね……」
少し前を歩いていた上杉さんは突然振り返った。
「桜色って幸福感を高める色だって言いますね」
「幸福感ですか……」
上杉さんは頷く。
「後は、優しさを感じる色だったり、安らぎを与える色だったり……。柔らかさや女性らしさ……」
なるほど。
男の私からするとそのすべてが幸福感に繋がるのかもしれない。
「女性の下着にピンクが好まれるのはそのせいなのかもしれませんね」
上杉さんは私の横に並んで歩き出す。
「なるほどね……」
「因みに私もピンクの下着は多いです」
その言葉に私は、どう反応するのが正解なのかわからず苦笑した。
「春と女は人を幸福にするって事ですね……」
上杉さんは悪戯っぽく言うとニヤリと笑っていた。
桜並木を抜けると大きな公園に出た。
そこでは宴会をしている人たちが大勢いた。
「こんな所にも公園があるんですね……」
と上杉さんは小走りに公園に入った。
「此処ならうちの会社でもお花見できそうですね……。来年からは此処にしようかな……。先生も此処なら参加出来ますよね……」
私の場合は参加する理由に地理的な要因は入っていない。
舞い散る桜の中ではしゃぐ上杉さんを見て私は微笑んだ。
「此処でお弁当食べれば良かったですね」
上杉さんは嬉しそうに言う。
私は上杉さんの髪に着いた桜の花びらを摘まんで取った。
「ありがとうございます……」
上杉さんは照れ臭そうに言うと顔を伏せた。
そしてしばらく二人は無言のまま歩く。
桜の木の下で宴会をする人々は楽しそうに盛り上がっていた。
その様子を横目に私たちは公園を抜けた。
公園を出た所に古くからある和菓子屋を見付けた。
「和菓子屋さんですね」
と上杉さんが言う。
「そうですね……歴史もありそうな……」
上杉さんは私の腕に腕を絡めた。
「桜餅、買っていきましょう」
上杉さんは私の腕を引いてその店に入った。
ガラスケースの中にたくさんの和菓子が並んでいた。
上杉さんは私の腕に腕を絡めたまま、そのケースの中を見つめている。
「桜餅って関西風と関東風の二種類あるって知ってますか」
上杉さんは私の顔を見上げて言った。
「関西風は道明寺粉を使ったお餅で、関東風は小麦粉と白玉粉の生地で餡を巻いたモノです」
上杉さんは顔を上げた。
「どちらも桜の葉で巻くんですけどね……」
そう言うとお店の店員に、その二種類の桜餅を注文していた。
「奥さん綺麗だから、草餅おまけしとくわね」
上杉さんは声を出して喜んでいた。
「奥さんって言われちゃいましたね……」
上杉さんは私の耳元でそう言ってクスクスと笑っていた。
私はその和菓子屋の紙袋を下げて店を出た。
「早く帰って食べましょう」
上杉さんは嬉しそうに私の前を歩いて行く。
そんな彼女を見て私は改めて、可愛い人だと思った。
「上杉さん……」
前を歩く上杉さんを呼んだ。
上杉さんは振り返って、私を見る。
「はい」
私は上杉さんに微笑むと、
「やってみますか……」
と言った。
何の事だがわからなかったのか、上杉さんは不思議そうな表情をしていた。
「恋愛……」
「え……」
「恋愛小説ですよ……」
私はそう言った。
「ああ、何だ……小説か……」
上杉さんはクスリと笑い、また歩き出した。
「先生らしい恋愛小説……。編集者としてではなく、一人のファンとして読んでみたいと思っています。誰よりも先に読めるっていう特権付きですけど」
上杉さんは前を歩きながらそう言った。
「まあ、絶対に苦戦すると思いますので、協力して下さいね」
そう言うと上杉さんはようやく振り返った。
「私の歪んだ恋愛観が役に立つのであれば……」
私は上杉さんに微笑む。
「私だって歪んでるかもしれませんよ」
上杉さんは口元を手で隠してクスクスと笑い始めた。
「それじゃ恋愛小説なんて完成しないかもしれないですね」
上杉さんは私の横に来てまた腕を絡めた。
やっぱりこれは慣れない……。
私の心臓の鼓動は耳の奥でその音を大きくしていく。
「先生。これも恋愛小説のためのトレーニングですよ……。しっかり慣れて下さいね」
上杉さんはそう言うと悪戯っぽく笑った。
「桜の花を見る度に私の下着姿を想像するのも良いかもしれないですよ」
私は苦笑して、上杉さんを睨む様に見た。
もしかすると飛んでも無い編集者が私の担当になっているのかもしれない。
私は春の晴れた空を見上げて、照れ隠しをした。
「さあ、早く帰って桜餅を食べましょう」
上杉さんは私の腕を引っ張って歩いた。