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1話 ホワイトムスクの時間





 トイレの芳香剤を変えてみた。

 ずっと柑橘系の香りを使っていたのだが、何となく気分を変えたくて半分程残っていた芳香剤を捨て、近所のドラッグストアで買ってきたホワイトムスクの香りを置いた。

 実はトイレだけでなく、寝室もリビングもすべての香りをホワイトムスクに変えた。


 何故、この香りだったのか。

 何となく、今の気分に合っていたから。

 それだけが理由だった。


 香りにも流行というモノがあるらしく、ドラッグストアの棚の多くをホワイトムスクの香りが占めていて、サンプルと書いた小さな小瓶に鼻を付けたところ、何故か気に入ってしまった。


 しかし、小さな小瓶から香るそれと、空間に広がる香りは少し違う事に気付いた。


 部屋中に芳香剤を置いて、その包みなどを丸めてドラッグストアのビニール袋に入れ、部屋に一つだけしか置いていないゴミ箱に押し込む様に詰めた。

 一つしかゴミ箱を置かない事で、ゴミの日が分かる。

 ゴミの日の前日などは溢れる程のごみの量になっている。

 そうやって忘れずに月曜と木曜にごみを捨てる。


「先生の部屋って本当に生活感無いですね」


 週に一度やって来る編集者の上杉さんが言っていた事を思い出しながら部屋を見渡した。

 確かに生活感の無い部屋だった。

 特にミニマリストという訳でもないが、幼い頃から貧乏な生活をしてきたせいか、不要なモノに購買意欲を示さない体になってしまっているのだろう。

 それなりにこだわって買ったモノもある。

 リビングのソファや作りつけた書棚、めったに乗らない車などもその類で、これらは貧乏暮らしの反動から来たこだわりなのかもしれない。


 キッチンカウンターの上で煮詰まっているコーヒーを使い古したマグカップに注ぎ、コーヒーメーカーの電源を切った。

 カウンターの上に投げ出していた鎮痛剤を毟り取ると口に放り込み、熱いコーヒーで喉の奥へと流し込んだ。


「お薬はお水で飲んだ方が良いですよ」


 上杉さんはいつもそう言うが、胃袋に入ってしまえば同じ事だ。

 それに常に私の胃袋の中はコーヒーがその大半を占めている。

 そこに水など入る余地も無い。


 マグカップを持って書斎へ入ると、パソコンの画面が青白い光を放っていて、メールが届いている事を教えてくれた。


「頼まれていた資料を送ります」


 タイトルにそう書かれたメールは上杉さんからで、街の風景を撮った写真が大量に送られて来ていた。

 その数枚に楽しそうにソフトクリームを食べる上杉さんの顔も写り込んでいた。

 私は苦笑しながらその写真をクリックした。


 上杉さんも運の無い人で、文芸部に移って直ぐに私の担当になった。

 それまでは私と年の近い男性が担当しており、訪ねて来る事も年に数度。

 その殆どをメールと電話、ネット通話などで行っていた。

「パソコンが苦手」だと言う上杉さんは、担当になった瞬間から毎週、この部屋を訪ねて来る。

 その都度甘いモノを買って来て、ドコソコの有名なケーキだ、一時間並んで買ってきたなどと言いながらいつも出してくれる。

 私も甘いモノは嫌いではない。

 夜中にバーボンをロックで飲みながらシュークリームを食べる事が出来る程だ。


 このスイーツのお金は会社が出してくれるのかと訊いたら、


「やだな、自腹ですよ、自腹」


 と上杉さんは食い気味に答えた。


 私は申し訳無く思い、次からは領収書を私の名前でもらって来てくれと頼んだ。

 しかし、


「それだと私の好きなモノが買えなくなっちゃいますので」


 と断られる始末。

 少し考えて、ならば折版しようという事になり、いつもレシートを見て、半分払う事にしている。


 娘程……というと少し大げさだが、年の離れた若い女性とのお茶の時間を毎週楽しみにしている自分がいる事に最近気が付いた。


 書斎に置いたホワイトムスクの香りがほのかに香る。

 ようやく新しい香りを感じる事が出来る程になって来た。


 そしてふと、その香りにノスタルジーに似たモノを感じた。


 この香りは何処かで……。


 私はマウスをクリックするのを止めて、静かな部屋を見渡す。

 ホワイトムスクの甘い香りを意識して吸い込んでみる。


 一体何処で……。


 最近新調した椅子から立ち上がると、庭に植えたオリーブの樹を見た。

 少し強い風に煽られながらその細い幹を揺らしている。


 殆ど部屋から出る事の無い私に匂いの記憶など皆無だった。


 どんな場所で感じた香りなのだろうか……。


 机の上に置いたマグカップを取り、揺れるオリーブの樹を見ながらコーヒーを飲んだ。


 最近行った場所なども思い出せない。

 何処かのレストランかバーの類……、いや、飲食店の香りとしては強すぎる気がする……。

 しかし、他の場所に行った覚えがない。


 コーヒーを飲み干した私は、書斎を出て、キッチンのカウンターにマグカップを置いた。

 そして先程サーバのコーヒーを飲み切った事に気付く。

 ふと気付くとリビングダイニングにも微かなホワイトムスクの香りがしていた。


 冷蔵庫の中のボトルに入ったアイスコーヒーを取り出し、マグカップに注いだ。

 これも上杉さんに言われる事がある。


「先生、アイスコーヒーはグラスで飲みましょうよ。私が洗いますし……」


 そう言う上杉さんの表情は子供を呆れ顔で見る母親の様で、その言葉にも私は同様に返す。

 胃袋に入ってしまえば同じだからと……。


 彼女曰く、器は食べる事、飲む事には重要な要素で、それがその食べ物の味や価値を完成させるモノらしい。


 私には理解出来ず、コーヒーを飲んだマグカップでも平気でお茶を飲む事が出来る。

 多分、私は味音痴なのだろう。

 上杉さんは「東日本一のめんどくさがり屋」だと言っていた。

 西日本には私同様の人間が存在しているのだろうか。


 書斎に戻り、椅子に座るとタバコを取り、マッチで火をつけた。

 ホワイトムスクの香りはタバコの臭いにも負けていない。

 それ程に主張の強い香りなのかもしれない。


 エンジン音がして、私の車の前に上杉さんの赤いコンパクトなアウディが停まった。

 彼女と会話が合うのはお互い車が好きという事もあった。

 何となく始まったお互いの車に対する情熱の話で、気が付くとテッペンを回っていた事もあった。


「車を買うなら赤いアウディって高校生の時から決めてたんです」


 彼女はそう言っていた。

 その赤いアウディももう二台目だという。


「車をどんどん乗り替える人って浮気性なんだと思います」


 上杉さんは酔ってもいないのに目を座らせてそんな事を言う。

 確かにタバコの銘柄を替える人も浮気性だという話を何処かで読んだが、それと同じ事なのだろう。

 私はそんな上杉さんの話をただ苦笑しながら聞いていた記憶があった。


「先生」


 玄関から上杉さんの声がして、私は書斎を出て、玄関のドアを開けた。

 そこには両手に袋を下げた上杉さんが立っていた。


「ちょっと一つ持って下さい」


 上杉さんは私に袋を手渡すとドアの隙間に体を捻じ込む様に入って来る。

 何が入っているのかを袋を覗き込みながら訊ねると、


「編集部に届いたファンレターと頼まれていた資料、それから先生の食料です」


 彼女はそう言いながら私より先に部屋に入って行った。

 私は咥えタバコのまま、玄関の鍵を閉めて、彼女の後を追った。


 上杉さんは荷物をテーブルの上に置くと、大きく息を吐いて、ダイニングの椅子に座った。


「お疲れ様、何か飲むかい」


 上杉さんは、その言葉に立ち上がった。


「お気遣い無く、それくらい自分でやりますので……」


 そう言って冷蔵庫のドアを開けた。

 私は彼女の背中を見てダイニングの灰皿でタバコを消した。


 上杉さんはグラスにアイスコーヒーを注いで、再び椅子に座った。

 そしてふと動きを止めた。


「何か、良い香りしますね……」


 そう言うとクンクンと鼻を鳴らす。


「お部屋の香り替えましたか」


 私はドラッグストアに行ったついでに芳香剤を替えた事を彼女に話した。


「良いですね……。私も好きですよ、このムスクの香り」


 私はムスクでは無く、ホワイトムスクである事を訂正した。

 ムスクとホワイトムスクは厳密に言うと違うらしく、ムスクは動物性の香りが元で、ホワイトムスクは植物性の香りらしい。

 結果ムスクは男性的でホワイトムスクは女性的とも言われる様だ。

 最近のドラッグストアの店員はそんな事も知っている。


「キツイ香水の女性でも来られてるのかと思いましたよ」


 上杉さんは笑いながらそう言って、今日のスイーツを袋から出し、冷蔵庫に入れていた。

 そして冷蔵庫のドアを閉める手を止める。


「そう言えば先生ってそっち系の話聞かないですよね」


 上杉さんは振り返ってニヤリと笑った。


「そっちって……どっち」


「そっちって言ったらこっちですよ」


 彼女は小指を立てて、いやらしい笑いを浮かべた。


 私はポケットからタバコを取り出して咥えた。


「こんな仕事をしてるとね……。出会いも無くてね……。編集者も締め切り締め切りって厳しいし」


 平常心を欠いたのか、マッチを上手く擦れなかった。

 何度目かで火が付いたマッチでタバコに火をつける。


「それは私も同じですね……。締め切り守らない先生の担当なんかすると彼氏作る暇もないですよ」


 上杉さんはアイスコーヒーを一口飲んでそう言う。


 私は上杉さんの向かいに座り一度咳払いをして、タバコの煙を吐いた。


「そうなると先生と私が結婚するしか無いのかもしれませんね」


 上杉さんは声を出して笑った。


「実際多いんですよね。編集者と作家先生の夫婦って」


 確かに話には聞くが、作家なんて世捨て人みたいなモノで結婚には向いていない気がする。

 そういう意味では編集者も同じ様なモノかもしれない。

 世捨て人同士の夫婦という事になるのかもしれない。


「先生って一度も結婚された事って無いんですか」


「無いね」


「一度もですか」


「無いよ」


「お付き合いされた事は」


 私はタバコの煙にむせ返りながら、


「もう四十過ぎてるんだぞ。それくらいはあるよ」


「え、あるんですか」


 意外だと言わんばかりの表情で上杉さんは身を乗り出した。


「あのなぁ……」


 吐き出す様に私が言ったその時に、テーブルの上に置いた彼女の携帯電話が鳴った。


「はい、上杉です」


 彼女は電話を秒で取り、椅子から立ち上がって玄関へと出て行った。


 私はドアの向こうで電話をしている上杉さんを見ながら椅子の上に置かれた紙袋に手を伸ばしてその中身をテーブルの上にぶちまけるように出した。

 札束だったら良いのにと思う様に輪ゴムで束ねられたファンレターに目をやる。

 ファンレターに封書の大きさの規定などもちろん無く、様々な大きさの封筒や葉書が束ねられていた。

 昨今はメールやSNSでのファンの声は届くのだが、アナログの封書の類はなかなか私たちの手元には届かない。

 こうやってまとめて持って来てくれる編集者はまだ良い方で、勝手に廃棄してしまう編集者も少なくない。


「はい、はい……はい、わかりました」


 そんな言葉を口にしながら上杉さんが玄関先から帰って来た。

 そして私に頭を小さく下げて、


「すみません。編集長からでした」


 私は小さく頷くとテーブルの上のファンレターに手を伸ばす。


「危ないので、ちゃんとハサミを使って封を切って下さいね。何なら私が開けますので」


 上杉さんはアイスコーヒーを飲み干し、グラスをシンクへと持って行く。

 そしてカウンターの上のコーヒーサーバからデキャンタを手に取って私に見せる。


「コーヒー淹れますけど、飲みますか」


 私は「頂くよ」とだけ返事をした。






 上杉さんがコーヒーサーバのデキャンタを手際よく洗い、こだわりのブレンドの豆をセットした。

 けたたましい音を立てながらコーヒーの香りを漂わせ始める。

 それまで香っていたホワイトムスクも何処かへとかき消されてしまった様だった。


 上杉さんは冷蔵庫を開けて、買ってきたスイーツの箱を取り出した。


「今日はマリトッツォ買ってきました」


 白い皿に載せられたマリトッツォ。

 彼女が少し前からハマって良く買ってくる。

 色々な店のモノを買ってくるのだが、基本的には何処も同じブリオッシュ生地のパンに生クリームが挟んである。

 ちゃんとした店のモノはピスタチオの生クリームがこれでもかと言う程に挟んである。

 フルーツなどが中に入れてあるモノは彼女に言わせれば邪道らしく、ピスタチオの味が濃いモノの方が好みな様だった。


「今日のはちょっと遠いんですけど、最近話題になっている店のモノを買ってきました。雑誌の担当をしている同期の子にリサーチしたんで、間違いないと思いますけど……」


 上杉さんはテーブルの上にマリトッツォの載った皿を出す。

 そして淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ皿の横に置いた。

 私は礼を言ってコーヒーに手を伸ばした。


「フォークは……」


 私は立ち上がってフォークを取ろうとした。

 私の腕を上杉さんは掴む。

 そして私の耳の横に口を近づけた。


「マリトッツォは手で食べるんですよ……。前にも言ったじゃないですか」


 彼女の静かな声に私は鳥肌が立つような感覚を覚えた。


「あ、ああ……そうだったね……」


 私は椅子に座り直した。

 それを見て上杉さんも椅子に座った。

 手を合わせると上杉さんはマリトッツォを手に取り噛り付くと、生クリームで髭を作り微笑んでいた。


「あ、そう言えば、すみません。何かファンレターかなり前のモノが編集部に残ってたらしくて……」


 上杉さんは私の目の前のファンレターの束を手に取った。


「良いよ。どうせ返事を書くような事も出来ないし……。ファンレターに急ぎのモノも無いだろう」


 私はマリトッツォの蓋を捲りクリームを掬って食べた。


「先生……それはシュークリームの食べ方ですよ」


 上杉さんはそのファンレターの輪ゴムを外し、テーブルの上にその手紙を広げる。


「私が開けますから、手を付けないで下さいね」


 髭を付けたままの上杉さんは私の顔を覗き込んで微笑んでいた。


 お茶の時間も終わり、私は二杯目のコーヒーを飲む。

 その向かいで、ペーパーナイフでファンレターを開けて、中身を引っ張り出しながら上杉さんは鼻歌を歌っていた。

 不思議な人で、生まれる前に流行った様な古い曲をよく口ずさむ事が多い。


「そんな曲、良く知ってるね……。トシ誤魔化してるんじゃないのか」


 私は上杉さんが開けたファンレターを読みながら訊いた。


「違いますよ。母がいつも歌ってたんです。原曲を聴いた事はそう何度もありません」


 手際よく、上杉さんは私の前に開封した手紙を置いて行く。


 私はそれに微笑み、次の手紙を手に取った。


「そう言えば先生って歌とか歌われないんですか……」


 私は苦笑しながらその手紙を開いた。

 そして、その癖のある懐かしい文字に視線を止めた。






 カレーが嫌いなあなたへ


 今もそのままですか


 私もそのままです


 もう遠くに離れてしまった気がして


 寂しく思う反面、とても嬉しくあなたの作品を拝見してます


 いつまでも応援してます


 夢を叶える事が出来たあなたへ






 その手紙にはそんな文字が並んでいた。


「どうしたんですか……」


 上杉さんは立ち上がり、私の横に立った。

 そしてその手紙を声を出して読んだ。


「カレーが嫌いなあなたへ……」


 私は慌ててその手紙を折りたたんだ。


「お知り合いからの手紙ですか……」


「何でもないよ……」


 私はその手紙を封筒に戻し、テーブルの上に投げ出す。

 それを見て上杉さんは私の向かいに座った。


 思い出した……。


 ホワイトムスクの香りは、この手紙を書いた女性の付ける香水の香りだった。

 もう十年以上前の事だが、香りの記憶とはそれ程に残るモノなのだろう。

 彼女の胸に顔を埋めるといつもこのホワイトムスクの香りがしていた。

 その時はホワイトムスクの香りだという事も知らなかったが、今、私の部屋に広がるこの香りは間違いなく彼女の香りだった。


 上杉さんは私の変化に気付いたのか、ニヤニヤと笑いながら私の顔をじっと見ていた。


「先生……」


 私をじっと見つめる上杉さんから視線を外し、テーブルの上のタバコに手を伸ばした。


「先生のカレー嫌いは私も知ってますよ。その彼女もカレーが嫌いだったんですね……」


 上杉さんはまた封筒の開封を始める。

 彼女がペーパーナイフで開封する心地よい音が静かな部屋に広がった。


「昔の話だよ……」


 私はタバコに火をつけながら答えた。


 上杉さんはクスリと笑い、彼女からの手紙に手を伸ばした。


「連絡先とか入ってないんですか……」


 そう言うと封筒から手紙を出し、中を覗き込む。

 そして中から一枚のカードを見付け取り出した。


「入ってますよ……」


 私の前に一枚のカードをそっと置いた。そのカードには携帯電話の番号だけが書かれていた。


 上杉さんは満面の笑みで頬杖を突き、私の顔を見ている。


「連絡した方が良いんじゃないですか……」


 私は煙を吐くと、口元を歪める様に笑い、頭を掻く。


「馬鹿言うな……。もう十年以上も前の話だよ。それに……」


 私はその手紙の消印を見た。


「編集部に届いたのも一年以上前だしな……」


 上杉さんは申し訳なさそうに頭を下げる。


「聞かせて下さいよ……。その人と先生の話」


 上杉さんはコーヒーを口にして身を乗り出した。


 私は息を吐くと、タバコを消して、コーヒーを口にした。


 あれから十年……。






 まだ私は単なる小説家志望で、サラリーマンをしながら趣味の様な小説を書いていた。

 公募にも出していただけで、当時から主流になり始めていたネット小説を書いては自己満足に浸っていた。

 そんな時に彼女とはそのネット小説のコミュニティで知り合った。

 彼女も小説サイトに幾つか作品を上げていたが、私の作品を好んで読んでくれている様で、いつもコメントをくれた。

 そして、小説の中の風景描写の話をしている時に、住んでいる街が近い事が分かり、それから会うまでにそんなに時間はかからなかった気がする。


 初めは喫茶店で会い、小説の話を沢山した。

 どんな作家が好きだとか、どんな作品が好きだとか……。

 その時に喫茶店で食事をしようとしたが、カレーライスしか無くて店を出た。

 その時に二人ともカレーが嫌いだとわかった。


 それから毎日、二人はネットで会話を重ねた。

 二度目に会った時には、互いに惹かれ合い、その気持ちを抑える事は出来なかった。

 そしてそれ以降は会う度に抱き合っていた。


 一年が過ぎた頃、彼女には夫がいるという事が分かり、私は動揺した。

 しかし既に彼女と別れるという選択肢は私の中には無かった。

 不思議と彼女に裏切られたという感覚も無く、私は変わらず彼女を愛していた。







「不倫って事ですか……」


 上杉さんはコーヒーのお代わりをカップに注いて、テーブルに戻って来た。


「世間から見ればそうなるな……」


 私は上杉さんからカップを受け取ると、礼を言って口を付けた。


「それからどうなったんですか……」


 私は、天井でゆっくりと回るファンを見つめる。






 ネット小説のサイトでも私のファンはどんどん増えて行った。

 色々な人が応援コメントなどをくれるそのサイトの中で、彼女の存在は埋もれて行き、コメントさえくれない様になって行った。

 夫がいると考えるとこちらから連絡もし辛くなって行き、疎遠になって行った。


 そしてある日、彼女からSNSにメッセージが届いた。

「子供が生まれたました」と一文だけのメッセージだった。







「まさか、先生の……」


 上杉さんは息を飲んで身を乗り出した。


 私はゆっくりと首を横に振った。


「分からないんだ……。それは今も……」


「でも、もし先生の……」


 私はまた首を横に振る。


「もし、そうだとしても……」


 そこで言葉を止める。


 そう、もしそうだとしても、それで彼女の家庭を壊す訳には行かない。

 





 その後、彼女との連絡は取れなくなった。

 小説サイトからも姿を消し、携帯電話の番号も変わってしまっていた。


 もう二度と会えない人になってしまった。







「でもこんなカードを入れて来るんですから、連絡が欲しいんですよ……」


 上杉さんは私の前に置かれたカードを、手に取って私に突きつけた。


 私は微笑むとそのカードを受け取った。


 あのホワイトムスクに包まれた時間は、現実だったのだろうか……。


 私は小さく頷くと携帯電話を手にした。


「連絡してみるか……」


 私はカードに書かれた番号を押した。

 上杉さんは優しい眼差しで私を見ている。


 私は通話のボタンを押す振りをした。


「もしもし、今、何処にいますか」








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