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おはよう、眠り姫

作者: 日車メレ

 ラケーレ・イヴレーアは長い眠りから目覚めた。


(ここは王宮の中……かしら?)


 世話役らしき女官が最初に気づくと、彼女は歓喜で瞳を潤ませながら、部屋から飛び出していった。

 部屋の外から声がして、駆けつけて来たのはラケーレが一番に会いたかった人物だ。


「ラケーレ! ……この日をどれだけ待ち望んだことか……っ!」


 ラケーレの手をギュッと握ってくれたのは、王太子アドルナートだ。

 幼なじみとはいえ、王族の前でいつまでも寝転がっているのはおかしいと考えて、ラケーレはどうにか身を起こそうと試みる。


「私、身体に力が……」


 けれどだめだった。ずっと眠っていたせいか、身体がまったく言うことを聞かない。


「無理をしてはだめだ。どうかこのままで」


 動こうとするラケーレを優しくベッドに押し込むアドルナートの手がとても温かい。

 ずっと長い夢――それも悪夢を見ていた気分だった。

 やっと大切な人たちのもとへ戻ることができたのだと、その手が教えてくれている気がした。


「アドルナート王太子殿下……。長く眠っていてごめんなさい。……今は、何日……でしょうか?」


 過去に同様の能力を有していた者の記録から、力を使ったら長期間眠ってしまうことは最初からわかっていた。

 まだ頭がぼんやりとしているせいでどれくらいの期間眠っていたのかは予想できない。


「新暦七百十一年、十月だ」


「……そんなに?」


 ラケーレが病に倒れた国王を救うために奇跡の力を使ったのは、新暦七百十年の九月だったはず。すると一年と一ヶ月という長い時間眠っていたということになるのだろう。


 眠る前のラケーレは十四歳だった。それならば二つ年上のアドルナートは、もう十七歳になってしまったのだ。

 よく見れば、短かったはずの金色の髪がひとくくりにできる長さに伸びていた。背はそんなに変わっていないが、若干大人びた印象になったかもしれない。


「あぁ……ラケーレ……本当にご苦労だった……」


「いいえ、私は眠っていただけですから。それよりも、国王陛下はご快復なさったのですか?」


「もちろんだ。今日は残念ながら公務で都を離れている。帰ってきたら、きっと真っ先にここにやってくるはずだよ」


 アドルナートの大切な人を守れたこと、望まれた役割を果たせたこと――その両方にラケーレはほっとしていた。


「よかったです、本当に」


 力を使ったせいで仮死状態となっていたラケーレは、いつでも医師の診察を受けられるようにと王宮の一室で眠っていたらしい。

 しばらくすると侯爵にして宰相を務める父、優しい母と兄が屋敷から駆けつけてきて、皆で再会の喜びを分かち合うことができた。


 それから、治療後すぐ公務に復帰したという国王もわざわざ見舞いに訪れて、土産だと言って高価な布地を贈ってくれた。


「ラケーレ嬢は奇跡をもたらす聖女だ。私は、君とイヴレーア侯爵家の忠義に報いるため、命ある限り国民を導き続けようと思う」


 涙を流しながらそう宣言する国王。

 ラケーレはその姿を眺めながら、自分の力を誇りに思った。



   ◇ ◇ ◇



 仮死状態だったラケーレは、医療と魔法により健康状態が保たれていた。

 それでも筋力は少し衰えていたようで、最初は歩くことすらままならなかった。

 王宮勤めの医師や魔法使いたちの指導のもとで、ゆっくりと回復に向けての訓練が行われる。


 目が覚めてから一週間後。


 ようやく短い距離ならば歩けるようになったラケーレが王宮内の庭園で女官を伴い散歩をしていると、遠くに人影が見えた。


「ラケーレ!」


「あなたは……ええと……」


 近づいてきたのは軍服をまとう人物だ。


「私だ、わからないのか?」


「……もしかしてバルド殿下でいらっしゃいますか?」


 彼はラケーレと同じ十四歳……いいや、今は十五歳になっている第二王子バルドだった。

 すぐにわからなかったのは、その成長が著しいせいだ。

 いつの間にか彼の兄である王太子よりも背が高くなっているし、声も低い。

 服装は王子らしいフロックコートではなく、軍服に変わっている。

 艶のあった金色の髪が短く刈られているが、どこまでも真っ直ぐに人を見つめてくる青い瞳の印象はあまりかわらない。

 ラケーレは薄茶色の髪に榛色の瞳という比較的地味な見た目をしているから、いつも二人の王子の華やかな見た目に圧倒される。


(そういえば、十五を過ぎたら陛下やアドルナート王太子殿下を支えるために軍に入るとおっしゃっていたんだったわ)


 任務でどこかに行っていたのだろうか。

 よく見ると、軍服の裾や肩のあたりに土がついている。


「訓練で都を離れていたんだ。そうしたら君が目を覚ましたというから……」


「もしかして、急いでここまで?」


 よく見ると、彼は白い薔薇の花束を抱えていた。見舞いの品だろうかと思い、ラケーレがなんとなく気にしていると、バルドがサッと花束を背中のほうに隠した。


「急いでなんて……いない。私は軍人だから、友人とはいえ君のために訓練を切り上げて帰るなんていう勝手は許されなくて……その……」


「それは失礼いたしました」


 目覚めたばかりなのだからもう少し優しくしてくれてもいいのに、とラケーレは内心不満だった。


「それより、一年も眠っていたのに、もう歩けるのか? 大丈夫なのか?」


 二人の王子とラケーレは幼なじみとして親しくしていた。

 三歳の頃に行われた魔力判定の儀式で特別な力が判明したことがきっかけで、ラケーレには常に護衛がつくようになった。

 基本的には侯爵家のタウンハウスか、警備が厳重な王宮で過ごしていて、実兄と二人の王子が遊び相手だった。


 二つ年上のアドルナートが温和で優しい兄のような人柄なのに対し、同じ歳のバルドはぶっきらぼうだ。

 互いに気が強いからなのか、ラケーレとバルドはすぐに喧嘩になってしまう。

 正直、バルドとは仲がいいとは言い難い関係だ。


「ええ。ほとんど時が止まっていたようなものですし、王宮の医師や魔法使いの方々も眠っているあいだの私を守ってくださっていたので。……見た目も変わっていないでしょう? ……起きたら皆が少しずつ変わっていて、なんだか不思議な気分でした」


 この一週間、ラケーレは家族やアドルナートにこれでもかというほど甘やかされている。

 嬉しいという感情を抱くのが当然だというのに、時々妙な不安と寂しさに囚われた。


 どうして不安になるのかわからなかったのだが、近しい者の中で変化が最も大きいバルドと再会し、ようやく理由がわかった。


 皆が成長し、それぞれ前を向いて進んでいること。

 ラケーレだけが知らない思い出を、皆が作って共有していること。


 そういうものを感じるたびに、自分だけが置いていかれた気分になる。

 眠っている最中は身体の成長が止まってしまう。一人だけ見た目も心も成長できていない現実が不安だったのだ。


「そうか……。よかったな」


「はい! 国王陛下もご快復なさって、私も元気ですし……本当によかったです」


 ラケーレが不安がると、まわりの人間が困るだろう。だから、心にできたシミのような感情は表に出してはいけないものだ。

 国王はバルドにとっても父親だ。それならばほかの人たちと同様に、もっと喜んでくれるかと思ったのに、彼はうかない顔だった。


「……バルド殿下?」


 なにか、思い詰めた表情というかんじだろうか……。

 ラケーレは気になって、彼の顔を覗き込む。今はもう、少し上を向かないと視線が合わなくなってしまった。


「ラケーレ、いいか。たぶんもうすぐ、王家から君へ……縁談がもたらされるはずだ」


「縁談?」


 予想外の言葉に驚いて、思わず聞き返してしまう。

 王家からだと彼は言っているが、いったい誰との縁談だろうか。


(もしかして……アドルナート王太子殿下……かしら?)


 目覚めたら一番に駆けつけて来たのは彼で、この一週間毎日見舞いに来てくれるのも彼だ。

 ラケーレは自分の頬が熱くなっていくのを感じていた。


「兄上との縁談が打診されたら、断れ。……絶対に」


「どうして!」


 先ほどからバルドの言葉は予想外の方向にばかり進む。

 彼はしばらく眉間にしわを寄せたままなにやら思案したあと、ためらいがちに理由を告げた。


「……君に王妃は務まらない。……恩義だけで結婚してもいつか破綻するだろう」


「そんな言い方、ひどいわ!」


 アドルナートが優しいのはラケーレが国王の恩人だからかもしれない。

 けれど、恩義がすべてだなんて到底思えないし、バルドにわかるはずがない。

 それに、ラケーレに能力がないとはどういう意味だろうか。

 国一番の才女とまではいかないものの、ラケーレは同世代の令嬢の中でそれなりに優秀なほうだという自負があった。

 そうでなければ、幼なじみだとしてもこの年齢まで王族と親しくすることなどできなかったはずなのだ。


「恋心なんて、王侯貴族にとっては目を曇らせるだけの邪魔な感情だ……。捨てたほうがいい」


「恋心? 私、そんなもの持っていません!」


 その言葉を聞いた瞬間、ラケーレの中に負の感情が湧いてきた。

 もしかしたらバルドにはお見通しだったのかもしれないが、アドルナートへの憧れを、バルドに語ったことなど一度もない。

 それなのに勝手に決めつけられて、ひたすらに恥ずかしかった。


「ラケーレ……冷静に」


「わ、わかったわ……。バルド殿下は……私が嫌いなんでしょう?」


 実際、アドルナートとは言い争いなどしたことがないのに、バルドとはしょっちゅうだった。お互い気が強いからだと思っていたが、そうではなかったのかもしれない。

 ラケーレは彼に裏切られた気分になっていった。


「そんなことはない。……大事な、幼なじみだと思っている。だからこその忠告だ」


 あからさまに視線を逸らすのは後ろめたい証拠だ。


「お兄様を取られてしまうみたいで嫌なんだわ。きっと」


「私はもう、一人前として扱われる年齢だし、軍に入隊して独り立ちしているんだ! 兄を取られるなんて幼稚な発想は持ち合わせていない」


「幼稚で悪かったわね! ……どうせ私は、社交の場にすら出ていない、子供よ」


 十五歳という年齢は、この国では重要な意味を持つ。

 社交界にデビューする時期であり、軍に入隊できる年齢であり、貴族にとっては後見人なしでの爵位継承が可能な年齢でもある。

 本当の意味での成人はもう少し先だけれど、変化の歳ではあった。


 その大切な一年、ラケーレは眠っていたのだ。


 もうこれ以上バルドの話なんて聞きたくなかった。

 だからラケーレはかたちばかりのお辞儀をしてから、彼にサッと背を向け歩き出した。


「ち、違う。そういう意味じゃない。……待ってくれ……」


 当然、その言葉は無視をして、ラケーレは付き添いの女官と一緒に王宮内に与えられた客間に戻った。



   ◇ ◇ ◇



 それからまもなく、ラケーレはイヴレーア侯爵邸に帰ることができた。


 家族と過ごす日々も大切だけれど、これまでのようにアドルナートと気軽に会えなくなってしまうのは、少しさびしい。


 けれどそんな感情はすぐにどこかへ飛んでいく。


 バルドの予想どおり、ラケーレはアドルナートから求婚されたのだ。

 侯爵家の両親は、王太子妃になると自由がなくなるし、苦労も絶えないという理由で、諸手を挙げての賛成という様子ではなかったが、最終的にラケーレの意思を尊重してくれた。


 確かに、王太子妃となるためには学ばなければならないことが多かったが、まったく苦ではなかった。

 週に二日王宮へ通い、王妃や女官からの指導を受ける。

 それが終わると、アドルナートと二人でお茶の時間を過ごすのが習慣となっていた。



 そして、三年の月日が流れる。



 ラケーレは書類上で十八歳になった。

 バルドの心配を余所にラケーレの教育は順調で、アドルナートや王妃、そして厳しい教育係からも褒められることが増えていった。

 アドルナートとの関係も良好だ。


(なにも心配ないわ……)


 身体的には十七歳かもしれないが、結婚適齢期であることには違いない。婚礼に向けての準備が着々と進み、この日はウェディングドレスを仕立てる予定だった。


「あと半年で……婚礼の日を迎えるんですね」


 王宮内の一室には、この国で一番の仕立屋が招かれている。

 美しい絹の織物や刺繍の見本などが並べられてある空間に、ラケーレの心は躍る。

 王太子と侯爵家の一同だけではなく、王妃までやってきて、ああでもない、こうでもないと意見を出し合った。


「古典的な装飾のないドレスも、ラケーレになら絶対に似合うわ」


「あらあら侯爵夫人、ラケーレはこんなにも可愛らしいのだから最新のふわふわしたドレスが似合うわよ」


 本人をそっちのけにしてドレス選びに熱心だったのは、二人の母親だった。

 白熱し、言い争いに発展しそうな勢いだが、それもすべて二人がこの結婚を祝福しているからこそだ。


「あぁ、もう! 母上、侯爵夫人……一番重要なのはラケーレが気に入るかどうかだよ」


 見かねたアドルナートが止めに入る。

 ラケーレのほうに手招きをして、デザイン画を持つ職人の近くに来るように促した。


 ラケーレはそれでようやく落ち着いて婚礼衣装を選ぶことができた。


「アドルナート様のお衣装とのつり合いも大切ですよね」


「慎ましいのは君のいいところだけど、今回に限ってはそういう考えはだめだよ、ラケーレ。君の衣装に、私が合わせればいいだけなんだからね」


 アドルナートのおかげで、ラケーレは自由に婚礼衣装を選ぶことができた。

 少し子供っぽい顔立ちが気になるので、裾の広がりが少ない、大人びたデザインにした。

 白一色のドレスでも、豪華な刺繍を施すと重厚な印象になる。

 ラケーレに似合い、王太子妃としてもふさわしい一着になりそうだった。


 アドルナートはこれ以上ないほど、ラケーレを大切にしてくれている。

 ラケーレも、いずれ国王となる彼にふさわしい人間であろうと努力を続け、認められている。


 二人の結婚にはなんの障害もなかった。


 そんな幸せな日々に暗雲が立ち込めたのは、婚儀を三ヶ月後にひかえたある日のことだった……。


「アドルナート殿下が刺客に……? う、嘘……」


 王宮から急ぎの使者がやってきて、アドルナートが視察中に襲われたという報がもたらされた。

 ラケーレは、父と一緒に急ぎ王宮へと向かう。


 ベッドに横たわり、額や腕に包帯を巻き付けられているアドルナートは、意識を失った状態だった。

 ハァハァ、と短い呼吸を繰り返す様子は、とても見ていられるものではない。


 医師の説明によれば、とくにひどいのは脇腹と脚の傷とのことだった。

 その場所は毛布で覆われていて、今は見えない。


 アドルナートへの対応を一旦医師と魔法使いに任せ、国王と第二王子バルド、ラケーレの父、ラケーレという四人による話し合いの場が設けられた。


(きっと、私の力を使うかどうか……だわ……)


 テーブルの上には紅茶やお菓子が並べられていたが、誰一人として手をつける者はいない。

 話し合いの場には重々しい空気が流れていた。


「ラケーレ嬢、見てのとおりだ……。このままではアドルナートは……」


 神妙な面持ちで、国王がそう告げた。

 やはり、ラケーレの力を使うしかないのだろう。


「お待ちください父上! 医師と魔法使いからは助かる可能性のほうが高いと言われていたではありませんか。しかも視察と言っても、お忍びでしょう? そんな理由でラケーレの時間を奪うつもりですか!?」


 怒りを露わにしたのは、バルドだった。


「だが、医師は絶対の保証はできないと言っておる。傷そのものは死に至るものではないとしても、合併症で命を落とす危険性があるのだ。それに、後遺症も心配だ。……アドルナートは次期国王なのだぞ。完璧な身体でいてもらわねば……」


「完璧な……? ラケーレの持つ奇跡の力は、例が少なく、彼女の身体に及ぼす影響が不明です。……眠りの時間は使用回数と共に長くなる傾向だといいますし、三回目で仮死ではなく、心音が止まった者がいたのはご存じでしょう?」


 自分の持っている力のことだから、ラケーレも過去、同じ能力を持って生まれた――聖女と呼ばれた者たちについての記録を読んでいた。

 多くの人を救える力ではないこと、そして使用者の負担が眠りだけではない可能性も当然把握している。


(怖い……だから私、考えないようにしていて……)


 バルドの言葉は正論だが残酷だ。

 ラケーレは大切な人をためらわずに救える、聖女と呼ばれるにふさわしい人間でありたかった。それなのに、恐怖から迷いが生まれてしまう。


「この状況でラケーレ嬢の不安を煽るようなことを言うでない! ……アドルナートが快復しなければ、ラケーレ嬢の結婚だって白紙になるのだぞ」


「こんな状況だから言っているんです。自分でやったことの責任は自分で取るべきだ。……彼女の力は、本来その者が負うべきものを肩代わりするだけで、奇跡なんかじゃない。身代わりというんですよ、父上! ……どちらにしたって結婚は延期でしょう」


 この話し合いの場ではバルドが強く反対し、ラケーレの父もかなり消極的な態度のままだ。結局、いくら時間が経っても結論は出ず、しばらく様子を見ることになった。


 ラケーレはなにが正しい行動かを必死に考え、そして皆に向かってある提案をしてみた。


「私は王宮に留まり、アドルナート様の看病をさせていただきます。……このまま快復に向かえばそれでいいでしょうし、もしもの場合も私が近くにいれば……最悪の事態は避けられます」


「おお! ラケーレ嬢、ぜひそうしてくれ。そうだな、アドルナートは未来の妻であるそなたの支えがあればきっと快復するだろう」


 父とバルドはそれでもなにか言いたげにしている。

 ラケーレは彼らが自分を心配してくれているからこそ、怒ってくれたのだと知っていた。

 そうだとしても、どうにかしてアドルナートを救うことしか考えられなかった。


(お医者様の見立てどおりなら、私が力を使わなくても大丈夫なはず。献身的にお世話をすればきっと快方に向かわれるわ!)


 正直、バルドの言葉が胸に突き刺さっていた。

 ラケーレの力は奇跡ではなく、身代わり――それが本質なのだと自分自身がよくわかっている。

 だから、もう一度力を使うことが怖くて仕方がない。

 精神的には十七歳の未熟な小娘であるラケーレが、医師が示す見解の中で最も楽観的なほうを信じるのは仕方がないことだった。


 そして、アドルナートが刺客に襲われてから二日目――。


(眠い……のに……まったく眠れないわ……。でもつらいのは私じゃなくてアドルナート様だもの。弱音なんて吐いたらだめよ)


 アドルナートの体温がどんどんと上昇していった。

 眠っているときも常に息苦しそうだ。たまに目を開けてもまともに話ができず、「痛い、苦しい」と叫ぶばかりだ。


「……ラケーレ……。手を握っていて……くれ……」


「はい、ずっとこうしております。大丈夫ですよ、アドルナート様」


 痛ましい姿を目の当たりにしたラケーレは、だんだんと追い詰められていった。

 救う方法を持っているのに、使わない自分が薄情である気がしていた。


 暗殺未遂事件から四日後。

 アドルナートに大きな変化はなかったが、起きている時間が少しずつ増えていた。

 ただ、それは本人にとっては必ずしもいいこととは限らない。


 時間が過ぎるのが遅く感じて、益々つらさを表に出すようになった。

 医師の診察では経過は順調だというので、それを信じるしかなかったのだが……。


 その日の深夜。

 アドルナートの部屋の隣室で仮眠をしていたラケーレのところに女官がやってきた。


「遅くに申し訳ございません。アドルナート殿下のお加減が芳しくなく、国王陛下から令嬢に大事なお話があるということです」


「アドルナート様が? すぐにまいります」


 ラケーレは飛び起き、寝間着の上にガウンを羽織った状態で、アドルナートが眠る寝室へと移動した。


「どうなさいましたか!?」


 相変わらず荒い呼吸を繰り返してはいるものの、ラケーレが眠る直前から彼に大きな変化は見られない。

 それでも、国王はいつになく神妙な面持ちだった。


「先ほど医師とも話をしたのだが、今夜が峠で……かなりまずい状況だ」


「そんな! ……お医者様は午前中、経過は順調だと……」


 これまで仮眠を取る時間を除き、ずっと看病を続けて、最もアドルナートの症状をわかっているのはラケーレだという自負があった。

 にわかには信じられず、ラケーレは部屋の隅で待機している医師へ視線を向けた。


「……陛下のおっしゃるとおりです」


「急変することもあるのだよ、ラケーレ嬢」


 そのとき、アドルナートの手が動き、ラケーレのほうへと伸ばされた。

 ラケーレは駆け寄って、その手をギュッと握りしめる。昼間と変わりないように見えても、彼が苦しんでいるのは明らかだ。


 もう、決断しなければならないのだ。

 ラケーレは一度大きく息を吸って呼吸を整えてから、口を開いた。


「国王陛下。急ぎ……父を呼んでいただけませんか?」


 今度はラケーレのほうが目覚めないかもしれない。

 だからせめて家族に今の状況を説明し、納得してもらわなければならないはずだ。


「侯爵が来るまで待っていたら手遅れになるだろう! ……ラケーレ嬢、頼む。息子を助けてくれ。このとおりだ」


「陛下……ですが……」


 国王がアドルナートの快復を強く願っていることは重々承知だ。

 それはラケーレの願いでもあるのだが、父や、兄……それからバルドが望んでいないこともわかっている。

 ラケーレは、彼らの言葉を聞いたうえで、それでも自分の考えが揺らがない、間違っていないのだと確信したかった。

 そして、その時間が与えられないことに不安を感じている。


「苦しい……助けてくれ……。痛いんだ……ラケーレ。助けて……」


 手が強く握られた。


 きっとラケーレは、未熟な存在だ。

 これから確実に年単位で会えなくなる家族との別れの時間すら与えられないこの状況に猛烈な違和感を覚えていた。

 冷静な判断ができていないという自覚もある。


 それでも国王の言葉は命令に等しく、アドルナートの懇願がラケーレの選択肢を奪った。


(お父様……それからバルド殿下も……ごめんなさい……)


 悲しませるとわかっているのに、もう方法がなかった。

 ラケーレはアドルナートの手を両手で強く握る。


「アドルナート様……一年半、それとも二年くらいでしょうか? もしかしたら、もっと長いかもしれません。いつ目が覚めるかわからないですが、待っていてくださいね……。私の時間は止まってしまうかもしれませんが……起きたら……皆に祝福される、最高の結婚式をしましょうね」


「ラケーレ……助け……」


 ラケーレは瞳を閉じて、生まれたときから自分の中にある奇跡の力を呼び覚ます。

 初めてこの力を使ったときもそうだったが、奇跡の起こし方は身体がよく知っていて、ラケーレはただ、目の前にいる人物を本気で救いたいと祈るだけでいい。


 身体のどこからか光が生まれてくる。

 光はだんだんと広がっていって、やがてアドルナートを包み込んだ。


(これで……もう大丈夫……)


 気が緩むと、一気に眠気が襲ってくる。

 目を閉じて、意識を失う寸前、意外にも心を占めていたのは、アドルナートを救える喜びではなかった。


(お父様、お母様……お兄様……バルド殿下……ごめんなさい……)


 家族とバルドはきっと悲しむだろう。

 わかっているのに、ほかの道を選べなかった。だから、心の中で何度も謝罪の言葉を唱えながら、ラケーレは深い深い眠りの世界に入り込んでいった。



   ◇ ◇ ◇



 眠っているあいだに悪夢を見ている気がするのは、治療した相手の傷や病を肩代わりした影響なのだろうか。

 それでも目が覚めるとすべて忘れてしまうのだから些細なことだ。


 この日、ずっと水底に沈んでいたラケーレの意識が浮上した。

 最初に感じたのは甘い香りだった。


「……殿下からまた白薔薇が贈られてきましたよ。眠っていても香りは届くかもしれませんからお近くに置いておきますね」


 嗅覚の次は聴覚。誰の声だろうか。

 その声に導かれるようにして、ラケーレの夢はようやく終わる。


「……白、薔薇……?」


 かすれた小声しか出ないことにラケーレは驚き、急激に意識が覚醒していった。


「お、お嬢様!?」


 ラケーレのほうを覗き込み目を丸くしているのは、侯爵家に使える古参のメイドだった。


「……あ、あれ? ばあやなの? じゃあここは王宮ではなく侯爵邸?」


 慣れ親しんだ侯爵邸の私室だった。

 前回は王宮の客間に寝かされ、いつでも医師や魔法使いが駆けつけられるようになっていたが、今回は違っていた。


(知らない場所で目が覚めるより、いいのかも……)


 ばあやが伝えに行くとすぐ、ラケーレの母と兄がやってきた。

 母は涙ぐみ、兄は少し怒っていた。

 勝手にアドルナートのために奇跡の力を使うという選択をしたから当然だ。

 憤りは愛情の証だろう。


「お母様……お兄様……私、長いあいだ眠ってしまったの……?」


 母の目の下に小じわが増えているし、兄もどこか雰囲気が変わっている。

 前回と同じ一年で済んでいないことはなんとなくわかった。


「そうね。三年になるわ」


「三年!? そんなに……。アドルナート様はお元気ですか?」


「……」


 兄が一瞬、顔をしかめる。


「お兄様? アドルナート様になにか……」


 成功したと確信してから眠ったはずだったが、まさか失敗だったのだろうか。

 ラケーレは黙り込んだままの兄をじっと見つめた。


「いや、もちろんご快復なされたよ。なにも問題ない」


「お父様は、お出かけ?」


「あ、あぁ。……少し遠くにいて、すぐには帰ってこられないだろうな。それよりもまずは診察を受けて、食事をとらなきゃ……体力の回復を優先するんだ」


 それから三日間。ラケーレは前回と同じように身体の機能を回復させることに集中した。


(どうして、アドルナート様はいらっしゃらないのかしら?)


 目覚める直前にみずみずしい白薔薇が届けられたのだから、彼が三年間ラケーレを気遣い続けてくれたことに間違いはないはずだ。

 それなのに、どうしてアドルナートは姿を見せないのだろうか。

 王宮へはすでに兄が手紙を送ったと言っていたが、なんの音沙汰もない。


(アドルナート様は……二十三歳かしら? 立派な次期国王になられているはず。きっとあの頃よりも公務をたくさんされていて……忙しいのよ……)


 それとなく兄に聞いてみてもはぐらかされてしまう。

 なにかおかしいと感じたが、答えは出ないまま時間だけが過ぎていった。


「よし、気分転換に廊下に出て……歩く練習でもしましょう」


 ばあやはいなかったが、廊下には手摺りも設置されているのだからわざわざ付き合わせるほどでもないだろう。

 そう判断したラケーレは一人で私室を出た。

 しばらく歩くと、応接室のほうが騒がしいのに気がついた。


「恩人であるラケーレを見舞うのは当然だ」


 アドルナートの声だ。三年経っても変わらない、愛おしい人の声だった。

 ラケーレは早足になり、声のするほうへ向かった。

 扉をノックする直前になり、今度は兄の声が響く。


「……王太子殿下。お手紙でも説明いたしましたが、あの子の心は三年前で止まっているのです。今は身体の快復を優先すべきで、殿下とのことも……父親の死も……まだ知らせておりません」


 父親の死――兄はいったいなにを言っているのだろうか。

 すぐには帰ってこられない遠くに出かけていただけのはず。

 なぜ兄はそんな冗談を言うのだろう……彼らしくないし、たちが悪かった。


「イヴレーア侯爵。……まさか、私を助けなければ先代侯爵が助かっていたと言いたいのか?」


(どうしてお兄様がイヴレーア侯爵と呼ばれているの……? 先代侯爵?)


 兄の呼称が「侯爵」に変わっている。

 それがなにを示すのか、立ち聞きしただけでも十分に理解できなければおかしい。けれどラケーレの心は真実を受け入れたくないと叫んでいた。


「先代侯爵……私の父は、たとえラケーレが眠っていなかったとしても、自分のために力を使えとは言わなかったでしょう。ただ、最後の時間を家族一緒に過ごしたかった。……それが、我々の愛です。殿下」


「あの頃は! 私だってラケーレを大切にしていたじゃないか」


「ええ……。危険だからとラケーレの行動を制限し囲い込み、ご自身は市井で羽を伸ばし、痴情のもつれで重傷を……。死に至る怪我ではなかったそうですね? ……ただ、足が動かず、歩けなくなる可能性が高かったと」


 ラケーレの身体から、一気に血の気が失せていく。

 眠る前に信じていたすべてが今、否定されているのだ。


「奇跡の力を使わせたのは父上だ! ……私はずっと意識が朦朧としていて……」


「存じ上げております。……理由はどうあれラケーレはあなたに三年を捧げた。……三年ですよ! それなのに殿下はたった数日すら待ってくださらないのですか?」


 あの日、なぜ医師の見立てが覆ったのか。

 ラケーレも違和感を覚えていたのに、国王の言葉に異議を唱えることはどうしてもできなかった。

 そういう状況に追い込まれていたのだ。


(私は……なんて、愚かな間違いを……)


「そうかもしれないが、だが……こちらは王家の一大事なんだ。はやくラケーレとの婚約解消を進めなければならない」


「殿下の恋人……ゾーエ嬢がご懐妊なさっているからでしょうか?」


「そうだ……。もしお腹の子が王子だったら世継ぎとなるのだ。急ぎ手続きを済ませなければ聖職者から認められない不幸な子供になってしまう。……事の重要さが侯爵にもわかるだろう?」


「ラケーレの同意なしに進めるおつもりだったではありませんか。先日、しみだらけのドレスが我が家に送りつけられてきたばかりですし」


 ドレスとは、きっと婚礼衣装だ。

 三年でしみだらけになるほど、雑に扱われていたのだろうか。


(ドレス……どこにあるの……?)


 ラケーレは踵を返し、フラフラと廊下を歩きはじめた。けれど数歩進んだところで、視界が揺れた。

 転んでしまったという事実は認識できたが、痛みもない。もうなんの感情も湧いてこなかった。


 耳を塞いだほうが傷つかずに済むとわかっているのに、手を動かすことすら億劫だ。


「三年間眠っていたというだけで、婚約を解消するには十分な理由にはなる。だが、目が覚めてしまったのなら正式な手順を踏まなくてはならない。……彼女に恩は感じているんだ。だから、この私に不誠実な対応をさせないでくれ」


 まるで、正式に二人の婚約が撤回されるまでラケーレが眠ったままでいればよかったと言わんばかりだ。

 眠っていたラケーレが悪いと責められている気分だった。


「不誠実……? これは……おかしい。ハハハッ」


 兄の笑い声は悲しく虚しいものだった。

 遠くで誰かが「お嬢様!」とラケーレを呼ぶ。


「……お父様に……ごめんなさい……すら言えなかった……」


 一気にいろいろな事実が判明したせいで、頭の処理が追いつかなかったのかもしれない。

 急速に眠気が襲ってきて、ラケーレはそのまま意識を手放した。



   ◇ ◇ ◇



 しばらく眠って目が覚めてから、ラケーレは一切取り乱すことなく母や兄の話を聞いた。

 父は一年前に流行病で亡くなり、今は兄が爵位を継いでいる。

 アドルナートにはすでに恋人がいて、いつまでも目覚めないラケーレとの婚約を解消する予定で話が進んでいたらしい。

 直接彼と言葉を交わせないままだったが、ラケーレは婚約解消に同意した。


 泣いて、母や兄に嫌だと訴えても、事実は変わらない。

 そんな無駄なことをして三年間待っていてくれた家族を悲しませてはならないとラケーレの理性が訴えていたのだ。


 ただし前向きな気持ちでつらい出来事を乗り越えたわけではない。


 自分だけが取り残されて、親しかった人の何人かは手の届かない遠くへ行ってしまった現実を知ったというだけだ。「わかっている」と「受け入れている」には大きな差がある。


 どこまでも心を空虚にしていけば、理性だけが残り賢く聞き分けのいいラケーレが出来上がる気がした。


「きっとあのとき、アドルナート王太子殿下の治療を行う選択をしてもしなくても……あの方と私が結ばれる未来はなかったんです」


 奇跡の力を持っているという理由でアドルナートのそばにいることが許されていた時点で、最初からこうなる定めだった。

 力の使用を強く拒絶していたら、アドルナートの心が離れていたはずだ。

 彼の身体が不自由になった場合、ラケーレが見捨てたせいだとして彼に恨まれただろう。


 そして彼から望まれた役割に従順でいた結果がこれだ。


「ラケーレ……」


 兄がラケーレを抱きしめて、代わりに泣いてくれた。


「でも、これでよかったんです。三年も眠ってしまったのですから……王家の方々もさすがに次はもうないと理解してくださったはず。特別な力は失われたも同然でしょう?」


 自分の能力だから、次に力を使えば命が危ういことくらいわかっていた。

 これまでは大事な人の命か、それとも眠りかという選択だったから迷い、眠るだけならばそちらのほうがマシであるという理論で力を使った。

 次は、そうではないのだ。


「私……二度と、この力は使いません」


「あぁ、使わなくていい。……頼むから使わないでくれ」


 ラケーレの力を欲する者は、ラケーレを心から愛する者にはなれない。


 三年の眠りを代償に唯一得たものは、その教訓だった。


 穏やかな日常を過ごしてほしいというのが、兄と母の願いだったはずだ。

 けれど国王と王太子から謝罪と礼の場を設けたいという提案があり、ラケーレは目覚めてから十日後に王宮へと向かうことになった。


 兄と一緒に謁見の間へと進む。


(アドルナート……王太子殿下……)


 三年の歳月が流れ、アドルナートが大きく変わった部分があるとしたら、ラケーレに向ける視線だろう。

 彼にも多少の後ろめたさがあるのか、ずっと目が合わないままだった。

 もう昔のようにほほえみかけてくれることはない。

 国王とアドルナートからそれぞれ声がかけられる。


「この度のイヴレーア侯爵家の忠義に感謝する。ラケーレ嬢のおかげで、王家は次期国王たる王太子を失わずに済んだ」


「ラケーレ、三年ぶりだ。……君が無事に目を覚まし、これでようやく私も肩の荷が下りたよ。これまでご苦労だった」


 真実を知ってから、ラケーレはずっと心が鈍感であればいいと思い続けてきたのだが、さすがにアドルナートを前に平静さを保つのには苦労がいる。


(忠義? 私は、荷物だった……?)


 奇跡の力は、当時のイヴレーア侯爵の意思を無視して使われた。そして、あのときのラケーレの想いは忠義ではない。

 純粋に好きな人を助けたいという気持ちだけだった。


 額から冷や汗が滲み、視界が揺らいだ気がした。


 けれど同時に、こんな理不尽に負けて無様な姿を見せたくないという執念のようなものが込み上げてきた。

 だからラケーレは背筋を伸ばし、堂々と返事をする。


「お気遣いありがとうございます。……一人の臣としてアドルナート王太子殿下のご快復を嬉しく思います」


 臣として――おそらく、彼らがラケーレから引き出したかった言葉をきちんと言えたのだ。


「そうか、うん……よかった。これですべてがあるべきかたちに収まった」


「国王陛下。……イヴレーア侯爵家当主として、一つお願いしたいことがございます」


 兄が真剣な面持ちで話しはじめる。


「うむ、なんだろうか。申してみよ」


「ラケーレが次に力を使えば、相当な確率で命を失う結果となるでしょう」


 眠りの期間が長くなること、代償が眠りではなく命になる可能性があること――そういう事例があるのは、国王に力を使った頃から何度も話題になっていた。


「そのようだな」


「二回の使用で、妹の身体はもう限界です。……これまで王家に尽くしたラケーレのために、二度と奇跡の力の使用を求めないという公文書をいただきとうございます」


「……だが、それはわざわざ公文書にするべき事柄か?」


 国王が渋るのは、もう一度使わせる可能性を考えているからだろうか。


「我が妹の命に関わる問題ですから、どうか。王太子殿下との婚約も解消となりましたし、無償の忠義を捧げてきたラケーレに平穏をお与えください」


 兄の視線には不敬に思えるほど強い非難が込められていた。

 国王も王太子も、多少の後ろ暗い思いはあったのだろう。かなりためらっていたが、最終的には兄の求めに応じてくれた。


 それから雑談をするでもなく、あっけないほど簡単にアドルナートとの決別の時間は終わってしまった。


(なんだか……別人みたいだったわ……。もう、あの頃のアドルナート様はいない)


 見た目はさほど変わっていないのに、現実のアドルナートに対する思慕は短い会話中にどんどんと損なわれていった。

 彼は王家に仇をなす刺客によって傷つけられたのではなく、痴情のもつれで刺されたという。ラケーレが感じていた優しく誠実な王太子なんて最初からいなかった。


 それでも、ラケーレの中に過去のアドルナートへの想いはまだ残っている。


 嘘で固められた幻影を見ていたのだとしても、ラケーレにとって優しいアドルナートは、つい先日まで実在していたのだ。


「イヴレーア侯爵、ラケーレ!」


 背後から声をかけてきたのは、軍服をまとう背の高い男性だった。

 肩幅も広く威圧感がある。逆光だったせいで顔がわからず、ラケーレは思わず兄の後ろに隠れてしまった。


「バルド殿下だ、挨拶を」


 兄から小声でそう言われて、ラケーレはハッとなった。

 三年前よりさらにたくましくなっていたが、紛れもなくバルドだ。


 ラケーレは一歩前に歩み出て、淑女の礼をした。


「バルド殿下、ご無沙汰しておりました」


「……あぁ。本当に久しいな」


 彼が向ける表情は哀れみだろうか。少し、気まずそうな様子で頬を掻いている。

 ラケーレは、昔からよく口喧嘩をする関係であったせいで、彼には弱い部分を見せたくないと思ってしまう。


 ただ今回だけは、謝罪しなければならない気がした。

 三年前、彼は奇跡の力の使用に反対してくれた。あのとき、ラケーレにもう少し客観的にものごとを判断する能力があったなら、こんな結果にはならなかったはずだ。


「あ……あの……私は……」


 謝罪よりも、お礼のほうがふさわしいかもしれない。

 なにか言わなければと焦ると、余計になにを言えばいいのかわからなくなる。


「よければ少し、散歩でもしないか?」


 ラケーレとバルドは、一度目の力の使用直後から、気軽な関係ではなくなっていた。

 言い争いをしてしまったし、ラケーレがアドルナートと婚約したこともあり、幼なじみであっても距離ができるのは当然だった。

 それに軍人となったばかりのバルドは、任務で都を離れる機会が多く、頻繁には会えなかったのだ。


 だからラケーレは戸惑って、兄のほうへ視線をやった。


「行ってきなさい、私は車寄せで待っているから」


「……はい、お兄様」


 バルドに言わなければならないことがあるのは、ラケーレのほうだ。

 兄の言葉に後押しされて、ラケーレは差し出されたバルドの手を取った。


 庭園に出て、少しガタガタとした石畳の道を歩く。

 かなりの頻度で王宮に通っていたラケーレにとっては見慣れた光景だ。大まかには変わっていないのだが、一部記憶と違う部分もある。


「この噴水……初めて見ました。綺麗な女神像ですね」


「ああ、この前完成したばかりだ」


 バルドはやはり昔とは違っている。

 以前はラケーレのエスコートなどしてくれる人ではなかった。


 一緒に遊んだら、笑顔で遠くまで走っていってしまい、手を振って足の遅いラケーレを呼び寄せる。そんな少年だった。


 それが今ではラケーレが噴水に興味を示すと止まってくれるし、歩幅も合わせてくれるようになった。

 本当に、大人になってしまったのだ。


「こっちに、私が管理している温室があるんだ」


「バルド殿下が温室? ……フフッ。……あ、ごめんなさい」


「いいや、似合っていない自覚はある。君が笑ってくれてよかった。……温室は元々、魔法による植物育成の研究に使っていて、今は……」


 そのとき、どこからか笑い声が聞こえてきた。自然と二人はその場で立ち止まることとなった。


「もう、アドルったら!」


 通路の側面に植えられた木々の隙間からは東屋が見える。

 そこに淡いブルーのドレスを着た女性と、アドルナートがいた。


「ハハッ、そんなにはしゃいではお腹の子に障るよ。ほら、紅茶を運ばせるから休憩しよう」


「安定期ですもの、大丈夫ですわ」


 アドルとは、きっとアドルナートのことに違いない。

 幼なじみであり、婚約者でもあったラケーレですら、そんなふうには呼ばなかった。


 ラケーレの手が強く引っ張られる。

 バルドは、早く声の届かない場所まで移動するようにと促しているのだ。けれどラケーレは思わず彼の手を振り払ってしまった。


 かつての婚約者が愛するゾーエという名の女性を見てみたかったのだ。

 考えの足りないラケーレでも、傷つくだけだとわかっていた。それでも、足は動かないし、意識は東屋にいる二人へと行ってしまう。


「あぁ……私は真に愛する者を得て、可愛い子にも恵まれる……なんて幸福な人生なんだろうな」


「フフッ。でしたら、侯爵令嬢に感謝しなければなりませんよ」


「そうだな。ラケーレがいなければ、この燃えたぎるような愛を知ることなく死んでいたかもしれないのだから」


 アドルナートは愛おしそうに現在の婚約者を見つめて、ほほえんでいた。

 それはラケーレがよく知っているかつてのアドルナートそのものだった。


(愛を知らなかった……?)


 謁見のときにラケーレは、アドルナートが別人のように思えたのだ。


 けれどそれは違った。昔と同じ、優しい彼はまだ存在している。単純に、ラケーレに対する扱いが変わっただけにすぎなかったのだと改めて思い知らされる。


 ラケーレが会いたかった彼は、間違いなくあの場所にいる。

 けれど、ラケーレの隣にいたのはまだ愛を知らなかった彼で、ゾーエという名のあの令嬢の前にいる彼こそが愛を知った彼なのだという。


(あぁ……私……一方的な恋心に溺れた、愚かな存在だったのね……)


 いつ目覚めるかもわからない婚約者を待つことは誰にだって難しい。

 王太子であったアドルナートには世継ぎが必要で、だから結婚を急ぐのは仕方がない。

 そんなふうに納得させてもらうことすらもう叶わない。


 心変わりですらないのなら、彼の目には昔からラケーレは道化に見えていたに違いない。

 それを理解した瞬間、涙がドッとあふれてきた。


「見てください、アドル。そこに綺麗な薔薇が咲いています」


「薔薇か。やはり赤が一番綺麗で格別だ。これほどゾーエにふさわしい花はない。手折ってしまうのは少々もったいないから、こうやって二人で眺めていようか」


 赤い薔薇が格別だという言葉がさらにラケーレの心を抉った。

 元々赤い薔薇が好きなら、ラケーレに贈った白い薔薇に意味などなかったのだ。


「ラケーレ、こちらへ……」


 バルドはラケーレを強引に抱き上げ、その場から離れた。

 そしてしばらく歩いた場所にあったベンチにラケーレを座らせると、自らは膝をつき、ハンカチを差し出してくれた。


 ラケーレは反射的にそのハンカチを受け取って顔を覆う。

 こんなにも気遣われているというのに、違和感と苛立ちが募っていく。


(バルド殿下は……こんな方だった……?)


 優しさが、ラケーレをもっと不安にさせた。


「すまない、まさかあの場に兄上がいるなんて」


「あなたは悪くありません。……目覚めたとき、王太子殿下が白薔薇をくださったって聞いて……だから、大丈夫だと思っていたんです。なにも変わらなかったって、安心して……っ、でも……」


「白薔薇?」


 贈り物だと語るばあやの嬉しそうな声で目が覚めたときの気持ちまで完全に否定された気がした。傷つけるための贈り物ならば最初からいらなかった。


「花なんて、誰だって……贈れるのに。家臣に頼んでも、花屋さんに頼んでも……本人が忘れていても……義務でできるのに。……私、そんなこともわからなかった」


「違うんだ……」


 なにが違うというのだろうか。

 バルドはラケーレが傷つかないように、アドルナートに代わって言い訳でも考えてくれているのだろうか。


「なにも違いません! 私の知っているバルド殿下は……こんなときに、ハンカチを貸してくださる方ではありませんでした!」


 ついに感情があふれ出し、声が抑えられなくなっていた。

 アドルナートに向けるべき憤りの矛先をバルドに向けている自覚があった。


「それは、紳士として当然で」


「ご立派なのですね。……でも、あなたは……私の幼なじみだったバルド殿下とは……別の方だわ!」


 昔のバルドだったら、ハンカチなんて持っていなかった。

 ラケーレの歩調に合わせて立ち止まることなんてあり得ない。もっと早く歩けないのかとばかにしてくるような少年だった。

 女性の涙を拭うために、地面に膝をつくなんて彼らしくない。


 これはいい方向への成長だとわかっているのに、変わった彼を見ていると一人子供っぽい言動を繰り返す自分自身がみじめで仕方がない。


 こうやって彼にひどい言葉を浴びせれば浴びせるほど、自分を貶めるだけだというのに、言葉が次から次へと出てきてしまう。


 ラケーレは正しい人間ではいられなかった。


「もう会いたくない。……変わってしまったあなたを見ていると、私……とてもみじめで、嫌な人間になってしまうの……だから」


 おそらく、聡明な彼は誰よりも早くこの結末を予想していたのだろう。

 ラケーレは元々、いざというときに王族の命を救うために、彼らと特別親しくなるように仕向けられていたのだ。

 バルドはその意図を正確に理解していて、そしてずっと前から忠告してくれていた。


 今、ラケーレが伝えなければならない言葉は、心配をかけたことに対する謝罪と感謝であるはずなのに、ごめんなさいもありがとうも言えなかった。


 ラケーレは立ち上がり、呆然としているバルドを置いて、その場を去ろうとした。

 けれど歩き出したところでまた腕が掴まれた。


「そうだな、私は変わったんだろう。昔はよく君と喧嘩をして……怒ってどこかへ行ってしまう君を追いかけようとはしなかった」


「放してください」


「……君の兄上のところまで送る」


 振り払おうと力を込めても、体力が完全には回復していない小娘が、軍人でもあるバルドから逃れられるはずもない。

 兄のもとにたどり着くまで、二人は終始無言だった。


(謝らなきゃいけないのに……)


 バルドがどこまでも優しい人であることは、ラケーレにもわかっていた。

 だからこそ、八つ当たりの相手に選んでしまったのだ。


 ただ、本来なら同じ歳だったからこそ、成長した彼を見たくないという思いも本物だった。心の中がぐちゃぐちゃで、結局謝罪の言葉を口にできないままその日は別れたのだった。



   ◇ ◇ ◇



 それからのラケーレは、ただ侯爵邸で静かに暮らす日々を送っていた。

 次に奇跡を起こすとしたら命懸けだと本人が一番よくわかっていたし、もう使うつもりはない。

 それでも、イヴレーア侯爵家の令嬢が奇跡を起こせる事実は広く知られている。拐かされる懸念があり簡単には外出できない状況だった。


 兄や護衛と一緒に時々買い物に出かけるが、街を歩く人々の表情が暗いことが気になった。


(一等地でも路地裏に孤児が……?)


 兄は三年前よりも今のほうが景気が悪くなり、そのせいで一時的に治安が悪化しているのだと教えてくれた。


 とはいうものの、イヴレーア侯爵家の財政状況が悪いわけではないし、元々引きこもり気味だったラケーレの日常はあまり変わらない。

 本を読んだり、刺繍をしたり――刺激は少ないが平穏な生活は案外ラケーレに合っているのかもしれない。


 そんな中、ラケーレのところにはよくバルドが訪れるようになっていた。


「お忙しいのでしょう? 来なくていいって、言いましたのに」


 治安の悪化に伴い、軍人としての彼は多忙だった。

 せっかくの休日だったら、もっと有意義にすごせばいいとラケーレは思う。


「ほら、そんな意地を張るな。……ラケーレの好きそうなお菓子を買ってきてやったんだから」


 バルドはラケーレが何度拒絶の言葉を口にしても、気にする素振りを見せずに休みのたびに通ってくる。

 兄が王族の中でバルドのことだけは信頼し、訪問を認めてしまっているため、堂々とラケーレの部屋までやってきて、とことんかまってくる。

 ラケーレがお菓子につられてバルドの滞在を許してしまうのがいつもの流れだ。


 彼はきっと、ラケーレの心情を見透かしているのだ。


 バルドのことは嫌いではない。家族と同じ、もしくはそれ以上に信頼している。

 ラケーレが彼にしてあげられることがほとんどないから、劣等感を覚えてしまう。


 すべて理解したうえで、それでも彼は顔を見せに来る。


 バルドは王家の一員として不実に対する責任を果たそうとしてくれているのだろうか。

 もしくは幼なじみという立場でラケーレが立ち直るのを見守るつもりなのだろうか。


 最初はそんなふうに解釈しようとしたのだが、数ヶ月続くとどうあってもごまかすことができなくなっていく。


 昔はラケーレが少しでも拒絶をしようものなら、腹を立ててどこかに行ってしまうような人だったのに、やはり変わったのだ。


(私は……恋なんてしたくないのに……)


 バルドがここを訪れる動機や自分に向けてくる感情がどういうものであるのか、さすがのラケーレも気づいていた。

 バルドのおかげで立ち直り、前向きになっている。

 それでも、彼が決定的な言葉を口にしないのに甘え、ラケーレは彼を幼なじみとして扱い続けた。


(私、なんてずるいのかしら……)


 もう一度誰かを特別にするのがとにかく怖い。

 自分が真実の愛だと信じていたものが、じつは打算であったと気づかされるあの気持ちをまた味わうくらいなら、愛など知らなくていいと思う。


 そう思うのに、バルドが訪れるたびに安堵して、いつの間にか「もう来なくていい」といううわべだけの拒絶すらできなくなっていく。


 やがてアドルナートとゾーエが正式に婚姻を結び、まもなく出産という時期を迎えた。

 王子か王女のどちらが誕生するのかはわからない。それでも都で暮らす者たちは、新たな王族の誕生が、新しい時代を運んできてくれるのではないかと期待していた。


 この件でラケーレが気落ちすることはなかった。


 もう過去のことだと、自分の中で割り切っていたのだ。

 そんなある日……。


「一ヶ月ほど地方へ視察へ行くんだ」


 この日もバルドが侯爵邸を訪れていた。

 応接室でお茶を一杯飲み干したバルドは、軍の任務でしばらく都を離れるという予定をラケーレに告げた。


「一ヶ月? 少し長いですね。……そのあいだにバルド殿下のお誕生日が過ぎてしまいます……」


 バルドは二週間後に二十二歳を迎える。

 ラケーレもバルドの誕生日の一ヶ月あとに書類上では同じ歳になる。

 合計四年眠っているから精神的には十八歳だろうか。


(一緒にお祝いがしたかったのに……)


 ラケーレの中にさびしいという思いが込み上げてきていた。

 けれど、たった一ヶ月会えなくなることでいちいち騒ぎ立てるのは迷惑極まりないと考えて、大したことではないという態度を取った。


 バルドはそんな強がりすら見透かしていそうだ。

 小さく笑っていた。


「あぁ。それで……私が帰ってきてからの話なんだが、舞踏会へ行ってみないか?」


「舞踏会?」


 あまり社交的とは言い難いラケーレだが、アドルナートの婚約者だった時代、王宮で開かれる舞踏会には参加していた。

 これまでは、父と兄、そしてアドルナートとしかダンスを踊ってこなかった。

 社交の場に出てバルドとダンスをするというのは、新しい人生を始める一歩目になる気がした。


「貴族の屋敷で開かれる、小規模なものだ。……君の兄君からの許可も取ってあるしどうだろうか? ……やはり、誰かに会うことがまだ怖いか?」


「……怖くなんてありません。そうやって、子供扱いしないでください」


 バルドが一緒ならば、大丈夫だと思える。

 今のラケーレはかつての知り合いに会って、その人が以前と違っていてもさほど傷つかなくなっていた。


「だったら……一人の女性として、君を誘おうか」


 彼は初めて、幼なじみという言葉を逸脱した言動を取った。

 ソファに座るラケーレの前までわざわざやってきて、手を差し出す。


「ラケーレ殿、私のパートナーとして舞踏会に出ていただけませんか?」


「よろこんで」


 ラケーレは彼の大きな手に自らの手をそっと重ねる。するとバルドは唇を近づけて手の甲にそっとキスをした。


 挨拶のキスだけでは終わらない。

 一旦手を放したバルドは、そのままラケーレをきつく抱きしめる。


(あぁ……私、泣いてしまいそう……)


 家族以外の誰かからこんなふうに抱きしめられた経験はこれまで一度もない。

 温かくて、少し苦しい。胸が締めつけられて、多幸感で満たされる。


 それから、とてもいい香りがした。


 バルドから、わずかに花の香りが漂ってきたのだ。それは既視感のある香りだった。


(そうでした……。バルド殿下は温室でお花を育てていらっしゃるから)


 結局あの日、温室を見に行くことはなかったし、バルドからもう一度誘われることもなかった。


「バルド殿下」


「なんだ?」


「舞踏会もいいですが……バルド殿下の温室にも、今度連れていってください……」


 驚いたバルドがわずかに離れ、ラケーレの顔を覗き込んできた。


「王宮だが、いいのか?」


 アドルナートやゾーエと遭遇する可能性がある王宮へは、あの日以来行っていない。

 温室もそこにあるから、バルドはこれまでラケーレを誘わなかったのだろう。


「花を好きになりたくて……」


 バルドが訪れるときに持参するのはお菓子か本か、小さなアクセサリーだった。

 温室に出入りして自ら育てているくらい花が好きな彼が一度も花束を持参しないのは、ラケーレがそれを望まないと知っていたからだ。


「そうか」


「私、バルド殿下の好きなものを一緒に見たいです。私が眠っていた三年のあいだに、なにをしていらっしゃったのか、どんな出会いがあったのか……あなたの話をもっと聞きたい」


 周りの人間がラケーレより早く成長してしまったのなら、ラケーレは追いつくためにも現実から目を背けてはいけなかった。

 彼のおかげでようやくそれに気づくことができたのだ。



   ◇ ◇ ◇



 バルドが地方への視察へ出かけて三週間。

 天候によっては数日ずれ込む可能性はあるが、あと一週間で帰ってくる。ラケーレは一日中ソワソワとして読書も刺繍も手につかなくなっていた。


 昼食を食べ終えた直後、突然王宮からの使者が侯爵邸にやって来た。


「殿下に大事がございました。……私の口からは説明いたしかねますので、急ぎ王宮へお越しください」


「バルド殿下に? 視察先でなにか……?」


「詳しいことは王宮で。馬車も護衛もこちらで手配しておりますから」


 この日は兄も母も不在だった。

 けれど使者が話せないほどのなにかがあるのだとしたら、行くしかなかった。

 ラケーレは家令に軽く事情を説明し、すぐさま王宮へ向かった。


 通された部屋で待っていたのは、真っ青な顔をしたアドルナートだった。


「王太子殿下! バルド殿下について……知らせたいこととは……っ!」


 視察中に怪我をした、または命を失った――それ以外に想像できなくて、ラケーレは動揺していた。


「落ち着いてくれ、ラケーレ。なにかがあったのはバルドではないんだ」


「それはどういう……」


 バルドではないという言葉にラケーレは一瞬安堵し、すぐに不信感に襲われた。

 使者は確かにバルドだとは言わなかった。けれどラケーレがバルドのことだと誤解しているとわかっていてもそれを正そうとはしなかった。


 つまり、本当の用件を伝えたらラケーレが求めに応じない可能性を考えていたという意味になる。


「王女が誕生した」


「……お、おめでとうございます。臣として、王女殿下のご誕生を心よりお祝い申し上げます」


 世継ぎの御子となる男児ではないとしても、王女の誕生は喜ばしいことだ。

 それなのになぜ、アドルナートはこんなにも具合が悪そうなのだろうか。


「ゾーエが危険な状態なんだ……」


「……!」


「ゾーエの命を救ってくれ! ……彼女は国母となる、この国で一番尊ばれるべき女性だ。次は王子を産んでもらわねばならない。……わかるだろう? ラケーレ」


 目を血走らせたアドルナートがラケーレに迫る。

 肩を強く掴まれた。

 扉のほうをチラリと見ると、衛兵が五人もいて、出入り口を塞いでいた。


「……も、申し訳ございませんが、私はもう奇跡の力なんて使えません」


 肌に食い込む強さで、肩に置いた手に力が込められている。

 目が血走り、アドルナートは完全に冷静さを失っていた。


「いいや、使えるはずだ。眠りが長くなるだけで、必ず死ぬとは限らない。君ならきっと大丈夫だよ。……だが、ゾーエは……君が見捨てたら必ず死ぬ……」


「王家とイヴレーア侯爵家のあいだには盟約がございます」


 ラケーレはもう奇跡の力を王家のために使わなくていいと決まっている。

 いくら王族でも、公文書に記された内容を覆すことなどしていい道理がなかった。


「公文書は侯爵家が逆臣となれば、無効だ」


 イヴレーア侯爵家は、ラケーレが王太子の婚約者ではなくなったあとも、王家に忠義を尽くしている。

 逆臣だなんて言われる理由は一つもない。


「それが……未来の国王陛下のお言葉なのでしょうか? これまで二度の忠義を、なかったことにするおつもりですか!?」


 国王と王太子、それぞれの命を一度ずつ救ったのは、こんな命令を出させるためではなかった。


「そうだ、私はゾーエのためならばなんでもできる! 未来の国王と王妃、そしていずれ誕生するはずの世継ぎの王子のために、臣が命をかけるのは当然ではないか。それをしないというのならば、侯爵家もラケーレも謀反をくわだてた罪人として裁く」


 三度目はお願いではなく、完全な強制と脅しだった。

 国母となる女性の命とラケーレの命を天秤にかけたのだ。


「あぁ……なんて……ことを……」


 一度奇跡を間近で見て、二度目はその力の恩恵を受けたアドルナートは、ラケーレが生きている限り近しい者の死を絶対に受け入れられない人に変わってしまった。


 彼を狂わせたのは、ラケーレが持つ力だ。


「そこの者、ラケーレを捕らえよ。……引きずってでもゾーエのところへ連れていけ!」


 無表情の衛兵二人が近づいてきて、ラケーレの腕を掴む。

 もう逃げ場などどこにもなかった。


「さわらないでっ! ……自分で、歩けます」


 卑怯者の前で泣いてやるものかと思い、ラケーレは背筋を伸ばした。

 アドルナートと衛兵の先導で、王宮内の奥まった部屋へと歩みを進める。


 豪華なベッドの周辺には、医師や侍女が何人もいて、一様に暗い表情を浮かべている。

 寝かされているのは、気を失い、今にも息絶えそうな女性だった。


 ドン、と背中を強く押され、ラケーレはゾーエに触れられる場所に立つ。

 すると不快な金属音が響いた。

 アドルナートがどこからか剣を持ち出し、それを抜いたのだ。


「早く……早くしろ。王太子の命令だ」


(アドルナート様を変えてしまったのは……私、だ……)


 奇跡の力は、弱い心を狂気で蝕む劇薬だった。

 だからこれから起こることは、家族の思いを無視してアドルナートを選んだ三年前の過ちにより引き起こされる。

 ラケーレの自業自得だった。


 そう思えば、誰かを恨まずにいられそうだ。


「もし、失敗したら……そなたの命はない。イヴレーア侯爵にも後を追わせる。……それだけじゃない。あの生意気なバルドも……。私は次の国王だ! 王族には、次世代に次の血を残す義務がある……」


(私、この人たちのためには力を使えない……でも、使わなければ……私の好きな人たちも巻き添えになってしまう)


 ゾーエを救えば犠牲はラケーレ一人で済み、ゾーエを見捨てればラケーレの愛する人々の命がこの暴君によって奪われる。


 どんなにやりたくなくても、ほかに選択肢はない。


「バルド殿下……、お兄様、お母様……」


 この事実を知れば、彼らは悲しむだろうし、こんな手に引っかかってしまったラケーレを叱るかもしれない。


 ラケーレは震える手でゾーエの手をギュッと握った。


 瞳を閉じて、家族とバルドのための祈りを始める。

 奇跡を起こすためには、優しい心が必要だ。だから、大好きな人たちのことだけを考える。


 母や兄、そしてラケーレを守ろうとしてくれた父の姿が浮かぶ。


 軍人になりたての頃のバルドの姿も、眠ってばかりだったラケーレの中ではまだ風化していない。


(白い薔薇は……)


 王宮の庭園で、白薔薇の花束を背中に隠したバルドの姿をどうしてこれまで思い出さなかったのだろう。



『……殿下からまた白薔薇が贈られてきましたよ。眠っていても香りは届くかもしれませんからお近くに置いておきますね』



 ばあやの言葉を思い出す。

 殿下と呼ばれる人物は、二人いたのだ。


(白薔薇を贈ってくださって、ありがとうございました……。そう、伝えればよかった)


 それは伝えないままで正解だったのだろう。

 最初は一年、次は三年……三度目はもう目覚めないかもしれない。


(それでも……私が目覚めるときまで……もしあの方が待ってくださっていたのなら……)


 ラケーレの身体が光に包まれた。

 目を閉じていても眩しいほどの光は、バルドが愛した花の色と同じだった。


 だからこれから訪れる眠りが永遠のものであっても、ラケーレは恐れずにいられた。



   ◇ ◇ ◇



 薔薇の香り、そして低く優しい声がどこからか聞こえた。


「おはよう、眠り姫」


 眠っていたラケーレを覗き込んでいたのは、整えられた口ひげのある壮年の紳士だった。

 彼はラケーレが眠るベッドの端に座り、じっと様子をうかがっている。


「……おはようございます、バルド殿下」


「よくわかったな。君は再会するたびに戸惑っていただろう?」


 それは、バルドの雰囲気がすぐに変わってしまうからだ。

 最初は成長期で、次は軍に所属していた影響でたくましくなっていて……今回は青年ですらなくなっている。

 軽く十年は経っているだろう。


「……私が眠るベッドの端に堂々と座る人なんて、バルド殿下以外に考えられなかったのですぐにわかりました」


 本当は、どこからか薔薇の香りがしていたからわかったのだ。

 バルドがラケーレのことを忘れていない証拠だと察することができた。


 そのとき、部屋の外で人の気配がした。

 バルドが一旦ベッドから離れ、扉のほうへ向かった。


 医師と魔法使いを呼び寄せ、侯爵家に使いを出すように、側仕えに指示をしているようだ。会話の中で、側仕えはバルドのことを「陛下」と呼んでいた。


 彼はしばらくするとラケーレのそばまで戻ってきた。


「陛下?」


 寂しげな顔でバルドは頷く。


「君が眠ってから十五年……。国もずいぶんとかたちを変えた」


 十五年――すると、バルドは現在三十七歳だ。

 髭は生えているし、目尻に少ししわがある。それでもラケーレを見つめる瞳だけは、あまり変わらない。


 人の変化を目の当たりにして、動揺しなかったのは初めてだった。


「お母様とお兄様はお元気でしょうか?」


「もちろん元気だ。兄君は伴侶を得て……。君には甥が二人、姪が二人もいるんだよ。知らせを出したから、すぐに駆けつけてくるだろう」


「それはきっと賑やかでしょうね。……楽しみだわ。それで、あの……アドルナート王太子殿下は?」


 バルドが陛下と呼ばれる立場なら、アドルナートは失脚したということになる。

 すでになんの情も抱かない相手だが、ラケーレは彼のその後が気になった。


「君が王太子と呼んでいた人物は、もうどこにもいない。公の約束を反故にする為政者なんて認められるはずがないのだから」


「亡くなってしまったのですね……」


「父と兄は、私が討った」


 それから、バルドはここにはいない王族たちの末路を聞かせてくれた。

 十五年前。王太子の心変わりに傷つき屋敷で過ごすことが多かったラケーレは知らなかったが、あの頃から王家の威光は揺らいでいた。


「物流の変化、気候……隣国との力関係……些細なきっかけで国の財政状況は大きく変わる。君が二度目の眠りについていた頃、宰相であった君の父君を失った影響もあり、国王はいくつか政治的な失敗をしたんだ。どれも致命的ではなかったが……」


 財政状況がいい時期に善き為政者でいることは案外たやすい。

 けれど、悪化したときにいい方向へと導くことはとても難しい。


 あの頃からすでに、国王の評判は落ちはじめていた。

 そこからはすべてが悪循環だった。

 苦言を呈する臣は追いやられ、国王を賛美する者に役職が与えられるようになる。

 財政状況が悪いのに、国王もアドルナートも浪費をやめない。

 そうやって、国の中枢は腐っていく。

 バルドは国王や兄を諫めたが、政治的権限を持たない彼の言葉に国王が耳を傾けることはなかったという。


(だから、「生意気なバルド」……と、おっしゃっていたのね)


 ラケーレが三度目の眠りにつく前に、すでに兄弟の関係は修復不可能な状況だったのだ。

 そして、兄弟の関係が完全に壊れた最後の一撃は、やはりラケーレに対する仕打ちだった。


「兄上はラケーレの件で私と敵対する展開は想定していたはずだ。……ただ、イヴレーア侯爵家以外の有力貴族まで私につくとは思っていなかったんだろう」


 宰相を輩出した名門侯爵家との約束を破ったあの一件は、多くの貴族に不安を与えた。

 王家と臣下の信頼関係を壊すのに十分な悪行だったのだ。


 そしてバルドは、イヴレーア侯爵家ほか多数の貴族を従えて、国王とアドルナートに反旗を翻し、彼らを討ち取った。


「ゾーエ様と、お生まれになったばかりだった王女殿下は……? それに王妃様は?」


「母上は病で身罷られた。……君が助けたあの女は無事だが、生家に帰り……その家も爵位を失ったから今は平民となっている。王女については……王家の血を引く娘を市井に放り出すわけにはいかないから信頼できる伯爵家の養女とした。それなりに幸せな生活を送っているはずだ」


「私は……世間知らずだったんですね……」


「それはそうだな」


 この十五年の出来事を語る最中、バルドが何度か顔をしかめたのは、兄への憎悪だろうか。それとも身内を討って王位に就いたことへのやりきれぬ思いのせいだろうか。


 なんとなく後者だと感じたラケーレは、うまく力の入らない手を伸ばし、彼の手を取った。バルドが身内を討ったとしても、たとえこの十五年で変わった部分があったとしても、ラケーレは彼を嫌いにはならないと主張したかった。


「バルド殿下……いいえ、陛下」


「バルドでいい。君とはせめて呼称くらい対等でいたい」


「バルド……。二回目の眠りのときも、今回も、甘い薔薇の香りだけは届いていた気がします。だから、目覚めが怖くありませんでした」


 二回目の眠りは三年、今回は十五年。そのあいだ彼はずっとラケーレに花を捧げ続けてきたのだろうか。


「枯れる前に欠かさず贈っていたが、すべて私が育てたものというわけではなかったし、手に入らず、別の花だったときもあったが、花が君の心をなぐさめていたならば……こんなに嬉しいことはない」


「私は……あなたにどう報いればいいのでしょうか?」


 先が見えない中で待ち続ける者の想いを、ラケーレは知らない。

 ただ眠っていただけのラケーレより、彼らのほうがずっとつらかったはずだ。


「とりあえず、舞踏会に一緒に行ってくれるんだろう? ……あぁ、その前に温室を見せる約束もしていたな……」


 ほんの少し寝坊した相手に語りかける程度の気安さだった。


「だったら今から見に行きませんか?」


「……医師の診察も終わってないだろうに」


「毎回、筋力が落ちている程度で問題なかったはずです。……少しならいいでしょう?」


「だが」


「今度会えたら、視察から戻ったら、目が覚めたら……。そうやって言いたいことややりたいことを先送りにすると大抵後悔するんです。私もさすがに学びました」


 バルドは肩をすくめるが、結局ラケーレを抱き上げて歩き出す。

 国王となってからも彼はずっと身体を鍛えているのだろうか。痩せ気味の女性であるとはいえ、人一人を抱えても彼の足取りはまったく揺らがない。


「そうか……。温室につくまでに、君がなにに後悔して私になにを言いたかったのか聞かせてくれ」


 誰よりも親身になって心配してくれた相手に謝罪も感謝も伝えられなかったこと。

 一緒にいたいのに、会いたくないと言ってしまったこと。

 白薔薇の贈り主が誰だったか、気づけなかったこと。


 そしてなにより、バルドを愛しているというこの想いを伝えられなかったこと……。


 いったいどれから話せばいいだろうか。


 言葉にするより前に、たくさんの感情が新しく生まれ、増えてしまう。これでは一生かかっても伝えきれない気がした。




最後まで読んでくださってありがとうございます。


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今回はめずらしくシリアスな雰囲気のお話を書かせていただきました。

来年は久々になろうさんに戻って長編を投稿しよう思い、只今準備中です。

これからもよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
シリアスなお話だったので。少しつらい。周りの人の為に自分を犠牲にしてしまった主人公が、この後は穏やかな日々を過ごすことができたのだと、そんな後日談みたいなものが少し欲しくなってしまいました。
主人公に一切の成長が無いのが残念でした。 彼女の家族や周囲の無念や不全感を思うとやりきれない気持ちですし、 これを美談のように成立させるのは不可能かと思います。
[気になる点] この二人、報われますか?そこが一番気になります [一言] 続きお待ちしてます
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