09. 黒頭巾の不審者
まだ優しい感触が残っている額を撫でながら、ルナは馬車の窓にかけられているカーテンを開けた。
義兄が予感していたように、馬車が走り出してすぐ夕立のような激しい雨が降り出してきた。地面を激しくたたく雨音が耳に響く。きっと一過性の通り雨だろう、と激しく降り落ちる雨をぼーっと見つめていた。
だが、暫くして少し違和感を感じた。馬車は我が家へ向かっているはずだ。なのに外の景色がこの四年間の登下校で見続けてきたものと何か違う。雨でぼんやりとしか確認はできないのだが、それでも何か異なる。直感が警報を鳴らす。
フローレンス家へ帰るには街灯に照らされている大通り沿いをまっすぐ進めばいいだけなのだ。だが、窓から見えるぼやけた景色は全く光がない。確かに普段と異なり、今は少し夜も更けている。自分が知らないだけで、実はこの時間になると全て消灯されているのかもしれない。だけど、馬車から伝わってくる振動も、馬の蹄の音でさえも、雨音に消されてよく聞こえないけれど普段とは異なっているのだ。
「ネスミス?ねぇ、今どこを走っているの?」
この違和感が自分の思い違いであれば良いのだ。それならば暗闇に怯えている情けない姿を従者の一人に見せてしまうだけ。
恐怖で胸を震わせながら、我が家の御者のネスミスに問いかける。
「急に降り出したこの雨でいつもの道は混んでいるのです、お嬢様。坊ちゃまより少しでも早くお嬢様を家に帰すように命じられておりますので…。申し訳ございませんが、少し外れた路地の近道を使用しております。もう暫くご辛抱なさ…」
「あなたは誰!?」
ルナは軽いパニックになった。いつもと違う道に不安を覚えていただけだった。なのに、ネスミスへの問いかけに何故か全く知らない人間が返答を返してきたのだ。初めて聞くかなり若い男性の声。
一体誰が我が家の馬車を運転しているのか?行き先は我が家であっているのか?そもそも、自分はフローレンス家の馬車に乗っているのか?
疑問が疑問を呼びルナは大パニック。我を忘れ辺りに響き渡る声で叫びだす。
「お願い戻って!お義兄様の所へ戻って!!!」
想像よりも大きいルナの甲高い叫び声。困惑したのか、観念したのか、怒ったのか。見知らぬ御者は馬車は止めた。
不気味な沈黙。ルナには恐怖しかなかった。
馬車内は密室。そして近くにいる唯一の人間は知らない人。そしてこの止まっている場所もどこか分からない。辺りに人の気配もなにもない。
ピチャ ピチャ
外から誰かが車内に歩み寄ってくる音が聞こえる。
ザァザァと音を立てていた土砂降りの雨も、いつの間にかポツポツとした小雨にかわっていた。
「あなたは誰?」近づいてくる人影に震える声で問う。「フローレンス家のものではないわね」
ピチャ ピチャ
扉の近くに人の気配を感じた。
今ルナは何も護身になるようなものは身に着けていない。襲われたら何もできない。せめて何かできないかとヒールを脱いで、それを握りしめる。
- 襲われたらこの鋭い踵で抵抗しよう…
しばしの沈黙。外の人影からは呼吸音すら聞こえない。自分の激しく打っている胸の鼓動がやけにうるさく体中に響き渡る。
たった数秒のことだったのかもしれない。だが、固唾をのんで扉を見つめているルナにはそれは途方も長い時間のように思えていた。
「申し訳ございません。お坊ちゃまに口止めされておりますので…」
再度御者が口を開けたことによって、ルナは拍子をつかれることになる。
なぜならその男の声は扉の前の人影から聞こえてきたものではなかったから。車内の前の御者の席から聞こえたのだ。
なら、誰なの?この扉の前にいるのは…
呆気にとられ瞬間だった。
「ぐあぁぁ」と御者の鈍い声と共に、「お嬢様、お逃げください!」との叫び声が耳に入ってきた。
え?何?何?何が起こっているの?
「早く…お嬢様…お逃げ…」
声が途中で途切れた。今車外で起こっていることが理解できない。
ルナは大パニックだった。
そしてゆっくりと扉が開かれた。
目の前には黒い頭巾を深くかぶった人が、一人小雨の中傘もささずに突っ立っていた。
街灯もないため、顔も見えず、そのものが誰なのか全く分からない。だが、身長がレイと同じくらい高かった。直感的に男だと悟った。
「おい、なんでターゲットが誘拐されそうになっているんだ?」
その男の発した声はとても低くて冷たいもの。ゾクリと背中に悪寒が走る。
ピチャピチャとした足音と共に扉近くの黒い頭巾の男に、もう一人少し小柄な男が近寄ってきた。
その男も深く黒い頭巾をかぶっていた。だが一点違った。長い剣を持っていた。
月明かりにその矛先が輝く。何か黒い液体がべっとりとついているのが見えた。御者の血だ。ルナはひゅっと息をのむ。
「誘拐犯の首、落としといてやったぜ。にしても、見れば見るほどお前にそっくりだな、ソル」
もう一方の男の声は異なっていた。少し笑っているような、楽しんでいるような明るい声。
ソルと呼ばれた最初の黒づくめの男は右手を笑いながら話す男の前にだして、それ以上話すのをやめるようジェスチャーする。
「こいつらと一緒にするな。こんな野蛮な民族と」
「ごめんって、そんな怒るなよ。でもホントよく似てるぜ。この女の髪を切り落としたらお前と瓜二つだ。いや、シエラのが似てるかな?」
「黙れよ。さっさとこいつを攫って任務を完了させよう。あの悪魔の男を引きずり出して、ズタズタに切り裂いて、同じように首を切り落としてやるんだ」
逃げなければならない。そんな事は百も承知だ。だが、恐怖で足がすくんで動けない。声も何も発せられない。
「どうする?恐怖で声がでないみたいだけど…。やっぱりアレするの?」
「ああ。一応計画通りにしよう。今は人が居なくてもいつ現れるか分からないし」
「しっかし、俺たちには幸運だったよな。こんな路地裏に連れてきてくれるなんて。誘拐犯に感謝しないと」
「おい、無駄口叩いてないでさっさとしろよ。こいつは俺らの故郷を壊滅させたあの悪魔の一人娘なのだから」
「そんなに怒るなよ」そう言って男はルナを見つめる。「ごめんな。お嬢さんに恨みはないんだが、暗闇でパパをしっかり責めろよ」
そう言って、血で濡れた剣を鞘に納めた男がルナの腕を素手で握る。
はっと我に返り、ルナはその手を振りほどこうと一生懸命腕を振る。だが、男の力に及ばない。
「ごめんな」
優しい声と共に、チクリと電気が走った。ピリッとした痛み。ただそれだけだった。
「??」
だがそれが二人にとっては意外だったらしい。フードで顔はみえないのだが、お互いに目を合わせる。
「おい!遊びじゃねんだぞ!ちゃんとしろよ!」
「したさ!でもこいつおかしいぞ。魔法に特性がありやがる。効かねぇんだ!」
「んなわけあるか!お前適当なこと言ってんじゃねえぞ!いち貴族なんかにあるわけねぇだろ!」
「じゃあソル!お前がやれよ!」
ソルと呼ばれた男はつけていたグローブを乱暴に外して、ルナを素手で掴む。
「いたっ」
先ほどの男よりかなり強く掴まれた。とても痛い。
だがそれもつかの間。彼が何かをルナに流し込んだ時、今度はビリっと先ほどよりも強い電流のようなものを感じた。ソルという男がルナの体から突き飛ばされる。
「ほら言ったろ?こいつなんかおかしいぜ?」
吹き飛ばされた男は地面にこぶしを打ち付けて何か騒いでいる。
「こいつの体を一旦調べる。その後だ。こいつの意識を奪うのは…」
そう吐き捨て、ソルが立ち上がった時、黒い頭巾がとれた。月明かりに彼の顔がはっきりと見える。
ルナは息をのむ。もう一方の男が言っていた通りだ。黒い髪に銀灰色の瞳。その顔立ちはルナ自身とよく似ていた。
「いいけど早くしろよ。誘拐犯の仲間が来るかもしれねえから」
ソルという名の男が再度ルナの腕を強引につかむ。
それと共に生温かい何かが腕から体中に巡ってくるのを感じた。
初めての感覚。だが不愉快ではなかった。むしろ懐かしい、どこか親しみのある……。
心地よい温かさに体をゆだねていた時だった。
温かな日差し。澄み渡った川。お日様と花々の香り。
のどかな風景が脳裏に映し出される。
空飛ぶ魚。躍る水の雫。歌う花々。
子どもたちの楽しそうな声も聞こえる。
- これは誰の記憶?
呑気にそんなことを疑問に思った時だった。
突然、血のつんとした匂いが鼻をかすめた。
『とうちゃん?』
手のひらには、生暖かい感触。
『かあちゃん?』
あちらこちらから人々の叫び声が聞こえる。
ルナは急な激しい吐き気を催し、嘔吐する。
-ああ、今日食べた美味しいケーキも、もったいない
どこか他人事のように嘔吐物を目にし、そう思う。
だが、そう感じたのもつかの間のこと…。
次々と色んな記憶が頭の中に色鮮やかに浮かび上がってくる。
「いやあああああああ」
ルナは甲高い叫び声をあげた。
それはこの閑静な路地裏一体に響き渡る金切声。
忘れていたはずの…。
固く封印されていたはずのルナの記憶が全て戻ってしまった。