08. 最後の会話
下のダンスフロアにはまだたくさんの人たちがお酒を嗜み、踊り、歌っている。パーティーはまだまだ活気づいている。このままだと夜通し続きそうな勢いだ。
リリアナはつい先ほど帰ってしまった。ケーキの食べ過ぎでもう動けないらしい。全く何をしているのか……。ぼんやりとダンスフロアにいる人間観察をしながらあの時の彼女の食べっぷりを思い出し、一人でにやけ、自然と笑みが零れてしまう。
「何か面白いものでもあったのか?」
どこから持ってきたのか。レイは薄いストールを取り出してきてルナの肩に優しくかける。丁度少し肌寒さを感じていたところだった。彼のこんな些細な優しさがルナにとっての胸キュンポイント。
「リリアナ嬢は?」
「少し気分が悪くなってしまったみたいで、先に帰ったわ」
「人酔いかな?」
嘘は言っていない。ケーキの食べ過ぎで気分が悪くなっただけだが。
彼女とはまた来週会う約束をもうしている。ラングシュタイン家へのお茶会、という名目で。フローレンス家の娘として参加する最後のお茶会になるだろう。
「雨が降るかもな」
「え?」
「ほら、少し雨の匂いがするだろう?俺たちも、もうそろそろ家に帰ろうか。きっとこの感じだと土砂降りの通り雨だ」
レイのいう雨の匂いは分からない。だが、彼の予感はよく的中する。
「そうね。あまり遅くなったらお義父様も心配するし、帰りましょうか」
レイの腕に手を重ね、二人で下のフロアへと降りていく。最初で最後の義兄のエスコート。一生の宝物にしよう。今のこの一瞬一瞬を忘れずに心の中にしまっておこう。
ダンスフロアは二階から見るよりも人の活気で熱く、より騒がしく賑やかなものだった。それは楽しそうな雰囲気というよりもむしろ、大人たちのストレス発散場所のよう。香水やお酒などの様々な匂いがルナの鼻を刺激する。むせ返りそうになるような不愉快なもの。二階の静かで穏やかな雰囲気とは全く違う。
そして、また突如現れた紳士な姿のレイのもとに、好機の目が降り注ぐ。あっという間に次から次へと女性が群がり始めた。大きな胸を強調した婦人、体のラインをアピールしてくるマドモワゼル、奇抜で特殊な服を着た若女。
隣に私がいるのに。この人たちは見えていないのだろうか?
そんな下品な格好で近寄らないでほしい。
触らないでほしい。触れないでほしい。
黒いドロドロした感情がルナの心の奥底からあふれ出てくる。
女性たちに触れられるレイに嫉妬する。
そんな女性たちに甘い笑顔で断るレイに嫌気がさす。
義兄はこの中の誰にも興味がないことは分かっている。
だけど、自分と違って義兄と未来を共に過ごすことのできるチャンスを皆少なからず持っているのだ。
自分とは違って。身分差があったとしても、この中の誰かがレイの将来の恋人に、婚約者に、妻になったとしても、何らおかしいことではない。
「大丈夫か?人当たりでもしたのかな…。馬車を呼んでくるから、少しここで待てるか?」
憎い嫉妬にのみ込まれていたルナは難しい顔をしていたのだろう。だが、それがレイにとっては気分が悪くなったように見えていたらしい。背中をさすりながら、どこか腰を掛けれるところを探してくれていた。
ようやく近くにベンチを発見し、そこにルナを座らせ、自分の着ていた上着を脱いでストールの上へと重ねる。
寒くは全くなかった。むしろ義兄が吐息がかかるほど近くにいるので、鼓動が激しく鳴り響き、全身に血が巡ってくるのを感じる。だからどちらかと言えば、暑かった。
だが、何も言葉を発することなく、黙ってレイのされるがままにいた。上着をぎゅっと握りしめる。ほのかにレイの匂いが漂ってきて、お腹の下にきゅんきゅんとした甘い刺激を感じた。
一方でレイは急に静かになったルナを大変心配していた。
人混みに酔ってしまったのか、はたまた何か怖いものでも思い出したのか…。
辺りを見渡し、近くに腰かけている一人の少年にお金を渡して、フローレンス家の紋章が入った馬車をここまで呼んできてもらうよう頼む。早くルナをこの酸欠になりそうな会場から逃してやりたい一心でだった。
「大丈夫か?寒くないか?もう来てもらうから。もう少しの辛抱だから…」
義兄の焦る声に愛おしさを感じた。今なら少し我が儘を言っても、大胆なことをしても許されるのではないかしら?誰も自分たちに興味なんてないようだし…。騒がしいこのパーティー会場にいる自分たちは、まるで取り残された別世界の人間のように感じる。
オドオドと、左手を上着とストールの下から取り出す。そして、ルナの肩をさするレイの右手にそっと重ね、優しく握った。
少し大胆過ぎたかしら、と後悔した。手が触れたあったことで、レイの肩がピクリと動いたから。また何か叱責されるかも、それか、拒絶されるかも。鼓動がより早く激しく打ち始める。怖かった。
だが、ルナの思いとは裏腹に、レイはルナの手を払いのけることはなかった。むしろ少し強く握り返してくれた。
幸せだった。レイが自分を受け入れてくれた、ということに…。
人前で大っぴらにレイに抱きつけなくても、自分の想いを素直に伝えられなくても、隠れてでもいい。ほんの少しのふれあいだけで満足するのだ。
自分を暗闇から救ってくれた人、そしてその家族。
これ以上の幸せを、そして、この大事な家族の絆を壊すようなことをルナは出来なかった。それに、望んでもいなかった。
自分さえ我慢していたら。自分さえ気持ちを押し殺していたら…。
それで全てが解決するのだ。それで何も問題はないのだ。
パカパカと馬の蹄の音がして、ほどなく目の前には見慣れたフローレンス家の紋章の入った場馬車が現れた。
重ねられた手は名残惜しく離れる。
「さぁ、我が家に帰ろう」
レイはドアを開けて、「さ、お嬢様お入りください」と従者の真似をしてルナを先に馬車の中へと入れる。そして、自分も後に続いて中に入ろうとした時だった。
ガシャン
パリーン
バキン
「おいこら!何しとんじゃワレェ!」
「お前ェが先に喧嘩売ってきたんじゃろ!テメェがつらかせぇや!」
ガラスやグラスが割れる甲高い音。人が殴られたような鈍い音。そしてそれと共に二人の男性の怒声が辺りに響き渡った。
「「「やれやれ!もっとやれ!」」」
酔っぱらっているのか、周りの人間もその喧嘩を面白おかしく煽り、はやし立てる。
笑い声と共に、より二人の男性の殴り合いが激化していく。
「お義兄様…」
こんなに近くで人が怒鳴っているところなんてルナにとっては初めての経験であった。恐怖で体が震え、義兄を見る目が不安で揺れる。怖い。怖すぎる。
ルナの縋るような声にレイは優しくストールをかけなおす。
「先に帰っておいて。喧嘩をとめてくるから」
そして、心配ないよ、と優しくルナの体を抱きしめる。
レイは王都の治安を守る騎士団に所属している。だから、例え勤務外の休日でも、自分の配属された場所でなくても、税金で雇われている一人の騎士として、この喧嘩を見ないふりなんてできなかった。それほど正義感で溢れた人だった。
ルナは彼のそんな勇敢な振る舞いを知っていたし、それを誇りに思っていた。
だが、今日はいつもと違い、彼の背中を押すことができなかった。義兄の服の裾をぎゅっとつかみ、首を横に振って、行く手を阻んだ。
変な胸騒ぎがしたのだ。
もうこれ以上レイと会えなくなるような、そんな今まで感じたことのない不安。
行かないでほしかった。
一緒にこのままこの場から立ち去りたかった。
だが、レイには伝わらなかった。
ただ初めて近くて喧嘩というものを見て怖がっているだけだ、と彼は思ったようだ。
「大丈夫だから」
不安を振るい落とすようにより一層優しい声をルナに落とし、そしてそのまま彼女の額にキスを落とす。「すぐに仲裁して帰るから」
思いがけない彼からのキスの贈り物に体の震えは止まる。そして顔を林檎のように真っ赤に染めた。
「早く帰ってきてね…。今日添い寝するって約束したんだからね…。絶対だからね」
ルナは消え入るような声でそう呟いた。
レイはその声に甘く笑って、従者に馬車をだすように指示をだす。
そしてその命令に従って、御者は何も言葉を発さずにそのまま目的地へと馬車をすすめる。
なぜだろう。まだ不安が胸の中でくすぶっている。
後ろ髪を引かれる思いで馬車の窓からレイの姿を探す。
- 大丈夫だよね。絶対にまた会えるわよね…?
だが、そこにもう彼はいなかった。
そしてこの会話が、彼らの最期の会話となる。