09. 図書室
「こちらです」
そう言ってリリアナはマリアンヌの手をとり、教室を後にした。その手は少し震えており、マリアンヌは少し後悔した。カミングアウトするにはまだ少し早かったのではないか、と。
南の方にあるもう一つの校舎へと移動し、そのまままっすぐに同じ階数を歩んでいく。
長い長い廊下。カツンカツンとリリアナとマリアンヌのヒールの音と、ガチャガチャと護衛の剣や装備のこすれる音だけが鳴り響く。
私たちは図書室へと向かう間一切の言葉を何も発さなかった。
*****
「こちらが図書室になります」
キィと扉を開けてその部屋の案内をするリリアナ。
「すごい。こんなに本がたくさんあるなんて…」
ため息をつくマリアンヌ。右も左も、どこを見渡しても大量の本で溢れている部屋。マリアンヌは心が躍った。
記憶がなく、自分の事も、周りの事も、右も左も何も分からなかった頃の帝国で過ごした日々を思い出す。
記憶がない私にソフィアお姉さまはたくさんの本を読み聞かせてくれ、たくさんの物語を、たくさんの知識を与えてくれた。はじめは真っ白な記憶の中、何も分からずにオドオドしていた私も、知識を付けていくにつれ、次第に面白い、楽しい、と感じるようになっていったのだ。真っ白な世界に多種多様な物語で色づけてくれる本の世界がマリアンヌは大好きだった。
そう言えば私がルナであったころ、どんな本を読むのが大好きだったのかしら?
戻った記憶を辿ってみるが、読書している記憶はない。
「王女様?」リリアナはもう私を夫人、とは呼ばない。それにしても、急に困った顔をするリリアナ。なぜだろう、と首を傾げる。「王女様は本がお好きなのですか?そんなにキラキラした目をされて…」
何が言いたいのだろうか?でもとりあえず、「ええ」と答える。
この少し古臭い紙の匂いを胸に入れるだけでなんだか落ち着く…。ソフィアお姉様を思い出し、ノスタルジックな思いにふけるマリアンヌ。お姉様はお元気かしら?
「ルナは本はあまり好きではなかったんです。ここにくるのはあくまでレイ様の姿を見るため…」
眉を落とすリリアナ。ああ、そうか。彼女は今とても困惑しているのだ。今目の前にいる私が本が大好きなマリアンヌなのか、レイが大好きなルナであるのか、分からないんだ。戸惑っているんだ。
「そう、でしたの…」
でも、なんと答えるのが正解なのか分からない。
ただリリアナの言葉に力なく返事をすることしかできなかった。
*****
一番奥まったところまでリリアナはどんどん図書室の中を進んでいく。ドレスがいろんなところに突っかかりそうになる。もっと動きやすい服装でこれば良かったわ、と少し反省するマリアンヌ。
「ここです」
そう言って行き止まりのスペースの前まで向かうと、リリアナは振り向き、マリアンヌに説明をしだす。「ここは少し狭い空間になっているので、隠れ家のようで好きだってルナはよく言っていました」
「ルナ様らしい」とハンナは鼻を赤らめて言葉を落とす。
「もともと図書室には人はあまり出入りすることもなく、加えここはとても狭い空間。ですので、ここはルナと私だけの知る、秘密の部屋。誰も入って来ないと私たちは高をくくっていたんです」そう懐かしみながらリリアナは言葉を続ける。「でも、こんな都合のいい場所。実は私たちより一年も前に先に見つけていた人がいて…。その方が、グレイグ・ロングベルト様。ロングベルト公爵家の次男で、次期当主。そして、ルナの婚約者でもあった方です」
ひゅっという不思議な音を出すハンナをよそに、ルナは案内された部屋とは言えない、ただただ書類で囲まれた不思議な空間をぐるりと見渡す。でも、何も感じなかった。この窓からレイを見ていた、という本の隙間からわずかに顔を出している窓へと案内されても、ただの窓。やはりそこから何も感じることはなかった。
「何か思い出されました?」
首を振る。あからさまにほっとした表情を浮かべるリリアナと、残念そうに肩を落とすハンナ。二人の対象的な行為に思わず笑みがこぼれる。
「リリアナさん、こんなに長い間急なお願いごとにも関わらずこの学院内をこんなに詳細に案内してくれてありがとう」リリーという彼女の愛称で彼女を呼びたいけれど私たちのこのぎくしゃくした関係性ではまだ難しい、とマリアンヌが判断してのことだった。マリアンヌは努めて明るく振舞う。「混乱させてしまったわよね。本当にごめんなさい。でもね、私はリリアナさんともっと仲良くなりたいと思っているの。私がそうであったか否かは問わずに。また一緒にお茶会してくれないかしら」
後ろに待機している護衛二人の存在を考え、それとなく言葉を濁した。けれども、リリアナには伝わったみたい。彼女は美しいお辞儀を披露し、「滅相もございません」と言葉を紡ぐ。
「今度は一週間後のパーティーよね?そちらでも、リリアナさんとお会いできるのを楽しみにしていますわ」
*****
「グレイグ・ロングベルト様は次はどちらのパーティーに参加されるか分かる?」
カントリーハウスへの帰り道、馬車の中で誰にも聞こえないように小声でマリアンヌはハンナへと問いかけた。
「あまり参加されませんが、国王陛下が主催されるパーティーには必ず参加いたします。ですので、来週、奥様の参加予定のパーティーには来られるかと…」
「あら、そうなの?なら…」
「あの…」迷いながらハンナは言葉を紡ぐ。「辛くなりませんか?あんなに心底嫌っていたその方に会うのは…。私は奥様に彼と再会することは推薦しかねます……。だって、だって…。ルナ様の気持ちを彼は知っていたのに…」
「正直言うと分からないわ」眉を下げ、ハンナの両手を優しく包み込みながらマリアンヌは答える。「でも、なんだか彼を思い出さないといけない気がするのよ。きっと彼を見たら大事なことを思い出すような…。そんな気がするの…」
記憶がないから、なぜ彼がルナの婚約者になったのか知らないし。なぜ彼がルナの出生の秘密を知っていたのかも分からない。だけど、彼にたどり着けば、もっと自分の知らない自分に近づけるはず…。お義兄様との距離をもっと近づけるには、やはり空白の記憶をどうにかしたいのだ。どうなるかは分からない。でも、どうしても何かの鍵を握るグレイグに心底会いたいのだ。
外の景色はすっかり暗くなっていた。それが原因なのか、ハンナの声も心なしか少し寂しいものに聞こえてくる。
「私は何があっても奥様の味方ですからね」
「ありがとう」
ルナの全ての真相を知りたい。
マリアンヌは心の中で、ずっとそのことだけを考えていた。




