08. 侍女ハンナ【side of ハンナ】
『今日から我がフローレンス家に一人、娘が増えるわ。ルナよ』
初めて会った時のことを覚えている。
フローレンス侯爵家の当時侍女頭であった母レイチェルと執事のベンジャミン。他の使用人を呼び出すことなく、何故か二人にだけ紹介されている女の子は、旦那様にもエミリア奥様にも何一つ似ていない不思議な雰囲気のある少女だった。
『体が弱くて私の実家で長らく静養していたことに…』
エミリア奥様がなぜ〝養女〟として迎えると公表せずに、わざわざルナに対する設定を二人とすり合わせる必要だあったのか理解できないほど、当時の私は幼かった。
『初めまして…』
レイお坊ちゃまの後ろに隠れてオドオドとそう可愛らしい声で挨拶した女の子。
その子こそが後に私の親友で、将来の主となる、ルナ・フローレンスだった。
*****
「旦那様が国王陛下の勅令を受諾され、ナタリー帝国の王女様と婚約を結ばれることになりました」
月に一度だけ本邸で行われる使用人たちのミーティング。
いつもと同じ流れ作業的な話が始まるのかと思えば、ベンジャミンの口から出た言葉に一瞬我を忘れてしまう。幻聴かと思った。聞き間違えかと思った。
「私は、私は…、認めません」
全ての使用人が言葉を失っていた中、私はそう声を発した。理解できなかったから。あんなにもルナお嬢様を愛していたレイ様が、なぜあの憎い国の王女と婚姻なぞを結ばれたのか。
国王陛下からどんな脅しがあったのだろう…?いや、脅しならば今のレイ様は進んで極刑を望まれるはず…。
では一体何が、どう転んでこのふざけた勅令を受諾されることになったのか?
頭の中でハテナマークが飛び交う。
そもそも、なぜ元敵国の王女様が我が国の、しかもよりによってこの侯爵家へ嫁いで来るのか?迫害を受ける恐れだって十分にあるのにも関わらず…。
一体全体この政略婚は両国にとってどんな利益があって、どんな目論見を見越して決められたものであるのか?
だが、一使用人の私には政治的意図なんて関係ない。ただ…
「私は帝国ご出身の奥様に平気な顔でお世話することができないと思います」
私の女主人はこの先も変わらない。亡くなられたルナお嬢様だけ。この考えだけは揺るぎないもの…。
だけど一方で長い月日が私の傷を癒し、新たに心に決めていた決意だってあったのだ。
お嬢様の未来はもう失われてしまったけれど、もし…、もし、今後レイ様にルナお嬢様以上に愛する者が現れたら、そうしたら心から祝福し喜んで新たな女主人に仕えよう、と。二人の行く末を温かく見守ろう、と。そう心に誓っていたのだ。
けれど、レイ様が受諾されたこの結婚は政略婚。愛も希望もなく、ただ両国の利益の為だけに紙きれ上だけで結ばれるもの。
私はルナお嬢様がどれだけレイ様を愛していたのか、けれども一方で、家族を守るためにその想いをどれだけ歯を食いしばって耐えてこられていたのか知っていた。
貴族なんてめんどくさいな、なんて感じることは日常茶飯事。
レイ様だってルナお嬢様の気持ちを知っていたはずだ。
なのにこの結婚を受け入れただなんて!!しかも、愛を伝えることすら叶わず、突然にこの世を去らねばならなくなった、その元凶のトップである帝国の王族と縁を結ぶなんて…。
こんな政略婚はルナお嬢様の人生を侮辱しているとしか思えない。
なぜ受諾してしまったのか?レイ様に心底深く失望していた。
「ハンナ、もう既に決まったことだから。大旦那様も承諾されて、後はもうその日を待つだけなのよ…?」
前侍女頭で、現大旦那の御付きである母レイチェルは娘にそう諭す。
分かっている。執事を通して全使用人の前で公表している今、もうこれは決して変えぬことのできない決定事項なのだと。だけど理解していても、どうしてもこの結婚は自分の中で受け入れられない。
なぜ憎い国の、なぜ嫌悪する王族の、なぜ厭悪の象徴である姫がレイ様の妻になることを許されるのか。
「帝国からは侍女と使用人が数名派遣されると聞いている。ハンナを含め他のものも、よほどのことがない限り王女様のお世話を直接行うことはありませんので…」
ベンジャミンさんのそう紡ぐ声に周りからは安堵の声が聞こえた。皆言葉にしないだけで、帝国の人間と関わることに抵抗があったのだろう。
だが、そんな執事の言葉は私にとって気休めになるものではなかった。むしろ、もうそんな細かなところまで話が進んでいるのだと。やはりこの結婚は変えぬことのできない事実であるのだと深く絶望していた。
だから…
「お嬢様、ごめんなさい…」
その夜、お嬢様が愛してくれたこの髪を切り落とした。
『ハンナの髪、大好きなの。お義母様に似ているからかしら?すごく落ち着くわ』
エミリア奥様と同じ色に輝くこの髪を。
お嬢様に流行りの髪型を結いたくて、何度も練習していたこの髪を。
たまにふざけてお揃いのヘアーアレンジをしていたこの思い出のある大事な髪を。
自分の中で何かケジメをつけて、この思いに区切りをつけないと、お嬢様に悪い気がして…。罪悪感に自分が埋もれ、壊れてしまいそうだったから…。
「お嬢様…。本当にごめんなさい…」
髪を切り落とした時、なにか自分の中で大事なものが失われたような、心にぽっかりと穴があいたような虚無感が胸にじんわりと広がっていった。
*****
そしてハンナは今、屋敷の中を一人走り回っている。
いやな音を立てる胸を押さえ、新たな女主人の侍女を探すために。
マリアンヌ・ガリシア・アストゥリアス。
もともとは姉のソフィア王女が旦那様の結婚相手であると聞かされていた。だが、蓋を開ければ体の弱い妹の方にいつの間にかすり替わっていた。
しかも侍女や使用人を数名連れてくると言っていたのにも関わらず、女が連れて来たのはたった一人のティエラという名の侍女。
やはり帝国ではこの政略婚はそこまで重要ではなかったのだ、だからこんなお荷物を旦那様の結婚相手に…。
帝国に失望し、だがそれ以上に旦那様へと怒りがふつふつとこみ上げてくる。やはりこの結婚は受諾なんかするべきでなかったのだ、と。
「ハンナさん、顔が怖いです」
もう間もなく女が到着すると知らせが入った。
屋敷の前で数名の使用人と共に出迎えを始める。
「医者を…、お医者様を呼んでいただけませんか!!!???」
屋敷の外で待機していた使用人は例外なく皆息を飲み込んだであろう。
馬車が到着したかと思えば、悲痛な声を荒げて助けを呼ぶ侍女がそこから出てきたのだから。しかも、その侍女の容姿はルナお嬢様に瓜二つ。
- お嬢様がこの屋敷に帰ってきた…
突然の出来事に誰もが言葉を失い、体が固まってしまう。時の流れがとまったように、異国の侍女の姿しか目に入らない。
「私は今は無力なのです…。お願いですから…」
再度女の助けを懇願する声ではっと我に返った。彼女の発言の意図はよく理解ができなかったものの、彼女の抱えるぐったりと意識のない新たな女主人が目に入り、状況を素早く理解した。
やはり前もって聞いていた情報の通り、女の体はどうやら弱いようだ。帝国から王国までの道のりに加えて、王都からこの領地までの旅路。やはり体力的に耐えきれないものだったのだろう。
そこからはテキパキと医者の用意や、寝床の準備、必要最低限の薬の確保など、周りに指示する。
数時間後、ようやくベットで横たわる女の呼吸が安定してきた。
しかし女の手を握りしめ、ルナお嬢様に瓜二つの侍女は主人の傍から離れようとしない。
ハンナは胸にチクチクと針で刺されたような痛みを感じ、心苦しさを覚えて来た。
「ティエラさんが倒れてしまったら、今度は奥様が心配されます。目を覚まされましたらお声がけしますから少しお休みになられては?」
別人とはいえ、こんなにもルナお嬢様に似ているのだ。彼女の心配で歪んだ顔をこれ以上見てはいられなかった。だからそうティエラに提案し、この恨めしい女の看病の代わりを買って出た。
- どうせ明日まで目を覚まさないだろう…
そう高を括っていたのだが、ティエラがこの部屋を去って本当にすぐにこの女は目覚めてしまった。
- 意識はあるのかしら?
念のため、「奥様!」と何度か呼びかける。
「ハンナ、ごめん。変な夢を見てたみたい。水を一杯くれる?」
目覚めてすぐあの女は私の名前を呼んだ。
あまりにも自然な声で、自然な口調で。
驚きのあまり硬直してしまう。なぜ彼女が私の名前を知っているのだ?
だがふと思い起こす。私だって前もってこの王女様の情報を旦那様やベンジャミンから入手していたのだ。彼女は帝国の王族なのだから、私以上の情報を先に持っていたとしても何ら不思議なことではない。
何とか我を取り戻して、さっさと水をコップに注ぎ、「奥様…。気分はいかがですか?」と問いかける。
「ハンナ、ふふ。奥様って…」
はにかむ女に違和感を感じる。その顔があまりにも可愛らしく照れているものだったから。
- もしかしてこの王女様は旦那様との結婚に前向きだったのだろうか?
だが、次に続く彼女の声にハンナはその思考を放棄する。
「ハ、ハンナ!?どうしたのその髪!?何で?何があったの?」
突然のこの質問にもう大パニック。
思考も体も完全停止してしまう。
なぜ女が一使用人の髪型事情まで知っているのか?しかも、髪を切ったのはこの政略婚を旦那様が受諾されてすぐの時なのにも関わらず…。
ハンナの胸に不穏な音が鳴り響く。
この女は、帝国は、一体このフローレンス家をいつから目を付け、どこまで調べつくしたのだろうか…。
だからあのお嬢様に似た侍女を連れて来たのか?私たち使用人を油断させ、早く心を開かせる為に…。
全て罠だったのだ。きっとフローレンス家を陥れるために派遣された帝国からの刺客に違いない。
まんまと嵌められてしまった…。早く侍女を探し出さなければ!今頃この屋敷内を念入りに調査しているに違いない。
怖かった。彼女らが何を考えているのか検討もつかなかったから。
怪しまれぬよう、最もらしい言葉を紡ぎこの部屋から立ち去ろうとする。が、女が手に触れそれを拒む。
反射的にその手を払いのけてしまった。バツが悪くなり、触れられた手を胸に抱え込む。
目の前にいる女はなぜか困惑した表情を浮かべていた。
一応謝罪し、逃げるようにして部屋から立ち去る。
もう全てが怖かった。
一体これからこの屋敷はどうなってしまうのだろうか?
この女に、帝国に、乗っ取られてしまうのではなかろうか?
一抹の不安を感じる。
震える手をぎゅっとより強く胸の前に抱き寄せ、深呼吸する。
- 私が何とかしないと…
今、この屋敷を任されているのは誰でもない、侍女頭の私なのだ。
こうして帝国から来た怪しい侍女を探すため、一人屋敷内を走り回っていた。




