07. 交差する二つの感情
変な夢を見た。
目の前にいる二人の少女が何やら言い合っている夢。
『私の記憶を全部返してよ!』
泣き叫ぶ黒い髪の女の子。
『駄目よ。今全て取り戻したら、精神がおかしくなるわ』
それを宥めるブロンドヘアーの女の子。
『それに、私と約束したでしょ!サンを見つけてって。彼を助けてって』
女の子たちが何を言い合っているのかよく理解出来なかった。
だけど少女たちを客観的にみながら朧気に思ったことは一つだけ。
- わたしが二人…?
顔も髪の色も背丈も違う二人。けれどもどうしてもこの二人がどちらも自分であるという確信があった。
なぜ?そんなことは分からない。理由なんてない。直感でそう思うだけ。
二人の私が言い争っている、と。
『じゃあ、いつ返してくれるの?』
私もその答えを知りたい。
ブロンドヘアーの女の子が口をあける。
声が聞こえない。
ねぇ、なんて言ってるの?何をしたら返してくれるの…?
*****
「……さま、おくさま…、奥様!」
答えを聞く前に懐かしい声によって目覚めてしまった。
目の前には見慣れた顔と天井が広がっている。
あれは何の夢だったのか?
何も分からない。
ただ、目覚めてもなお不思議な感覚が胸を支配している。
「ハンナ、ごめん。変な夢を見てたみたい。水を一杯くれる?」
目の前の女性にそう声をかける。
夢の続きが気になるが、今はこの喉のどうしようもない渇きを潤したかった。
「えっ?あ、はい」
返事をするものの、目の前の女は目を見開いたまま動かない。どうかしたのだろうか?
「ハンナ…?」
「あ、はい」我に返ったように丁寧な仕草で水をグラスに入れる。「奥様…。気分はいかがですか?」
「頭が少しぼんやりとしているけれど、体調に変化はないわ。大丈夫。ってか…おくさま?」
女の〝奥様〟という言葉に反応する。
何を言っているのか。ついに自分の妄想がハンナにまでうつってしまったのだろうか…。
「ハンナ、ふふ。奥様って…」笑いながら女へと顔を向ける。だが、そこにいた侍女は自身の記憶にある温かい笑顔を浮かべてはいなかった。まるで怖がっているような恐れているような、唇を噛み締め無表情に徹している。
彼女の不思議な表情に首を傾げる。どうかしたのだろうか?
…。あっ!
いつの間にか自身の視線はその女の髪に奪われる。
「ハ、ハンナ!?どうしたのその髪!?何で?何があったの?」
美しいクリーム色に光る髪をいつもおさげにしてまとめていたハンナ。だが目の前の侍女は記憶と異なり、バッサリと髪を切りボブヘアーへとその姿を変えていた。似合っている。けれど昨日までと全く違う彼女の髪型に口をあんぐり開けて問いかける。一体何があったのか、と。
だが、その質問はハンナにとってはかなり仰天するものだったらしい。マリアンヌの問いかけに侍女は目を見開いて言葉を失ってしまう。そしてついに固まり動かなくなってしまった。
「似合ってるわ。だけど、まだもう少し伸ばすって言ってなかった…?なんで急に…」
「お、奥様!」ハンナが次に発した声は裏声だった。不思議とその声は震えている。「つい先程まではティエラさんが居てくれていたのですが、今しがた交代したばかりなのです!まだ近くにいると思いますので、彼女を呼んできます!」
早口でそうまくしたて、答えを告げぬまま、まるでこの場から逃げるように部屋から出ていこうとする。
- いつものハンナと違う…!
彼女は唯一心許せる親友なのだ。
一体全体、昨日今日で何があったというのか?
「どうしたの?何かあったの?」
つい心配心でハンナへと手を伸ばし、立ち去ろうとする彼女の手に優しく触れる。
パチンッ
だが、その手は無残にもはらわれてしまう。
「いやっ!!!!あ、あっ…。も、申し訳、大変申し訳ございません……!!!」
ハンナと自分の距離感がどうもおかしい。
女は払った手を胸に抱えて走って部屋から出て行ってしまった。開かれたままになっている扉を茫然と見つめる。
- ハンナ…。一体どうしたというの?
そしてふと我に返る。
- そういえば、ティエラなんて侍女いたかしら?
ティエラ、ティエラ…
艶やかな黒髪と銀灰色の瞳を持つ侍女を思い出す。
なぜ忘れていたのか?今しがたまで馬車で一緒に旅をしてきたというのに…。
- そうだ。確か、馬車でこの屋敷の敷地内に入った時に、記憶が戻ったんだ…
ゴボッ
数時間前の微かな記憶を思い出し、その反動でせき込み、口元から水が零れた。
「奥様!?」
外がバタバタと騒がしくなったかと思えば、先ほどハンナが開けっぱなしにしていた扉からティエラが駆け込んできた。彼女らしからぬ礼儀の無さに突っ込む元気はない。
「奥様!?意識が戻られたとお聞きしました!大丈夫ですか!?」
涙がティエラの美しい瞳に浮かんでいる。
鈍い働きをする頭を抑え込む。
自分が自分でなくなる感覚とはこういうことを言うのであろう。
意識を失う前の記憶を探る。なにが起きたのか分からなかった。
ただ、思い出した。思い出したのか?
頭をひねる。混乱していた。
- そう、私はルナ…。ルナ・フローレンス…
昨夜、明日王都に旅立つから、と義母の振舞う食事を楽しんでいた。
食後のデザートは義母自慢のチェリーパイ。
味だって鮮明に覚えている。確かな記憶なのだ。
「奥様、体調はどうですか?気分は今いかがですか!?」
言葉を返さないマリアンヌにティエラは何度も何度も声をかけてくる。
だけど一方でマリアンヌとしての記憶もあるのだ。
今朝、タウンハウスを出発したことも。
長い馬車の移動も。ティエラとのしょうもない雑談も…。
- 私は一体誰なの…?
私はマリアンヌ。
マリアンヌ・ガリシア・アストゥリアス。ナタリー帝国の第二王女…だった。
先日、レイ・フローレンスと結婚式を挙げて…。
レイ・フローレンスの新郎姿を思い出す。
私の存在に無関心な無礼な男。
憎しみのこもる不機嫌な顔に、睨みをきかした冷たい視線に、威嚇してくる低い声。
不躾な態度でマリアンヌぶ全く寄り添おうとすることなく、拒否することしかできない感情だけで生きる男。
- 大嫌い。私だって、望んだ結婚ではないのに…
マリアンヌの頭ではあの男を拒絶している。
なのに、蘇ったルナの記憶はそれを許さない。
あの不機嫌な顔に触れたいと思う。
あの冷たい視線でもいいからもっと見つめてほしいと思う。
あの低い声で名前を呼んで愛を囁いてほしいと思う。
なに!?この感情は一体何?この記憶は一体何?
マリアンヌとしての男に対する負の感情より、一層深く芽生えてくるこの想い。
私は知っている。この感覚を。
でも、なんで、なんで???受け入れたくない自分もいる。
- ようやく誰からも非難されることなく、この恋が成就するというのに…
悪感情で胸がいっぱいだった筈なのに、レイに対する好感情が新たに胸の鼓動を高鳴らせ、正反対の心情が交差する。
行き場の無い二つの想いに耐え切れず、心配するティエラをよそにマリアンヌはついに大泣きを始めてしまった。




