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追伸、愛しています  作者: 聡子
第3章
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06. フローレンス家のカントリーハウス

 「この一週間ずっと移動、移動。移動ばっかりでもう疲れちゃったわ」


 フローレンス家の領地に旅立ったマリアンヌ。やはり旦那様は自身の出発前の朝餉の際も顔を出すことなく、そそくさと仕事場へと向かってしまわれていた。



 『まだまだ騎士のお仕事は減らず、忙しい日々を送られているですね…』

 『ええ。終戦したとはいえ、守るべき人たちは沢山いますから』



 旦那様の代わりにベンジャミンへと挨拶した際の会話を思い出す。こんな扱いを受けた後で彼を擁護する話を聞いても、あの男が本当に王国を守る責任を感じているのかどうか甚だ疑問であるのだが。



 「お屋敷に着いたら、お風呂とマッサージの用意をさせて頂きますわ」

 「いいわよ。ティエラも移動ばかりで私同様疲れているでしょ?」

 「治癒が使えたら一番いいのですが…」


 ティエラのいう〝治癒〟をマリアンヌは今の記憶の中では受けたことがない。帝国にいるとき、ソフィアお姉様からよく聞かされていたのだが、巫女の力のせいなのかマリアンヌの体力は殆どないに等しいものだったらしい。眠っていることが多かったか弱いマリアンヌの体にティエラがよく治癒魔法で加療に当たってくれていた、とのこと。


 パチッ


 静電気のような電流が二人の間に走る。


 記憶を失い、その力が使えなくなったマリアンヌ。体力に問題などなく、体はいたって健康的。だからなのか、ティエラの治癒魔法をマリアンヌは受け付けず全てはじき返してしまうのだ。


 「記憶が戻ったらティエラの魔力を跳ね返さなくなるのかしら?」

 「どうでしょう?」


 マリアンヌの呑気な声にティエラは帝国で何度も見たことのある思いつめたような表情を浮かべていた。


 

*****




 王都からはさほど遠くはないとは説明にうけていたものの、それでも約丸一日の旅路であった。


 稲穂豊かな土地。帝国から王国へ来る道中で何度も見た小麦畑の金色の景色が辺り一面に広がっている。もうあと少しだと、従者の明るい声が聞こえて来た。


 「ティエラ、不思議だわ。私、この光景を以前にも見たことがある気がするの」

 「左様ですか。確かに先ほどからずっと似たような景色が続いていますからね。私もどこかで見たことがあるような気がしてきました」


 - そうではないのだけれど…


 車窓から見える辺り一面の小麦畑。今まで感じたことのない感情がマリアンヌの胸に広がっていく。

 それは、懐かしさであり、心温まるものであり、一方で甘く心くすぐられる不思議な感情。

 もうずっと馬車に揺られて足腰が痛いはずなのに、この感情で全てが忘れさられていく。


 ティエラの回答はあながち間違いではない。確かにここにくるまでに何度も見た光景に近い。けれども、そうではないのだ。この香りも、この景色も知っている。頭でも心でも、本能的にこの場所を知っていると断言できる。


 - 何に対しての既視感なのかしら?

  夢か何かで見たことがあるだけなのかしら? 

  それとももしかしてこれが巫女の力なのかしら…?


 マリアンヌの小さな疑問は、車窓に現れた広大な河の景色にいつの間にか打ち消された。

 きゃっきゃっと領地の子どもたちがその河で楽し気に遊んでいる声が聞こえる。そしてその声に反応するかのように誰かの記憶が再び鮮明に脳裏に映し出された。



 『早く帰らないとまた抜け出したのばれますよ~!!』

 『大丈夫!この子を捕まえたらすぐ帰る』



 相手の顔はぼんやりとしている。けれども、他の景色は鮮明に思い起こされる。車窓からは見えていないのにも関わらず、あの川岸に咲いている花も岩の形も手に取るように分かるのだ。


 「危ないですね」

 「あそこは、浅瀬よ。それに鮎が良く取れるから、私もお義兄さまとよく遊びに…」


 ティエラが車窓から見える子どもたちを見ながら心配そうにそう呟くのをよそに、マリアンヌから自然と零れたのは、誰かの記憶。


 「?」


 ティエラが不思議そうな表情を浮かべてマリアンヌを見る。


 「奥様は今まで一度も川遊びなんかされたことありませんでしたよ?」


 「……」


 「それに帝国の川にいるのは殆どがマスです。鮎はほぼいませんよ…?」


 「そうよね…。えぇ…。多分本で読んだ知識だわ…」


 ティエラにそうごまかしながらも、マリアンヌは一人不思議な感覚に浸っていた。思いだした記憶にはまだ続きがあったから。


 

 『もうこの抜け道も使えませんね…』

 『これだからドレスは嫌なのよ…。細道にも獣道にも適してないんだから』

 『後で一緒に父さんにも母さんにも謝ってやるから、ほら!』



 そう。は、よく抜け道を使ってあの浅瀬へ遊びに来ていた。

 車窓から記憶に浮かぶ抜け道を探す。だが生い茂っている背丈の高い雑草が邪魔をし、その道を見つけることができなかった。

 だけど…。


 - 確か川上にはレンガ造りの橋があったはず…


 馬車が走るこの道の先にあるものが手に取るように分かる。



 「奥様、橋をこれから渡るようですので、少し揺れるとのことです」


 

 目の前には記憶と同じレンガ造りの橋。

 そして、この橋を渡って、桜トンネルの道を抜けたら…



 「今は季節外れですけど、春になったら異国のピンクの花でこの通り道は綺麗に彩られるそうですよ。桜吹雪が見事なんだと、出発前ベンジャミンさんがおっしゃってました」



 今度は寂しい木々のトンネルを抜ける。


 - ああ、もうすぐ衛兵のいる大きな門があるはず。そこをくぐって、お義母様が大好きだった色鮮やかに彩られていたあの荘園の向こうに…



 「今は誰も管理してないので、花も何もありませんが、以前はとてもきれいな荘園だったと聞いています」



 やっぱりそうだ。自身の記憶と全く同じ大きな屋敷が見えてきた。




 『大丈夫。僕たちはどこにもいかないから』

 『すっと傍にいるから』

 『ここが新しい僕たちのお家だよ』




 思い出が少しずつ頭のなかに流れてくる。

 それは走馬灯のようにゆっくりと、けれども色鮮やかに、まるで昨日の記憶のように…。


 「わたし…私は帝国で生まれ育ったのよね?私は、マリアンヌであってるわよね?」


 主の不思議な疑問にティエラは首をかしげる。急にどうしたのだというのだろう?

 立派な屋敷から目を話しマリアンヌへと視線を移す。

 ぎょっとした。マリアンヌの美しいアメジスト色の瞳から大粒の涙が次から次へと零れ落ちているものだから。


 「奥様!?どうかされましたか!?」



 一方でマリアンヌは激しく動揺していた。



 - 私は、私は誰なの…?




 全てではない。だけど、記憶の一部が断片的でなくはっきりと戻ってきていた。


 この家でハンナと駆けまわったことも、義兄と秘密基地を作ったことも、ベンジャミンやレイチェルに怒られながらも、貴族としての立ち振る舞い方やマナーを勉強したことも…。




 私は、マリアンヌ・ガリシア・アストゥリアスなんかじゃないわ。



 頭がくらくらする。

 つい昨日までこの屋敷で暮らしていたはずなのだ。

 なのに、なぜか昨日タウンハウスでお義兄様と会ったマリアンヌとしての記憶もある。

 二つの記憶が混ざり合い、どの記憶が正しいもなのか分からなくなる。

 だけど、そうよ。私は…。私は…。なぜ?なぜ今まで忘れていたのだろう?




 私はルナ・フローレンス。




 このフローレンス家の一人娘。



 でも一体なぜ私は今マリアンヌとして生活しているのだろう?

 なぜマリアンヌの記憶もあるのだろう…?



 マリアンヌとルナの記憶が混ざり合う。

 自分が一体誰なのか。どの自分が正解なのか。

 自分の正体すら分からなくなり、頭を抱える。どうやら記憶の迷子になってしまったようだ。


 「奥様!?奥様!?」


 ティエラの声が遠くに聞こえる。


 - 私は誰…?


 『今日から君はルナ・フローレンスだ』


 優しいあなたの声が響き渡る。

 その声に安堵を感じ、マリアンヌはこれ以上考えることをやめ、ついに意識を暗闇へと手放すことにした。


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