03. フローレンス家のタウンハウス
「これが貴族のお屋敷…?思ってたより、その…、なんというか…、可愛いのね…」
「こちらはタウンハウスですからね。カントリーハウスは荘園もあって、比べ物にならないくらい広いとお聞きしましたよ」
「???」
「貴族や平民たちの暮らしの勉強はまだでしたね…。こちらでも家庭教師の手配が可能か聞いてみますね」
ミカエルや護衛たちのナタリー帝国からの一行とは城をでる際に別れた。
式後、正式な書類とともに婚姻を結んだマリアンヌはリーツァン王国の国民となった。例えナタリー帝国の元王女だとしても、警護はもう不要。かねてより父上がそう決めていたのだから仕方がない。
だが、マリアンヌはそれでも良かった。一人ではなかったから。ティエラがいたから。彼女への信頼はここ数日の間にずっと深まっていた。マリアンヌは彼女の全てを知っているわけではない。だが、ソフィアから最低限のことを教えてもらっていたから、それでもついてきてくれていた彼女にとても深く感謝していた。
記憶を失ってからは歴史や礼儀の勉強ばかりだったから、こういう当たり前のことを学び忘れていた。
この場にティエラだけでよかった、と赤面した顔を隠しながら馬車を降りる。
「ようこそ、マリアンヌ奥様」
屋敷の前で二人を迎えたのはひとりの白髪の男性だった。美しい礼の作法を見るに、ここの執事だろうと想像には難くない。
「初めまして、マリアンヌ・ガリシア・アウグストゥスです」
「奥様、婚姻したばかりです」
「あ…」
帝国で学んだ王国の作法。間違えずに挨拶はできたものの、肝心な名前を間違え自己紹介は失敗してしまう。帝国では、結婚しても姓は変わらない。ただ後に生まれた子供たちが夫婦の第一の姓を受け継いでいく。そのことに慣れていたマリアンヌのミスだった。
王国で婚姻を結んだのだから、ここの法律に従わねばならない。昨日より、マリアンヌ・フローレンスに変わったのだから。
「いえいえ、少しずつ慣れていけば問題ありません。私は執事のベンジャミンと申します。なんなりとお申し付けくだ…」
朗らかな声で優しく返答する執事。だが急に話すのを止めてしまった。どうかしたのかしら?
マリアンヌはベンジャミンを見つめる。だが、彼と目が合うことはなかった。彼の視線はマリアンヌの奥を見つめていたから。
その表情はなんとも複雑で、喜びと戸惑いと驚きと…。多様な感情が入り混じっているものだった。
マリアンヌは後ろを振り向く。一体ベンジャミンは何を見ているのか。だが背後にはティエラしかいなかった。彼女もベンジャミンの視線に困惑し、助けを求める顔でマリアンヌを見ている。
「ベンジャミン、さ、ん?」
再度向き直し彼に問う。
マリアンヌの声にはっとしたベンジャミンは、失礼しました、と言って中へと案内してくれた。
「既にお荷物はお部屋に運ばせていただいております。奥様はどうされますか?お部屋で休まれますか?それとも…」
「お屋敷内を案内して頂戴」
「畏まりました」
*****
「おそらく、領地で過ごされることが多いでしょうが…」
そうは言いつつもベンジャミンは丁寧に案内してくれた。決して広くないがこの屋敷のフロア内全てを。
それにしても、だ。
ベンジャミンの案内中にすれ違う使用人や、侍女たちの表情や視線に違和感を感じる。
マリアンヌは敵国の王女であるから、もっと強い嫌味を含む視線でジロジロみられるだろう、と心していた。だが、彼らの好奇で溢れた眼差しは決してマリアンヌに向くことはなかった。彼らはまるで幽霊を見るかのように、目を見開いて、あるいは涙を流して、マリアンヌの後ろを歩くティエラをみるのだ。
こんなにも自身の存在を無視されるなんて…。今まで経験したこともないし、想像もしていなかった。
ティエラが何かしたのか?胸の中でその疑問は少しづつ大きくなっていった。
そう、あの絵姿をみるまでは。
それは、最後のフロアでの案内の時だった。
「一番奥の部屋が旦那様のお部屋。その手前の真ん中に見えるお部屋がお二人様の寝室で、こちらが奥様のお部屋になられます」
「私たちの向かいの部屋は?」
旦那様と、奥様用。そう案内された部屋のそれぞれ前に部屋が一つずつあった。単なる興味でベンジャミンに問う。
「もともとは旦那様と、妹君のルナ様のお部屋でした…」ベンジャミンが気まずそうに話を続ける。「しかし、今は使用されておられませんので、一番奥の元旦那様のお部屋はティエラ様がお使いください」
「なりません!私は一介の使用人です。どうか、例外扱いなんてしないでください…」
ベンジャミンのまさかの提案に両手を前に突き出し、勢いよく拒否するティエラ。
「しかしながら…」だがベンジャミンはなかなか首を縦に振らない。「使用人の部屋は既に満室でして…」
- なぜ自分たちの到着前に用意していなかったのだろうか?
そう疑問に思ったものの、初日からいざこざを少しでも起こしたくなかったマリアンヌ。
「そうね、ティエラ。ベンジャミンの言う通りにしてちょうだい。なにせ、私はこの国の作法を勉強中だもの。部屋が別れているとはいえ、同じフロアに旦那様と二人きりなんて、何か粗相があった時に困るわ。だから、私からもお願い。私を助けると思って、今日一日だけでも辛抱してくれない?」
ティエラに諭しながら、マリアンヌは思っていた。
自分だけでなくティエラも帝国からきた言わば外国人である。彼女だって自分同様憎まれる元敵国民であり、十分差別対象になりうるのだ。ティエラが使用人たちの間で苛めを受ける可能性だってゼロとは言い切れない。
まだまだ、自分たちの事なんて誰も知らない。もしかしたら、他の使用人たちと部屋をわけるのはベンジャミンの心の優しさかもしれない。
「でも、ベンジャミンさん。さすがに今は使用されていないお部屋とはいえ、旦那様の元お部屋を使用させて頂くわけには参りません。できれば、同じ女性の…。妹君のルナ様のお部屋を本日だけお借りすることはできませんか?」
マリアンヌの声にティエラは首を縦にしぶしぶ振るものの、彼女なりの妥協案を提示してくる。
「大変申し訳ございませんが…」だが、執事は優しく首を振りそれを拒否する。「あのお部屋は、旦那様と侍女頭のハンナ以外はどの使用人も全て立ち入り禁止になっておりまして…」
「しかし…」それでもなお食い下がるティエラ。しかし、ベンジャミンも決して首を縦に振ることはない。
「それならば…」長い間二人の押し問答が続いたため、マリアンヌは助け舟を出すことにした。「ティエラの言わんとすることも分かるし、ベンジャミンは旦那様の言いつけを守らねばならぬという事も十分に理解はできるわ。でしたら、私に一度ティエラのお部屋確認させてもらえないかしら?何も問題なければ、今日一日だけと思って、ティエラ、我慢して頂戴ね?」
奥様のいう事でしたら…、と二人は渋々承諾した。
マリアンヌは不思議な気持ちだった。
顔も知らない女性、ルナ・フローレンス。旦那様が執着してやまない妹君。
帝国と王国の意見の食い違いが発生したした事件の被害者。
休戦協定が破られたのも、自分がここに嫁ぐことになったのも…。この女性が全ての元凶である。
近くて遠い彼女の存在。
そっとルナの部屋の扉に優しく触れ、「いつか、本当のことが分かりますように…」そう唱えた時だった。
『なぜ来たんだ!?領地にいろとあれほど言ったろ!?』
頭がガツンと殴られるような痛みを感じ、マリアンヌはよろけた。後ろを振り返る。レイ・フローレンスの声が聞こえたから。だが、そこには誰もいなかった…。
「大丈夫ですか?」
ベンジャミンの優しい声が遠くに聞こえる。
疲れが出ているのだろうか?
「大丈夫よ。それより、ティエラの部屋を見に行きましょう」
*****
赤い夕陽がシックな色で統一されている部屋全体を染めていた。高級感のあるこの部屋は、やはり一介の使用人が一日とはいえど過ごす部屋ではないな、とぼんやりと思う。
それにしても、一貴族の部屋にしては小さいものね…。
そして、ふと何かの視線を感じベットの方へと視線を移す。
『もう動いてもいい?流石に長いわよ…』
可愛らしい小鳥のような声が頭に響く。
ベット脇には、一枚の大きな家族絵図が飾ってあった。
そしてその絵を見た時、なぜこの家のものが私の存在を無視し、ティエラばかり見るのか。そして、彼らの表情に困惑の中にも、なぜ喜びの感情があったのか。マリアンヌは心から理解し、ドッペルベンガーとはこういうことをいうのか、と感心した。
近くに歩み寄り、その絵を見上げる。
白銀の髪と深い海のような瞳をもつ親子。
ブロンドヘアーに新緑の目を持つ夫人。
そして、誰とも似ていない、黒髪の女の子。
その瞳の色はよく知っている薄いグレーの色。
「そう言うことか…」
そこにはティエラより幼い顔をしているものの、彼女と瓜二つの女の子、ルナ・フローレンスの絵姿があった。
「ねぇ、ティエラ…」
後ろを見てティエラに話しかけようとする。だが、そこにいたティエラは膝を床に打ち付け、なぜか静かに泣き崩れていた。




