06. 身代わりの提案
「しかし、つい先日ソフィアに許可を出したばかり…。ランドマン家とも契約を結び終えてしまった。それをここにきて破棄するとなると…」
国王陛下の声にはっと生気を取り戻す。隣でミカエルが優しく首を振っている。まるでこれ以上話を聞いてはいけない、と促すかのように。だが、マリアンヌはミカエルを振り切り、その声の方へと歩みを進める。
執務室でもないこんなひっそりとした場所でなぜこんな重大な話をしているのか…。マリアンヌは少し疑心を抱いていた。この声が知った父上の声で無ければいいと深く願った。
「今なんと?」
マリアンヌはバタンと荒々しく声の漏れていた扉を開ける。
そこはいつもの明るい政務室と違い、少し埃の舞う暗い部屋。一見してここが普段使われていない場所だとわかる。
嘘であってほしかった。だが無情にも、父である国王が一番初めに目に入った。隣には護衛、そしてその前には黒い頭巾を深く被っている不審な男。それはたった三人の密談場であった。
つい先ほどまで幸せそうに喜んでいた姉の顔が頭に浮かぶ。
そんな馬鹿な話があるものか。
隣でミカエルが顔を真っ青にするのが空気で分かった。決して自身に触れようとはしないがそれでも行く手を阻もうとする。だがそれを振り切って奥の父の元へと進む。
行儀が悪いと叱られてもよかった。だけど、今はそんなことよりも、聞こえて来た会話の内容の方が重要だ。折角長年の思いでようやく結ばれた大好きな姉の婚約。彼女の幸せに危機が迫っているのだ。
マリアンヌは王女としての品格よりも、姉の危機にいてもたってもいられなかった。すぐにでも事の真偽を確かめたかった。
「父上、今の話はどういうことですか?」
マリアンヌの二言目に国王の前に立っていた黒頭巾の男がゆっくりと振り返る。
男の金色の瞳と目が合った。途端、初めての感覚がマリアンヌを襲う。それは四年ぽっちの記憶の中での初めてのこと。決して心地よいものではない。むしろ恐怖を覚え、足元から何かヒヤリとするものがわき上がってくる感覚だった。男の光る眼が彼女の心をより動揺させる。
「これはこれは、マリアンヌ姫。お初にお目にかかります。ギルベルトと申します」
頭巾の奥深くから垣間見える金色に光る眼や蛇のようにニタニタとした笑みを口元。それらが恐怖を駆り立てる。足がガクガクと震えだし、胃から何かが逆流するのを感じた。
男が何者なのかは分からない。だが、何故か体は意志に反して反応する。
「姫様はなぜこちらに?」
「部屋に一人でいるのが寂しくて…。それで王宮内を散歩していたら声が聞こえて…」
男の問いかけに、震えを我慢しながらマリアンヌは凛とした声で答える。
悪いことはしていない。だが、まるで自分が悪いことをしているのだと思わせんばかりの威圧感。
「左様ですか。ですがもう、ディナーの時間になりますので。早くお部屋にお戻り…」
「それより、父上!今の話は本当ですか?」
黒頭巾の男の声を遮って、国王に詰め寄るマリアンヌ。
あんなにルイスとの婚約を楽しみにしていた姉のことを知らないはずがない。数日前に許しを出したばかりにも関わらず、すぐに撤回し他の男と結ばせようとするなんて…。国王が、父が、信じられなかった。嘘であってほしいと心から願った。
「恐れ入りますがマリアンヌ姫。一点誤解されているようで…」国王はマリアンヌから目を逸らし、ただ地面を見つめているだけで言葉を何も発さなかった。代わりにギルベルトが答える。「姫様たちはこの帝国の王族、つまり政のコマなのです。人権なんてあってないようなものです。国の為になるならば喜んで身を投げ出すことくらいしませんと」
「ギルベルト!!!」
クツクツと嫌味ったらしい声でマリアンヌに話しかける男。王族にこんな口の利き方。無礼にもほどがある。マリアンヌの怒りを察知したのか、ようやく国王は強い口調で静止する。
「姉様にはすでに婚約者がいます。そのような王女を婚約者として他国に差し出す方が無礼では?」
「そんなものまだ発表されていない内々のもの。お金でも積めばあちらも黙るでしょう」
「ルイス様はお金なんかで今更引かないわ!ずっとずっと姉様のことが大好きだったのだから!!!」
「おや?記憶が戻ったので?」ヒヤリと冷たい男の手がマリアンヌの頬に触れる。怖い。肩を震わせ固まるマリアンヌ。だが、その男の手をミカエルが払いのける。
「ギルベルト卿、マリアンヌ姫はこの帝国の第二王女であられます。軽々しく触れないでいただきたい」
「これはこれは失礼…」
王族に臆さないこの男にどうしようもない不安が胸を騒めかせる。マリアンヌは一刻も早くここから逃げ出したい気持ちに駆られた。だが、それよりも今一番に自分がやらねばならぬ事…。
「父上、いえ、国王陛下」
この男と話すのは生理的に受け付けない。だがそれを理由にここで引き下がれば大好きな姉が犠牲になるかもしれない。どうしてもそれだけは避けたかった。今は少しでも情報が欲しい。
「リーツァン王国との婚約とは、どなた様との話なのですか?」
国王はそっと瞳を閉じて口を紡ぐ。
「始まりと終わりの騎士…。王国の野獣、レイ・フローレンス殿だ」
ひゅっとマリアンヌは息をのんだ。
思いがけない名前に言葉を失う。
その名前は何度も聞いたことがあった。
あらぬ疑いで帝国との休戦協定を破り、再戦をしかけた始まりの騎士。
そして、我が帝国の第一王子を殺め、終戦へと導いた終わりの騎士。
リーツァン王国では英雄に、ナタリー帝国では悪魔と言われ、全ての国民から厭われている存在。
「な…、なぜそんな男と…」
黒頭巾の男は高々しく笑う。まるで全てをあざ笑うような気味の悪い声で。
「向こうの要求だからですよ。戦争が終わってもまだ国同士、国民同士は平和とは言えない状況。絶え間なく国境付近では大小なりとも揉め事が多発している。だからより強固な契約がこの二国間に必要なのです。そしてそれが婚姻との、まぁ在り来たりな話です」
何がおかしいのか、ニヤニヤと笑いながら話す男。
そしてその無礼を止めることなく、「頼りない国王で、父親ですまない」と言葉を落とす父親。
「平和のために、婚姻を?その為にまるで人質のように姉様を王国に??」
「左様です。人質と言われても返す言葉もありませんが、所詮我が国は敗戦国ですので…」
「でも、でも、姉様は…」
「さぁ、理解したならマリアンヌ姫、早くディナーの席へ…。私は国王とまだ話が…」
「でも、帝国にはまだ王女がいます!」
震える声。怖かった。
でも、ソフィアは自分の姉であり、母親代わりの唯一無二の存在。大好きな人。
彼女の幸せをこんなことで踏みつぶしたくなかった。
マリアンヌの遮る声に空気が変わる。
「私だってこの国の第二王女です。父上、いえ。国王陛下。姉様のようにきっと上手く立ち振るってみせます。ですから、姉様の代わりに、私にリーツァン王国の騎士との婚約を命じてください」
自分が代わりに嫁げば良いのだ。それで全てが収まる。
あまり深く考えもせずに発した姉の身代わりの宣言。
「なりません!」
だが、この提案になぜだか黒頭巾の男が反対してきた。金色の瞳を揺らし、マリアンヌの肩をぎゅっと掴む。痛みで顔をしかめる。そこに護衛の男が剣を抜いて刃先を黒頭巾に向ける。
「手を放しなさい」
低く強い威嚇した声。ミカエルのこんな声を聞くのは初めてだった。だが怖いなんて感情は芽生えない。むしろ頼もしかった。
黒頭巾はしぶしぶ手を放し、国王陛下の方へと視線を向ける。
「まだ記憶は戻っておりません。戻るかもしれないのですよ!?もっと手厚く保護してから…」
だが、マリアンヌの揺るぎない視線を感じ取った国王はギルベルトの声を制して、マリアンヌに問う。
「向こうの国でどんな差別を受けるか分からないのだぞ」
「承知の上です」
「記憶がないがゆえに、社交界で馬鹿にされることもあるかもしれん」
「必死に勉学に励み続けます」
「待遇はずっと悪くなるかもしれん」
国王の声は震えていた。
記憶の無い、成人になるばかりの娘。
しっかりもののソフィアとは違い、まだまだ頼りにならない末っ子の娘。
心配だった。
だが、マリアンヌの意志は変わることはない。
「私が嫁ぎます」
その答えには一本の強い芯が通っていた。
叶うなら、自分だけの王子に出会う感覚を味わいたかった。
叶うなら、幸せな結婚生活をしたかった。
叶うなら、この帝国で、たくさんの温かな国民に見守られて結婚式を挙げたかった。
「巫女の力を王国に渡すおつもりなのですか!!!」
ギルベルトの荒ぐ声はもうこの親子の耳には届かない。
例え力を持っていても、記憶を失ったマリアンヌは使いこなせないのだから。
「国王陛下、王命を」
姉を救いたかった。
王族の一員として自分に出来ることをしたかった。
無力な姫でいることは嫌だった。
こうしてマリアンヌが姉ソフィアに変わり、敵国の騎士、レイ・フローレンスと婚約を結ぶこととなった。




