11. ルナの最期
- もっとちゃんと聞いておけばよかった。
当時のあの授業を思い出し、ルナは少し後悔していた。
- もっと魔法のことを…。あの民族のことを…。あの虐殺のいきさつを…
記憶が戻ってきた今ならわかる。
自分の正体も。
ソルという名の男の正体も。
そして、パパ、アルフォンスの正体も。
ルナは今、11年前の記憶との狭間にいた。だから、戻ってきた記憶がつい先ほどまで行われていたものかと錯覚し、現実との区別がつかなくなってきているのだ。そしてまた、突然戻ってきた記憶に眩暈を覚え、その感覚と鮮明に蘇った最後の光景に激しく気分が悪くなる。吐き気を感じる度に、何度も何度も嘔吐した。
一方で、目の前にいるソルもルナと同じく何かの違和感を感じ、苦しそうに胃の中のものを吐き出していた。
「ソル!どうしたんだよ!おい!大丈夫か!?」
もう一人の男が苦しむソルに駆け寄っていく。止まらない嘔吐と二人の間に起った摩訶不思議な現象が原因で、どうやらソルは意識が混沌とし始めているようだった。男はそんなソルを大事そうに抱きかかえて、声を荒げソルに問いかける。だが、ソルは反応しなかった。行き場を失った声は、雨で湿った路地裏に虚しく響き渡る。
「ア、ス、ト、レ…?」
せっかく身バレしないようにと深く被っていたであろう黒頭巾。だが男のそれも、ソルのものと同様に零れ落ちていた。そしてその顔を見てはっと息をのみ、その男の名を呟く。だが、動揺していた男には彼女の声は届いてはいなかった。
とても泣き虫だった彼。ああ、こんなにも大きく成長していただなんて…。
ルナはアストレの顔を見ながら、涙を目にためる。生きていた。自分の他にも生存者がいた…。それがこんなにも嬉しいことだなんて…。
彼から目線を外し、次は自分と同様に激しく苦しむ男の顔を見つめる。あの時ずっと探していた自分の片割れ…。ようやく会えた喜びと、当時の辛い記憶が自分の脳裏に蘇り、複雑な感情がお腹の下の方で芽生えてきた。
- ソル、なんで…。なんで…。なんでかあちゃんを…
辛い記憶が頭を駆け巡る。三人しかいない路地裏にいるはずなのに、多くの人の泣き叫ぶ声と怒声が聞こえてくる。
どれが本当に今現時点で行われているものなのか…。ルナはもう分からなかった。兎に角、ここから逃げ出したい。早くこの悪夢から逃れたい…。
ズキズキと激しく痛む頭を抱えながら、ルナは再度嘔吐する。
- この場から何としても抜け出さないと…
今いる場所が、路地裏なのか、血の海の中なのか。
今見えている人物が、二人の黒いマントの男たちなのか、血で赤く染まった人なのか。
今漂っているものが、雨の匂いなのか、強い鉄の匂いなのか…。
自分が何者なのか彼らに説明する余裕なんてなかった。同じように苦しむソルや、動揺しているアストレを冷静に観察している自分と、その奥に見える他の人物に恐怖で震える自分がいた。
『さあ、顔をあげて』
だが、幻聴なのか、幻なのか。声を頼りに顔を上げると月明かりに照らされ輝いている人がいた。
「おにぃ…さ、ま…」
どれだけ記憶が混じりあい、大混乱の中にいようと、義兄を一目見ただけで力が湧いてきた。恐怖に震えた体もこの強い吐き気もいつの間にか感じなくなっていた。
義兄のもとへ。
この悪魔のような人物たちから。地獄のようなこの状況から。全てから逃げ出して、彼のもとへ行きたかった。
『大丈夫だよ。もう大丈夫だから』
あの時のように優しく抱きしめて、頭を撫でながらそう言ってほしかった。
思うようには体に力が入らない。けれど、レイからもらった綺麗なドレスを引きずりながら、見様見真似の匍匐前進で、それでも懸命に前へ前へと進む。懐かしい二人を後ろに置いて、彼らと言葉を交わすことなく、ルナは愛する人のもとへ向かっていく。
「お前!ソルに…。ソルに何をしたんだ!」
アストレの悲痛な叫び声に、ルナは一度手を止め後ろを振り向く。不格好だが、なぜか彼の声を無視してはいけない気がした。美しく銀灰色に光る瞳と目が合った。その目からとどめなく涙があふれ出している。
- やっぱり、泣き虫は治ってないのね
声は出なかった。だが、アストレの姿に少し安堵して微笑む。大丈夫、何故かそう口パクで伝え、再度光輝く義兄の方へと手を進める。
アストレはルナの表情に一瞬しり込みしてしまった。なぜ誘拐されるかもしれない女が、殺されてしまうかもしれない女が、恐怖の中でそんな優しい顔を自分に向けるのか…。そして、”大丈夫”とはいったい何のことなのか。男にはルナの感情も気持ちも理解することができなかった。
- 安心して、私はあなたたちの敵ではないの…。むしろ…
義兄の方へ泥だらけで向かいながら、ルナはアストレに心で伝える。
彼女はもう何が何だか分かっていなかった。11年前の出来事と現実が混沌と混ざりあっている世界にいるのだから…。
パカパカ パカパカ
遠くから馬の蹄の音が聞こえて来た。
カタカタ カタカタ
加えて、馬車のタイヤの音もする。誰かが近づいてきている証拠だ。
「攫うだけのミッションだったはずなのに…」
アストレはその音を耳にし、ルナから視線をあげ遠くのものを見つめる。もう、彼の瞳には絶望しかうつっていなかった。
「俺たちはここで捕まるわけにはいかないんだ」
その声には焦りの色が見えた。そして、無言で鞘に納めていた黒く血塗られた剣を抜く。
「人殺しなんてしたくなかった。でも、これしか俺たちが助かる道はない…」
「おにいさ…」
あとほんの少しだった。レイのもとまで…。
突然、背中に鋭い痛みがさす。だがその痛みが何なのか考える間もなく、すぐにくるりと裏返される。
目の前に現れたのは愛しい義兄ではなかった。苦痛に顔を歪めたアストレだった。
「アストレ…?」
「ごめん、もう痛くしないから…。次は一思いで貫くから…」
どういう意味か分からず、再度アストレに声をかけようとした時だった。
彼が再度剣を高く振りかざし、勢いよくそれを振り落とした。
胸に鋭い痛みが落ちたのもつかの間、温かい匂いと液体が今度は体を蝕み始める。
「悪魔の子だから。こうなってもしょうがないんだ」
バタバタと男の去る足音。
ガタガタと馬車の近づいてくるタイヤの音。
「ルナ!」
遠くで自分の名を呼ぶ声がする。
耳鳴りがひどくて、誰の声かは分からなかった。
何故か瞼も重たい。
「ルナ!!」
あぁ、最期に貴方に会いたい。
貴方に触れたい。
せめて、貴方に思いを伝えさせてほしい。
「ルナ!!!」
誰かに抱きしめられる。
ゴツゴツした体。誰だろう?
体温も匂いも何も感じない。
懐かしさも何もない…。
「おにいさま…」
レイ・フローレンス
決して結ばれることのない大好きなお義兄さま。
ルナは真っ暗な闇の中でその言葉だけを落とす。
お義兄様…今までありがとう。
不躾な妹でごめんなさい。
そして許されるなら…
手紙に添えてではなくて…
直接自分の口から…
愛しています
ルナは最期に脳裏に浮かんだ、ただ一人の愛しい人に思いを告げる。
この声が届いたかどうかなんてもう分からない。
胸にバラと鷹の紋章が刻まれた剣を貫通させられたルナ・フローレンス。彼女はこうしてこの世の幕を閉じたのだった。




