魔物の襲来とルルフゥの力
「ふう、こんなものか……」
ベッドの脇の椅子に腰かけてようやくひと心地着いた。
俺のベッドには先ほど拾ったルルフゥと名乗った子どもが眠っている。
傷ついた部位周辺を軽く触れて確認したが、どこかが折れている様子はなく、擦り傷も痛々しくはあるがどれも深くはない。
傷口に雑菌が入らないように清潔な水でしっかり洗い流し、火照った額は濡らした布で冷やしてやる。おかげで少しは落ち着いたのか、その表情は先ほどよりも幾分和らいでいるように見えた。
「あんな所で倒れているなんて、なにか訳アリなのかねえ……」
俺の視線の先では、ルルフゥの頭に付いた羽耳が呼吸に合わせてピョコピョコと動いていた。飾りだと思っていたそれは、どうやら本物の体の一部らしい。
ということは、この子は人間ではない。
異種族か……こうして目の当たりにすると、ここは本当に異世界なんだなぁと改めて実感してしまう。
「っと、のんびりしている場合じゃないな」
なにせここは異世界で、しかも森の中。薬もなければ病院もないのだ。
高熱が下がらない以上、まだまだ予断は許さない。
「かなり汗をかいていたようだし……怖いのは脱水症状だな」
という訳で、スポーツドリンクでも作ってやろう。
スポーツドリンクは水と砂糖と塩、それにレモンがあれば簡単に自作できる。
ありがたいことに材料はほぼ揃っている。レモンだけは庭の柑橘で代用しよう。多少風味は変わるだろうが問題ない。
「おっと、柑橘を切らしていたな」
あらかじめ摘んでいたものは全てジャムに加工していたので、改めて採ってこなくてはならない。
ついでに濡れ布を替える用に冷たい湧水も汲んでこないとな、と考えていたちょうどその時だった。
「なんだ、この臭い……?」
庭に出て数歩のところで、不意に強烈な臭いが鼻をついた。
汗を煮詰めたような、それでいて生臭い。爺ちゃんと山歩きをした時に一度嗅いだことがある。
あれは近くに熊がいた時の事で……
そう、これは獣臭だ!
「ブルグオォォォォォォォォォォ!!」
気が付いたと同時に、空気を震わすような咆哮が響き渡る。
音の方向に視線を向けると、庭を仕切る柵を踏み倒したその場所に、太く鋭い牙をたたえた大猪が立っていた。
「おい、おいおいおいおい!」
前の世界で見知っていた猪とは明らかに違う、軽トラックほどのサイズのそれは全身から殺気をみなぎらせている。
そうだよな、なんで気づかなかったのだろう。ここに来る馬車での道中、武装した兵士や冒険者達を見ていたじゃないか。
戦時中でもないこの国で武装した者達が行き交う理由、そんなの簡単だ。日頃から身を守る必要があるからだ。
何から?そんなの決まっている。
「ま、魔物……!」
震える声に答えるように、大猪がゆっくりと見せつけるように地面をかく。
このまま突進されたら、俺の身体はひとたまりもない。
「く、来るなよ……」
柑橘を摘むために持ち出した小さな枝切ばさみを構える。
こんなもので対抗できるとは到底思えないが、少しでもけん制しておきたい。
どうしたらいい、まだこいつが様子見をしている間に家の中まで一気に駆け戻るか。
……いや、駄目だ。中にはルルフゥがいる。
この化け物を家の中に誘い込むような真似は出来ない。
じゃあ全力で逃げるか?一体どこへ?どうやって?
逡巡している間に、大猪は俺をどう料理するか決めたらしい。
ブルルル……と鼻を震わすと、俺に牙を向けて一気に地面を蹴った。
(あ……終わった)
咄嗟に目を瞑った闇の中で、俺はどこか冷静にそんなことを考えていた。
大猪に轢かれて死ぬなんて、元の世界にいた頃の俺は夢にも思っていなかった。
夢か……そう、これはそもそも夢なのかもしれない。
勇者召喚だの異世界転移だの、web小説の読みすぎでおかしくなっちまっていただけなんだ。
ほら、その証拠にいつまで経っても衝撃どころか痛くもかゆくもない。
そう、やっぱり夢だ。
目を開ければ、きっと目の前にはアパートの天井があってさ……。
「あ、あれ……」
薄っすらと目を開ける。
身体は相変わらず同じ場所に立っていて、全身には痛みも衝撃もない。
そして恐る恐る顔を上げた俺は、目の前の光景に絶句した。
俺の眼前に、あの大猪が静止していた。
赤く血走った眼で俺を睨みつけていたそいつは、数秒後にドスンと砂煙をあげてその場に倒れ込む。
直後に「ブフゥゥゥゥゥゥゥ」と大きく息を吐き、何度か痙攣をし、そして大猪は絶命した。
倒れ込んだ大猪の首からは勢いよく大量の血が溢れだし、地面にゆるゆると大きな染みを作っていた。
「え……?」
大猪の傍らに立っていたのはルルフゥだった。
玄関先に立てかけておいた鉈を手に、緑の靄のようなオーラを纏いながら静かに佇んでいる。
そうしてゆっくりと俺の方を向くと、フッと糸が切れたように倒れ込んだ。
「あ、危ないっ!」
その細い体を慌てて抱きとめる。
無理をして身体を動かしたせいで気を失ったのだ。その身体は相変わらず熱で火照っている。
「助けてくれたのか……?というか、あの力は……って、今はそれどころじゃないな」
状況に頭が追いつかないが、今はルルフゥの介抱が最優先だ。
ベッドにもう一度寝かせた後、俺は再びあたふたと奔走するのだった。
※
「ふぅ、ひとまずこれで良しか」
すぅすぅと寝息を立てるルルフゥを前にようやくひと安心できた。
先ほど少しだけ意識を取り戻した際に手製のスポーツドリンクを飲ませ、それからキンキンの湧水を含ませた布を額に乗せてやった。
やれるだけのことはした、後はルルフゥの回復力を信じるしかない。
ふと窓の外を見ると、いつの間にか日が傾き始めていた。
「っと、夜になる前にあれをどうにかしないとな」
庭には未だに大猪がそのまま転がっている。
放置していたらその臭いに誘われて新たな魔物がやってくる危険があった。今日のうちにどうにかしないといけない。
恐る恐る大猪に近寄ると、当然だが完全に事切れていた。
「死んだのは大体一時間くらい前……ギリギリいけるか」
こんなにも見事な大猪の肉を、このまま腐らせるのはあまりにも勿体ない。ここは美味しく頂いて供養することにしよう。
勿論俺自身に獣の解体経験なぞないが、猟友会にも属していた爺ちゃんはたまに獲ってきた鹿や猪を庭で解体していた。
幼い俺は気味悪いからといつも遠巻きに見ていたんだが、やってることはなんとなく頭に入っている。見様見真似だがここはやるしかないのだ。
大猪の身体を確認すると、ぱっくり開いた首筋から溢れた血が、地面にたっぷりと吸い込まれている。
頭を横に、尻を突き上げた姿勢で事切れていたおかげか、充分に放血されているように見えた。下処理としては申し分ない。
後は足にロープを括り付けて湧水まで引きずっていき、そこで作業をすることにする。
よく研いだナイフで腹を割り、内臓を傷つけないように注意しながら全て抜く。なかなかグロテスクな光景だがぐっと堪えて作業を進める。
猪はモツなんかも美味いようだが、残念ながら扱う知識がないので今日のところは廃棄だ。
腹の中に残った血を充分に洗い流しつつ、湧水で身体に残った熱を取ってやったところで日が完全に落ちてしまったので本日の作業は終了。
猪は他の獣や虫に荒らされないように物置小屋の中に吊るしておき、内臓は血がしみ込んだ土と一緒に家から離れた場所に埋めておいた。
残りの作業は明日の朝にでもやるとしよう。
慣れない重労働にヘトヘトになりながら部屋に戻ると、ベッドでは相変わらずルルフゥが眠っている。
先ほどまでは高熱で茹で蛸のように真っ赤だった顔色だが、今は随分落ち着いていた。
そっと頬に触れてみれば熱はかなり和らいでるようだ。回復が早いのは手当てのおかげか、それともルルフゥが若いおかげだろうか。
俺みたいに20代半ばを超えると一度熱を出したらしつこく引きずるんだよなぁ……。
とにもかくにも、ほっとしながら額の濡れ布を替えてやり、枕元にスポーツドリンクが入った水差しを置く。
そうして寝顔を見守っている内に、俺もいつしか深い眠りに誘われるのだった。
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