邂逅
(1)
体中に響く鈍い痛みと共にクラウスは目を覚ました。背中に感じる壁の冷たさ、後ろ手に縛られ動かない腕、冷たい空気。お世辞にもいい目覚めとは言えない。ゆっくり開かれた目に映ったのは殺風景な部屋と、ガタイのいい男と黒のショートヘアの仮面をつけた人物であった。2人は腰掛けて机上で何かを話していたが、直ぐに彼が目覚めたことに気がつき、近づいてくる。無精髭を生やし、煙草をくわえた男が声をかけた。
「目が覚めたか」
「……ここは……」
「ここは、レジスタンスの基地だ」
レジスタンスの基地と聞いてクラウスは驚愕した。男の言うレジスタンスとは、聖ヨハネ騎士団に反抗する組織である。驚愕すると同時に絶望した。クラウスは騎士団の制服を身にまとったままであったため、彼が団員であることは周知の事実であり、最悪ここで殺されかねない。冷や汗が頬を伝う。
「こんなちんけな街中で隊長様が倒れてたもんで驚いたよ」
「何故俺が隊長だとわかるんだ」
騎士団に入っていれば制服は全員同じ。隊長であろうがなんであろうが変わりないものだ。体調だと判断がつくはずがない。
「覚えていないのか?去年、おまえのところの部隊とドンパチかましたんだがなぁ」
「……貴様の顔に覚えはないな」
「それもそうか。俺がお前を見たってだけだしな」
男は椅子を持ってきてドサッと腰掛ける。隣の仮面の人物は相も変わらず物静かで、こちらをじっと見つめるだけだ。
「さて、お前には聞きたいことが山ほどある訳だが……」
「いいだろう」
まだ何も聞いていないのに、と男はくわえていた煙草を落としそうになるぐらいに拍子抜けした。見るからに生真面目で、隊長であった人間があっさり了承するとは夢にも思わなかった。髪をくしゃりとして、クラウスを見やる。
「そっちで何か一悶着あったみたいだな。そうか……これは運がいいと言ったほうがいいのかな」
苦笑いを浮かべ、煙をふかした。
それからの尋問はスムーズであった。不気味な程に。どんな質問にも答える機械のように淡々としていて、しかし時折怒りが彷彿して熱が入る。あまりに素直で、あまりに情緒不安定な有様に男は怪訝そうな表情を浮かべていた。質疑応答はついに最後になる。
「予定していた質問はこれで終わりだ。けど、ひとつ聞かなくちゃあならないことがある」
「なんだ」
「お前、昨日何があったんだ」
隊長である人間が傷だらけで道端に倒れている状況を見て疑問を抱かない方がおかしいのだ。その質問が投げかけられることは必然であった。クラウスは初めて俯いた。話しても構わない。しかし、信憑性がない。話したところで信じて貰えると限らず、最悪の場合揶揄っていると思われてもおかしくはない。答えなかった場合も、男の機嫌を損なう恐れがある。この場での最善策は目に見えている。
クラウスの長々とした返答は男を悩ませるには十分であった。神は世界を滅ぼそうとしており、自分は悪魔と契約して時を遡った結果、友と決別し怪我を負った。そういった話を直ぐに信じられる人間は非常に珍しいであろう。男は仮面の人物を見る。仮面の人物は壁にもたれたまま、初めて声を発した。
「嘘をついていようが、ついてなかろうが別に関係ない。嘘なら殺せばいい」
彼女の返答を予想していたのか、男は苦笑した。
クラウスはこの時初めて仮面の人物が女性であると分かった。服装も体型も中性的で髪もショート、黙っていれば男性と勘違いしてしまう。しかしその事実はクラウスには小さなことである。彼女は殺すと言った。しかし、逆に考えれば自分は嘘をついていないため、殺されることは無いだろうとも解釈できる。何も動じる事はない。その様子に男も察しがついたようである。
「大体の事情はわかった。で、お前はこれからどうするんだ」
「さっきも言っただろう。俺は神を殺さなくてはならない」
「あぁ、そうだ。そうなんだが、お前自身はどうするんだ」
質問の意図がわからず、クラウスは男を凝視する。男は手に持った煙草を灰皿に置き、立ち上がった。クラウスの目の前まで来たかと思うと、屈んで彼の胸ぐらを掴んだ。突然の衝撃に体の傷が鈍く痛む。
「お前自身の責任はどう取るのかってきいてるんだ」
静かで、しかし怒気のこもった声。見開かれた瞳を少し見て、逸らすことしかできなかった。
「お前は今までどれだけの人間を傷つけた?殺した?その中に罪のない人間は何人いた?言われのない罪を押し付けられて、苦しんだ人間は何人いた?言ってみろ、お前自身の罪の数を言ってみろ」
「……あの時は…………」
かつて魔女、悪魔と呼び殺してきた人間達が脳裏に過ぎった。数多なる人間をこの手で切り捨ててきた。その中には悪人と呼ぶべき人間もいたのだろうが、ただその血筋を引いていて、実害のない人間もいたことは事実である。
けれど
「……あの時は、彼らは化け物にしか見えなかった。正直、今でも……」
そう教えられてきたのだから仕方がない。彼は心のどこかでそう呟いた。これまで己の常識として認識していたものが突如否定された。裏切った神の教えなど間違っているに違いない。だから彼らは罪がないと認識し直さねばならない。それが簡単に出来れば自分はここまで言葉に困る必要もなかったということは、彼自身が1番理解していた。昨晩魔女と呼ばれた少女を殺さずにいたのも神に対する反発心のひとつであって、そこに完全なる善などなかった。彼女はただの少女である。
わかっている、わかっているとも。けれど、自分が信じていたものが間違いであると認めるにはまだ時間が足りない。
「悪魔に魂を売り払って、神を殺したところで取り返しがつかないと言われるのは分かってる。でも、分からない。分からないんだ。俺が悪人であることは分かる。何かを果たさなければならないことだって分かっている。けど、俺はこれ以上どうすればいい?」
苦渋を浮かべた彼の顔はあまりにも情けないものであった。この世に絶望し切った暗い瞳に男が映る。
「じゃあ俺が死ねといえばお前は死ぬのか?」
彼に同情の余地はない。優しい言葉をかける必要などない。男は冷たく言い放つ。
「……今は、まだ死ねない。けど、神を殺したあとに死ねというのであれば俺は」
「身勝手な奴」
掴んでいた手をぱっと放し、男は蔑んだ。どうしようもない、手の施しようのない手遅れな物を見る目である。
「……お前一人死んだところで、世界はなぁんにも変わりゃあしない。日照時間が伸びるだとか、海が干からびるだとか、環境が綺麗になるだとか、空が白くなるだとか、世界が平和になる、だとかなぁんにも起こらない」
お前の命など何の責任にも値しないと遠回しに言われているようだった。お前はちっぽけで、何かを動かす力がある訳でもない。事実を突きつけられた痛みが胸に響いた。
沈黙。そこから誰も発言する気配がない。たたただ時間が流れ、無を過ごす空間に成り果てた、のだが
ピンポン
インターホンがそれを打ちやぶった。男は溜息をつき、玄関の方へ歩き出した。玄関から会話が聞こえる。来客はどうやら女性のようだ。それも2人。先程の空気とは一転して朗らかな雰囲気が向こうの方で流れている。しかしそれは突然途切れて、その代わりにこちらに向かって走ってくる音が近づいてきた。部屋の扉が勢いよく開かれ、少女が顔を露わにする。
そこに立っていたのは矢野 雪乃であった。




