おはよう、世界
(1)
爽やかな朝だ。カーテンを開ければ暖かな日差しが入り込み、爽やかな青空が広がっている。小鳥がさえずり、とても気持ちのいい朝だ。
……目覚め以外は。
クラウスはうめき声とともに目覚めた。意識がハッキリしてくると、電源が入ったように起き上がる。寝巻きの前を開け、胸に手を当てる。滑らかな肌だけが感じられ、異常はなかった。掛け時計を見れば時刻は朝の7時。いつも自分が起床する時間である。スマートフォンを見ると、日付は先程から半年前であった。あの惨劇は夢であったのではなかろうかとも思える。しかし、夢でないと気づくにはそう時間はかからなかった。右手の甲に浮び上がる紋様が現実であると主張している。部屋にため息が響く。やってしまった、とうとう忌むべき悪魔に魂を売ってしまったのだと背徳感に苛まれる。しかし、神が、親友が、父が、騎士団が自分を裏切り、世界を消し去ったことも事実。この行動は間違っていなかったのではないかと同時に思う。あの時は怒りに任せて行動していたが、頭の冷えた今の彼は非常に冷静に物事を考え、苦悩することになった。ともかく、なさけない寝間着姿でずっと居る訳にも行かない。制服に着替え、食堂へと足を運んだ。
この時間はほかの団員にとってはまだ早い。当然、食堂で食事をとる人間は数える程度しかいなかった。食券を購入し、カウンターで定食を受け取る。席について、鮭定食にありついた。味噌汁の温かさが体を落ち着かせる。すると、上の方から声が降ってきた。
「おはよう、クラウス」
見上げるとノアが机を挟んで同じものを盆に乗せて立っていた。
ーーー心臓を貫く彼がフラッシュバックする。
この美しい男が、自分を確かに槍で貫いたのだ。柔らかい声を発する彼が、そうしたのだ。
呆然とするクラウスにノアは心配そうに再び声をかける。
「クラウス?どうしたの?」
「あ、あぁ、なんでもない」
なんとも歯切れの悪い返事であったが、ノアは気に留めないで向かいの席に座る。ノアが食事の間、何か話をしていた気がするが、クラウスはあまり覚えていない。恐らく空返事で話は進んでいた。他愛もない会話が頭に入ってこない。いつの間にか空になった皿を2人で戻しに行った際、クラウスは無意識で質問する。
「ノア」
「何?」
「……ノアは…………」
突然冷静さが戻り、言葉が詰まる。ここで、イエスと答えて貰えたらどんなにいい事か。だがらノート言われればまた裏切られるあの感覚にまた襲われることになる。それはクラウスが勝手に自ら地雷を踏みに行っているようなものであった。ノアはただクラウスの言葉を待っている。沈黙。クラウスはようやく言葉にする。
「……鮭定食、美味かったな」
「うん、美味しかったね」
満面の笑みを浮かべてノアは答える。的はずれな質問をしたクラウスはノアと目を合わせることが出来なかった。クラウスは適当に何かを口走らせて、足早にその場を立ち去った。あの場にいると、息苦しくて今にも死んでしまいそうだった。頭は相変わらず矛盾した思考が巡回している。
「あ、お兄ちゃん!」
マリアの呼ぶ声で我に返る。目の前からマリアが駆け足でやってきた。マリアはきっと神の思惑については知らないだろう。何の確証もないが、なんとなくそう思えた。クラウスは唯一の味方であり、よき家族に出逢えた安心感から、笑みが零れる。
「おはよう」
「相変わらず朝早いんだから」
一緒にご飯食べたいのに、と小声で呟くが、クラウスの耳には入らなかった。しかし、クラウスの次の言葉はその呟きが聞こえているのではないかと思えるものである。
「マリア、今日の昼、一緒に食べよう」
「え?う、うん!」
予期せぬ言葉にマリアは歓喜する。しかし、それも一瞬ですぐに後ろを向いてしまった。表情が緩んでしまう所を兄に見られたくなかったのだ。
マリアとランチを共にする約束したのはクラウスにとってはつい先程のことで、もしかすると今後共にすることが出来なくなるかもしれない予感がしていたからだった。
(2)
結局、今日1日いつも通りの日常を送り、夜になっていた。マリアと共にしたランチは幸いにもオムライスであったため、クラウスは安堵する。街中を巡回したり、ミーティングをしたり、いつも通りの日常であった。 当たり前の日常。それが今己にとってどれほど貴重なものか、今の彼には十分理解することが出来た。ただ、確かに自分が体験した世界滅亡の日、友の裏切りがこの先に待ち構えていると思うと胸が苦しむ。結局ノアには何も聞くことが出来なかった。あの美しく世界を写す瞳を前にしては、クラウスは開口することができない。そのおかげで彼の中にモヤが残ったままで、眠ることも叶わない。クラウスは夜の街でバイクを走らせていた。特に何か目的があるわけでもなく、ただ走るだけ。その中で明日こそはノアに尋ねようと、どう尋ねようかと策をねっている。今の時間はほとんどの店は閉店し、人通りも少ない。静かな街で鳴り響くバイクの走行音はさぞ響いていることだろう。
しかし、それ以外に響く音が存在した。この静けさの中、人が揉め合う音、車のバンが開く音、それに加えて視界の端に映る黒いバンと、男二人と少女が2人。すれ違う一瞬、クラウスは少女と目が合った。ほんの僅かであったが、クラウスはただならぬ状況であるということと判断し、急ブレーキをかけてUターンをする。その頃にはバンは向こう側へと走行し始めていた。クラウスはスピードを惜しまずバンを追う。大型ではあるが、大型車よりは小回りきくため、スピードが出しやすい。距離が離れることの無い逃走劇がしばらく続いた後、車は突然停車する。それに合わせてバイクも走行を停止した。中から現れたのは先程の男二人。二人とも平均的な体つきで、威勢がいいかと思えば、そうでもない。拳銃を持った手は小刻みに震え、腰もひけていた。
「貴様ら、何をやっている」
「な、な、なんだっていいだろう……!」
「動くなよ……、動いたら、撃つからな!」
その声すら震えていて、拳銃で威嚇する。クラウスには悩む必要がなかった。クラウスが駆け出し、それに驚いた男ふたりは発砲しようとする。しかし、それを彼は許さない。片方の男の頭を前から掴み、そのまま隣の男の頭へとぶつける。頭に強い衝撃が走った2人はそのまま意識を失った。
車の扉を開き、目に入ったのは手足を縛られ、口を塞がれた少女であった。怯えた瞳をこちらに向けて、体をふるわせている。彼にはその少女に見覚えがあった。ブラウンの腰まで長い髪、翡翠色の瞳。あの時自ら殺した少女は痩せこけて、死んだ瞳をしていたが、クラウスには理解出来た。あの少女である。本来、このまま少女は連れていかれ、幾度も悪魔への貢物として魔力を搾り取られていたのだろう。この少女は魔女である。殺さねばならない。だが、神への忠誠が揺らぐ今の彼には、その選択肢を選ぶことは出来なかった。拘束を解いてやり、車から降ろす。それから数秒ほど、沈黙が走る。魔の者は殺さねばならないと教えられてきた彼にとって、複雑な心情であった。本来ならこの男達も殺すべきだ。だが、今殺して報告したとしても、何故目的がわかったのか詰問されることは目に見えているし、それは未来を知っているからだと言っても到底信用されることは無い。これでよかったのかと悩ましく居ると、突然少女は泣き出した。
「ど、どうした。どこか痛むのか」
「い、いえ……違うんです……ただ……怖くて……でも助けてもらえて……嬉しくて……」
「なら、どうしてこんな時間にいたんだ」
「先生が……来なさいって……」
目を擦りながら涙を流す少女。この少女はただの少女なのだ。魔女である以前に、無知で無力な少女なのだとクラウスは理解した。おそらくこの男のどちらかが少女の教師で、その男が少女を騙して誘拐しようとしたのだろう。違和感のある呼び出しに少女は疑問を抱かなかったのか。クラウスは懐からハンカチを取り出し、少女に差し出した。
「ありがとうございます……」
「君の住所を教えてくれ。家まで送ろう」
バイクのエンジンをかけて、腰掛ける。少女はでも、と声を出すが、クラウスの早く乗れと無言で向けられた瞳に押し負けて後ろに座る。少女から住所を聞き、バイクに搭載されたカーナビに住所を打ち込み、ハンドルを握った。
「しっかり掴まっていろ」
クラウスのその声で少女は、おずおずと腕をクラウスの腰に回した。それを確認するとバイクを走らせる。魔女を自分の背後に座らせている。それを許す自分が信じられないという気持ちは確かに存在した。そのせいか、少女とバイクで走る時間が長く感じられる。
少女の家の前に到着し、少女を降ろした。少女は深々と頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました……!あの、お名前をお聞きしたいんですが」
「……いや、君が知る必要は無い」
そう言い残すとすぐさまバイクを発進させた。後ろから少女が呼び止める声が聞こえた気がした。
(3)
基地に戻り、自分の部屋へ行く途中、クラウスを呼び止める声がした。
「今日は夜更かしなんだね、クラウス」
「ノア……」
寝間着姿のノアであった。まさかこの時間に出くわすとも思っていなかったために、少し動揺してしまったが、直ぐに平静を取り戻す。
「お前こそ、こんな時間まで起きているなんて珍しいな」
「うん、ちょっとね。クラウス、今話できる?」
「話?あぁ、まぁ」
よかった、と微笑み歩き出すノアにクラウスは黙ってついていく。話とはなんだろうか。今話さねばならないことなのだろうか。様々な疑問がクラウスの中で渦巻いている。気づけば中庭にたどり着いていた。月光が差し込み、昼間とはまた違った神秘的な雰囲気が醸し出されている。
「話って一体なんなんだ」
「クラウスこそ、何か話したいことがあったんじゃない?」
読まれていた。それも当然だろう。付き合いはかなり長い幼なじみなのだから、それぐらいは察することが出来てしまうのだ。話す権利が自分に与えられたが、なかなか口を開くことが叶わない。
「クラウスらしくないね。そんなに言いづらい話?」
「……いや、そういう訳じゃ……」
嘘だ。言いやすいはずがない。友が裏切ったという事実を自分が問いかけることによって確信に変えてしまう恐怖がクラウスを支配していた。これを軽々しくできてしまうのは、余程仲が悪いか、その程度の関係であったという事だ。そんな彼を見かねたのか、ノアは先手を打った。
「じゃあ、僕から話そうかな。ねぇクラウス。聞きたいことがあるんだ」
「な、なんだ」
いつもの調子で話すノアと目を合わすことが出来ない。歯切れの悪い返事であったと自分でもわかる。一呼吸を置いて、ノアは問いかけた。
「クラウス、君は僕を裏切ろうとしてるのかな?」
背筋が凍る。驚いて顔を上げればノアがなんということも無い顔でこちらを見て、返事を待っている。確信を着いた質問であった。まるでこちらの思惑がバレているかのような質問であった。
「正直に答えて欲しいな。僕と君の仲じゃないか。隠し事なんて水臭い水臭い」
そう言ってノアは笑った。どうして知っている?いや、何を知っている?そういった疑問よりも先にクラウスの口は別の言葉を紡いでいた。
「それは……こっちの質問だノア。お前は……」
「僕が君を裏切るってこと?いやだなぁ、そんな訳ないよ。僕はいつでも君の味方さ」
ふとクラウスの手を掴もうとしたノアの手は直ぐに弾かれた。クラウスからすれば、掌を返されたような気分であり、憤っていた。
「お前は、何故俺が裏切ると思った?答えろ」
「神様が僕にそう仰ったからさ」
ノアは天を仰ぐ。月光の中に立つノアの姿は天使のように美しく、人ではないのではないかと思わせる魅力があった。
「クラウスが悪魔と契約して、神様を殺そうとしていると聞いたんだ」
「なぜそれを」
「神様は全知全能だから。君が一番よくわかっているはずだよ」
ノアが神と言葉を交わしたとでも言うのか?それともただの狂言なのか?
ひとつの疑問が解消されたと思いきや、新たな疑問が浮かび上がってくる。
「どうやら神様は僕のことをたいそうお気に召したらしくてね、昔からよく語りかけてくるんだよ。騎士団に入ってからは、毎晩ここで話をするんだ」
当たり前のように話してくるが、実際そんな訳はない。神に気に入られた人間が目の前にいるということがクラウスには信じ難いことであった。だが、この話が真実であるならば、今回の件の疑問が繋がった。
「……だから、お前は俺を裏切ったのか。神が世界を滅ぼせと言ったからお前は、俺を裏切ったのか!」
ノアの胸ぐらを掴む。共に過してきて初めての経験だった。ノアに対して怒りなど抱いたことなど一度もなかったのだ。ノアは常に自分の味方であり、良き友である。そう信じてきたからこそノアに対して怒りを抱くこともなかったし、何かあればきっと自分が悪かったのだろうと完結させていた。ノアは胸ぐらをつかむ腕を剥がすわけでもなく、手を添えた。
「誤解だよ。僕は君と新しい世界で生きていたいと思っているんだ。汚い人間ばかりの、こんな汚れた世界、僕達には似合わないよ」
酷く、酷く手が冷たい。これまで感じたことの無い友の冷たさに身震いした。ノアには不満があったのだろうか。この世界に対してなにか大きな不満があったというのか。クラウスはノアを突き放した。
「そんなのエゴだ!他の人間はどうなる!全ての人間には幸福に生きる権利がある!」
「……嗚呼、クラウス。やっぱり君は優しいね。優しいから一緒に来てくれないんだ」
いつか聞いた言葉。きっとその言葉が引き金であった。ノアから向かってくる槍をクラウスは気づけば剣で弾いていた。使い慣れた神性武器。友の本性を知ってしまった今では神々しい光も忌々しく見えた。
「さすがだね。やっぱり一筋縄ではいかないかな」
ノアは槍を構え直す。クラウスもまた剣を構えた。友と稽古で武器を交わすことは何度もあった。しかし、確かな敵対心を持って武器を交わすのはこれが初めてである。
2人はほぼ同時に駆け出し、武器を打ち合った。鈍い音が鳴り響く。実力はほぼ互角に見えるが、そこには確かな実力差が垣間見えていた。みるみるうちにクラウスの体には細かい傷が増えていく。ノアの体にも傷はあれこそ、クラウスに比べれば大したものではなかった。いつの間にか足にできていた傷がクラウスの動きを鈍らせる。ノアはそれを見逃さず、槍をついた。クラウスは力を振り絞り、体を横に逸らすが、脇腹を槍が突き刺した。白い制服に赤い血が広がる。
「ぐ……っ!」
「ねぇクラウス。もう一度考え直さない?僕と一緒に行こう」
手を差し伸べるノア。それは落ちぶれた人間を救い出そうとする神の使いに見える。一瞬、頷きそうになるが、クラウスはそれを止めた。
「断る……」
「いいの?君は居場所を無くしてしまう。神様への忠誠心が強い君には辛い選択だと思うよ」
己の居場所がなくなる、それは確実であった。そうなったら、自分はこれからどこで過ごせばいいのだろうか。未知への恐怖がクラウスを包み込んだ。
「今ならまだ間に合う。さぁ」
優しい声色とともに歩み寄るノア。あの手さえ取ってしまえば救われる。だが、その手に一度裏切られた傷はそのようなものでは癒えることは無かった。
「俺は……、俺は……!ここを抜ける!いつかお前達をなぎ倒し、神を殺す」
「……そっか、残念」
ノアが槍を構えると同時に、クラウスは踵を返し、駆け出した。ノアはそれを眺める。槍を消し、ノアは苦笑いをした。
「背中をむけるなんて、やっぱり君らしくないや」
走る、走る、走る。
エレベーターを待っている時間はない。階段をひたすらに駆け下りる。段をひとつ降りるごとに脇腹を中心に前身の傷が鈍く痛んだ。彼の走った後には赤い跡が残っている。今はここを出なくてはならない。それがクラウスを掻き立てた。目的地である駐車場へと辿り着くと、すぐさまエンジンをかけて発進した。
バイクに乗ったところで傷の痛みが収まるわけでもなく、いつもよりも安定しない運転になっている。どこでもいい、今はとにかく遠くへ逃げて、傷を癒さねばならない。
気づけば見覚えのない町中にいた。とても治安がいいとは言えないような街である。そこらにはホームレスや不良等がちらほら屯している。逆にここが身を隠しやすいかもしれない。よく見ると入り組んだ街の構造をしており、至る所に裏路地が見られる。建物も高いものが多く、身を潜むには丁度いい場所かもしれない。どこか宿を取ろうかとも思ったが、万が一のことを考えると、周囲の人間を巻き込んでしまう恐れがあった。クラウスはバイクのエンジンを切り、押して裏路地へと入る。付近には人はおらず、見つかる恐れもないと思えたからだ。奥の方まで行き、バイクを置くと、壁にもたれ、力を抜いた。未だに全身の傷が痛み、体が悲鳴をあげている。傷の手当をしなければならない。それは分かっているのだが、いつもならもう既に就寝している時間であるし、少女の救出から友との戦闘が立て続きに起こったことで、クラウスの体にはかなりの疲労が溜まっていた。クラウスの瞼は既に言うことを効かなくなっていて、気づけば眠りについていた。
それから暫くして2人の人間がクラウスの元へ訪れた。一人はダークブラウンの髪をオールバックにして、ワイシャツの上からベストを着た体つきのいいうっすら髭を生やした中年男性である。もう一人は黒髪の短髪で、黒のシャツに黒のズボン、黒のブーツに黒のジャケットという全身を黒で包んだ仮面の人物であった。男はタバコを口にくわえたまま、クラウスを見下ろす。
「こんな所に騎士団隊長様が何の用なんだか」
男がクラウスを、かつぎ上げるとそのまま歩き出した。その後を仮面の人物がバイクを押し、ついて行った。




