人間のエゴ
俺は改めて、サバの立場というのを痛感する。地域猫と言っても野良である。可愛がられているようで、誰にも守られない弱い立場の存在。サバが飼い猫ならば、こんな相談されることもなく治療してもらえた筈。
俺の中で半年のサバと過ごした時間が蘇る。網戸越しに目付き悪く見上げてくる顔。煮干しを貪るサバ。俺になぜかいつもイチャモンをつけてくるサバ……。仲良かったとは言えないが……車に轢かれたから、仕方がないと見捨てられるのか? 床にへたり込んだまま俺の心は怒り、哀しみといった様々な感情が渦巻く。
「サバを助けて下さい!
コイツの面倒はみます!
これからのコイツの責任を、俺がとりますから!」
隣にいたジローさんが何か先生に言おうとしているのを遮り、俺はそう言って頭を下げていた。
床にへたり込んでいた事もあり土下座のような体勢になっていた。しかし気にしてなんかいられない。医者がどういう表情をしていたのかは、頭を下げていたから分からない。俺は必死で助けて欲しいと医者に頼み込む。
「……分かった。でも助からないかもしれない。保障できんぞ」
医者はそんな言葉だけを返す。それでも、このままサバが生き残る可能性を消す事は出来なかった。
「トラちゃん立って、分かったわよ。貴方の想いは、もう充分伝わったから」
顔を上げると竹子さんが優しく俺に笑いかけていた。それで初めて、今いる場所が薮動物病院であったことに気がつく。
「待合室で待っていてね。今から治療するから」
竹子さんに優しく言われて、待合室へ促された。
待合室で言葉もなくソファーに座り込む。ジローさんは何も言わず俺の肩を叩く。ジローさんの体温に少しだけ緊張が解れるが、身体の震えが止まらない。ジローさんは抱きしめ俺の背中に手を回し落ち着かせるようにさすってくれた。
「ああいう言い方するけど藪さんは、優しい人で腕も確かだ。助からない猫に悪戯にメスを入れて苦しめる事はしない。だから助かる可能性はあるのだろう」
俺はぼんやり予防接種などのポスターを貼った壁を見つめながら頷く。先生の名前が藪で、藪医者であることを突っ込む元気なんて、今の俺にある訳もない。
サバは助かってくれるのか? 手術が成功したらどういう生活がサバに待っているか? サバにとって三本足で生きていくというのは、どうなのか? 辛くて余計な事をしたと恨むかもしれない。様々な思いが頭の中でグルグル回る。
「足を無くしても、サバに生きて欲しいと思うのは俺のエゴなのかな? ましては俺なんかに保護されて生きる事を、サバはどう思うのかな?」
横にいるジローさんにそんな言葉を漏らしてしまう。死んでしまうかもしれないという事は考えたくない。生きてくれることを前提に話をすることにしたが、ネガティブな内容になってしまう。
「どんな事も、エゴと言ったらエゴだ。
動物をペットにするのもそう。
血統書といったモノで動物の価値を勝手に決めるのも。品種改良して可愛い猫や犬をつくるのも。さくらねこの活動も。
全部、人間のエゴ。人間の都合で猫の価値を決める。生きていい動物と死んでも構わない動物が出来る。
野鳥だと助ける事も許されない」
ジローさんの意外すぎる言葉に思わず横を見ると憂いを秘めた青い目が俺を静かに見つめていた。
「でも、それをエゴで終わらせるのか? そうでない関係へと発展させるのかは、その後の君達の行動しだいでは?」
俺はその言葉に動揺して、言葉を何も返せない。外国人みたいなイントネーションの謎の相打ちを返しただけ。
「あとね、乕尾。猫は……人間の都合で振り回されているようで、猫はどこまでも猫なんだよ。
野良として生きていようが、飼われていようが。いかなる状況下でも猫らしく生きているだけ。そう言う動物だ。
マシロもそうだろ? 目が見えなくても、猫らしく猫として生きている」
マシロの事を頭の中で思い返した。目が見えてなくても好奇心は旺盛。声と僅かに見える動きでジローさんを一生懸命追いかける。ヌイグルミに猫パンチをくらわし手遊ぶ。陽だまりを弱い視力なりに見つけて丸くなり眠り気儘に猫らしく生きている。
子供を宥めるように、ジローさんは俺の頭を撫で目を細める。
「だからサバも、何処にいてもサバだよ。何をしていても、どんな状態でもサバだ。そう思わない?」
俺は言葉もなく、ただ頷いた。
ジローさんは俺が落ち着いたからか、ソファーから立ち上がり離れた。スマフォを取り出して電話している。アパートの住人に状況を説明していた。
暫くするとシングがやってきた。トレーナーと腰を紐で縛るタイプのパンツと上着をもって。気付いていなかったが、俺は血だらけのモノを抱きしめた為に血まみれの恐ろしい恰好になっていた。黒っぽいコートだがベットリとした液体で汚れている。ジーンズも同じ状態で、マフラーなんてもう血だらけでそれが乾いて固まりガピガピになっていた。さながらサスペンスドラマの犯人のような姿である。
汚れた服を脱いでビニール袋に入れる。濡らしたタオルで身体を拭いてから、シングの洋服を借りて着替えさせてもらった。
「アパートで皆、それぞれの神さまに祈っているから大丈夫だ。
世界の神様集団がタッグを組んでサバとトラを見守っておる。だから案ずるな、気をしっかりもて」
シングは俺にそんな言葉をかけ、俺の汚れた服を手に帰っていった。そして嫌になるほど重く遅い時間の流れる待合室に戻る。
ドアが開いて、手術が終わったのかと立ちあがる。開いたのは処置室とは違う部屋の扉で、柑子さんがモノを胸に抱いて立っていた。時間も時間なのでスッピンのようだ。いつもより幼く見えた。俺たちを見て柑子さんはニッコリと笑う。
「この子、大変な事になっていたのでシャンプーをしておきました」
俺にモノを手渡す。綺麗にフワフワな毛になったモノの暖かさに少しホッとした。
「モノ! お前は本当に大丈夫? 怪我はしてないのか? 痛い所はないのか?」
柑子さんにまずお礼を言うべきなのに、腕の中のモノの方が気になってモノの身体を確認する。本当に怪我をしていないのか? 元気なのか?
見た感じおかしい所はない。
「大丈夫ですよ」
顔を上げると、俺の視線より少し低い位置で、丸顔で丸い目の柑子さんが柔らかく笑っていた。
「コイツを綺麗にしてもらってありがとうございます。
なんか毛もホワホワになっている。良かったな可愛くなって」
俺はモノを抱きしめる。
モノはヌイグルミのように大人しい。自分の家族の事故のショックと、見知らぬ場所に連れてこられた緊張もあるのだろう。柑子さんは優しい表情で俺と同じようにモノを見つめ、宥めるように身体を撫でる。
「コイツはシャンプーとか慣れてないから大変だったのではないですか?」
柑子さんはフフと笑い首を横にふる。
「大人しくしていて、良い子でしたよ」
「血だらけの状態になっていたので、助かりました。ありがとうございました。お前もお礼を言えよ」
しかし俺の腕の中で固まっているモノがそんなカワイイ事をする訳はない。目を背けて俺の胸に顔を押し付けてくる。
カチャ
処置室のドアが開き、藪先生が出てきた。ドキドキとしながらモノを抱きしめ、俺はフラリと近付く。薮先生はムスッとした顔で『終わったぞ』と短い言葉だけを投げてきた。
サバは包帯を下半身に巻いた状態でグッタリとしている。包帯を巻いていてもある筈の所に足が一本ないのが分かった。それが何とも痛々しい。麻酔が効いているのか、声をかけても反応はない。
手術は終わったが体力の消耗も激しく予断を許さない状態。そのまま入院することになった。サバが小さく脆い存在に見える。俺は怪我をしていないサバの前足をそっと触る。肉球を触ったというのに何の反応もない。
夜も遅いということで、ついてあげる事も許されず俺たちは病院から追い出されてしまった。
モノを連れてアパートに帰ると皆は寝ずにスアさんの部屋に集まって待っていてくれていた。
手術が成功したことと、今サバは病院で入院している事を説明する。その事で少し安心したのか、それぞれの部屋に皆は戻っていった。
俺はモノを胸に抱いたまま部屋に戻る。珍しくモノも俺から離れない。俺はそんなモノを撫でながら、一緒の布団で眠った。




