フラスコの中の女
丸底フラスコの中に眠る彼女は、僕に夢を見せる。
君が、僕の理想の女性。
そう、うっとりと君を眺める。
すぅ、すぅ、と、寝息をたてている君。柔らかな栗毛色の髪。
今は閉じているその瞼の下には、華やかな明るいブルーの瞳。
小さくて艶やかな赤いテロリとした唇。
君に恋をしすぎて、僕は、おかしくなってしまった。
あれ程好きだった筈の数学。その美しさも霞む程に。
「コンコン…」
唯々、フラスコの中で眠る君を見ていた僕を、正気に戻したのは、来客を告げる
ノック音だった。僕は、さっと、頭を切り替えると、そっと、彼女を美しい幾何学模様の
箱の中に閉じ込めて、何事も無かったように、「…はい、どうぞ」と、口にした。
「…失礼します」
静々と、部屋に入ってきたのは、最近、私の家に来たばかりの家政婦だった。…確か、名前をメリッサ…とか、言ったか。
「…何だ、どうかしたのか?」
私は、メリッサの若々しいこの年代の女性に特徴の明るい表情と生き生きと輝く瞳を見つめながら言った。
「はい、あのう、旦那様。お嬢様が…」
少し、困ったような表情で、口にする。
「メリッサ、ちょっとどいて!ここにあるのはわかっているのよ!」
勢いよく、部屋の中に飛び込んできたのは、明るいブロンドで深いモスグリーン色の瞳、
鼻の下にそばかすを散らした少女だった。
「メアリー!なんでこんなところに…君のママとは、とっくに離婚しているんだ。こんなところに来ているのを知ったら、彼女は何というか…」
私は、頭を抱える。彼女は、メアリー。私とは血が繋がっていない、私の娘。離婚した私の元妻が連れてきた娘で、離婚してしまってからは、一度も会ってはいなかった。
「私のものを、慎二君からもらいに来たの」
挑戦的な瞳で、私を見つめながら告げる。
私は、どきりとしながらも、何気ない風を装い、「…なんのことだ」
と、とぼけた。
「私の大事な友達を返して!慎二君が、狭い箱の中にミツバチみたいに、閉じ込めているの、私は、彼女から聞いて知ってるの!彼女は、私の傍から離れたことなんて一度も
なかったのに」
そう、私と血が繋がっていないこの少女が連れてきた、彼女に私は心を奪われてしまった。
メアリーの傍で眠る僕の天使をフラスコの中に閉じ込めたのは僕だ。逃げないように、
閉じ込めてしまった。妖精のような彼女を見ることが出来たのは、どうやら、メアリーと僕だけのようで…。僕の元妻は、見ることが出来なかった。初めて、恥ずかしげにメアリーが僕に、私のお友達なのって見せてくれた僕の天使の可愛らしい笑顔を、僕はきっと一生忘れない。
その日から僕はおかしくなってしまったのだから。
当然、僕の天使に心を奪われた僕は、フラスコの中の彼女のことしか考えることが出来なくなってしまった。上手くいっていた筈の家庭にも、無関心になってしまった。夫婦間は冷めきり、僕らは離婚したのだ。
メアリーは、泣きながら叫ぶ。
「私の友達を返して!返してよ!」
メアリーの声に反応したのか、美しい幾何学模様の箱がカタカタと揺れる。
メリッサの細い指先がそっと箱に手を掛ける。
中から現れたのは、フラスコの中の僕の天使。
突如、涙を流し始めたのは、メリッサだった。彼女の薄いグレーの瞳がふるふると震える。
薄い唇が告げたのはprincessという言葉。
ふわりと風が揺れた。
メリッサは、フラスコの中の僕の天使を外に出すと、大事に抱えて、華奢な窓枠に足を掛ける。ふわりと薄い羽が彼女の背に浮かび上がる。
トンッと音も無く飛び上がると、彼女たちは、二匹の小さな蜜蜂になって金の光がさんさんと照らす自由に抜けるような青空に飛び立っていってしまった。
僕の天使は消えてしまった。
僕は、瞬きをするのも忘れてー。