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ななぐさの語り種

なかないで……

作者: あきのななぐさ
掲載日:2017/06/08

あら、この足音。

珍しい。こんなに早く帰ってくるなんて。でもちょうどよかった。

今日はとても暑かったのよ。

頭の病気をしてから、思うように動けなくてね。


ああ、よかった……。

あの子がこんなにも早く、帰って来てくれた。

これでやっと水が飲めるわ。


玄関を荒々しく開けて、あの子は飛び込んできた。

思わず、靴箱の下で縮こまる。

あの子は、靴を投げ捨て、私の名を呼びながら家の中を探していた。


ああ、あの子もとうとう目が悪くなったのね。

あれだけ小さい文字ばっかり読んでいるから。

あれだけ細かい文字かいているから。

あれだけ、小さな箱の前で、カタカタいわせているから。


ほら、わたしはここよ。ここにいるわ。


あの子をゆっくりとおいかける。

思うように体が動かない。

もう年だ。しかたない。あの子と駆け回った日が懐かしい。


ゆっくりと後を追い、風呂場の前で座り込んだ、あの子を見つけた。


あの子もずいぶん大きくなった。

あの背中。

よくしがみついたわね。今となっては懐かしい。


ゆっくりと、私はその背中をめざす。


ねえ、覚えてる?

私が初めてあなたの家に来た時のこと。


あなたの家で、おもらしをして、あなたのお父さんに怒られたとき、あなたは必死に私をかばってくれたよね。

あれ、うれしかったのよ。

うれしすぎて、またちびっちゃったけど、私も小さかったから許してね。


ねえ、覚えてる?

初めて小屋を買ってもらった時のこと。


わたしは不信感でいっぱいだった。

だって、生まれて初めて見たんだもの。仕方ないじゃない。

でも、あなたは私よりも先に小屋に入って言ったわよね。

「ここ、僕の秘密基地。」

冗談じゃなかったわ。文句のつもりで噛んであげたわ。

ここは私のおうち。

まあ、たまには入ってもいいわ。そんな気分だったわね。


ねえ、覚えてる?

あなたの家の引っ越しで、私が車の荷台で大泣きしてた時のこと。


あなたは必死に自転車で追いかけてくれたわね。

あれ、余計に不安だったわ。

もう、本当に悲しかったんだからね。

声がかれると思ったわ。

新しい家についた時、あなたは私の頭に手を置いて言ったわね。

「なかないで。僕がついている。」

まったく誰のせいだと思ってるの?

私が文句言ったの覚えてる?




ねえ、覚えてる?

雀の子が巣から落ちているのをわたしが見つけた時のこと。


あなたは私が食べると思ったわね。

失礼しちゃうわ。

なめてあげようとしただけじゃない。

仕方がないから、代わりにあなたの顔をなめまわしてあげたわね。


ねえ、覚えてる?

あなたのお母さんが家を出た時のこと。


あなたは私に言ったわね。

不自由かけちゃうって。

ほんとそう。

でも、夕方にお母さんがこっそりと来てくれてたの知らないでしょ?

あれから私のことを心配なお母さんは、夕方に必ず来てくれてたのよ?

あなたは家にめったに帰らなくなったものね。


ねえ、覚えてる?覚えてる?

あなたは、何かあると、必ず私の頭に手を置いて話しかけたわね。

私はそれが好きだったのよ。


あなたと共に過ごした日々は、私の中の大切な宝物。

でも、最近のあなたは、なかなか相手をしてくれない。


わたしのこと、嫌いになったの?

わたしのこと、面倒になったの?


体が不自由だから、前みたいに遊んであげられないけど、私はあなたのことが大好きだよ?


ねえ、聞いてる?


そんなところでうずくまってないで、少しは私の方を見て。

今日は暑かったの。

本当に暑くて、のどが渇いて仕方がなかった…………。


ねえ、ねえ、ねえ……。

ああ、もうちょっとだ。

でも、なんだか近寄りにくい場所ね。


普段より、重たく感じる体を引きずり、私はあの子のところまではっていた。


ああ、やっと追いついた。

ちょっと聞いてる?


私はあの子の背中に、前足をそっと置いてみた。

けれど、私の前足はあの子の背中を通り越し、そのまま廊下についていた。


あら、私も目が悪くなったわね。もう少し近づかないと…………。


あら?あなた、泣いてるの?

泣かないで。どうしたの。また顔をなめてあげましょうか?


小刻みに震える体が邪魔で、前に進めやしない。


ほら、ここからじゃ無理じゃない。

ねえ、こっちを向いて。


あの子はなきながら、必死に謝っていた。

何を謝っているのかしら。そんなのいいから、こっちを向いて。


「ごめん、もっと早く帰ってくれば、もっとしっかりお水を入れていたら…………。」


そうね。それはそう。

それは謝ってもらわないとね。


でも、もういいから。

もう許すから。

ちゃんとこっちを向いてちょうだい。


おもむろに、あの子は風呂場に入り、湯船から、何かを抱えだしていた。


あら?

見覚えのある毛色。でもなんだかずぶ濡れね。


あら?

あら?

あら?


「カール。ごめん。のどが渇いたんだね。苦しかったんだね。しんどかったんだね。ごめんよ。カール………………。」


あの子は泣いていた。

あの子の涙は久しぶりに見た。

ずっとずっと我慢していた子が、私のために泣いていた。


ああ、もういいよ。わかったから。泣きやんで。

でも、もう顔をなめてあげられないね。噛みついてあげられないね。


でも、涙はこれでおしまい。

今度見せたら噛みつくからね。


床に伏せ、大泣きするあの子の頭に、私はそっと前足を乗せていた。


友人の犬が死んだときの話をもとに書かせてもらいました。

彼は、研究生活で家にほとんど帰らなかったこと、そして自分の配慮不足から、幼いころから共にすごした犬の最後を、苦痛で終わらせてしまったことを、今でも悔やんでいるそうです。

そんな彼と彼の犬のために、何かかければいいなと思いました。

ほとんど、空想ですが、彼の人となりを考えると、彼の犬もそう思ってたんじゃないかなと思います。

哀悼の意を込めて。

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