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ななぐさの語り種

なかないで……

作者: あきのななぐさ

あら、この足音。

珍しい。こんなに早く帰ってくるなんて。でもちょうどよかった。

今日はとても暑かったのよ。

頭の病気をしてから、思うように動けなくてね。


ああ、よかった……。

あの子がこんなにも早く、帰って来てくれた。

これでやっと水が飲めるわ。


玄関を荒々しく開けて、あの子は飛び込んできた。

思わず、靴箱の下で縮こまる。

あの子は、靴を投げ捨て、私の名を呼びながら家の中を探していた。


ああ、あの子もとうとう目が悪くなったのね。

あれだけ小さい文字ばっかり読んでいるから。

あれだけ細かい文字かいているから。

あれだけ、小さな箱の前で、カタカタいわせているから。


ほら、わたしはここよ。ここにいるわ。


あの子をゆっくりとおいかける。

思うように体が動かない。

もう年だ。しかたない。あの子と駆け回った日が懐かしい。


ゆっくりと後を追い、風呂場の前で座り込んだ、あの子を見つけた。


あの子もずいぶん大きくなった。

あの背中。

よくしがみついたわね。今となっては懐かしい。


ゆっくりと、私はその背中をめざす。


ねえ、覚えてる?

私が初めてあなたの家に来た時のこと。


あなたの家で、おもらしをして、あなたのお父さんに怒られたとき、あなたは必死に私をかばってくれたよね。

あれ、うれしかったのよ。

うれしすぎて、またちびっちゃったけど、私も小さかったから許してね。


ねえ、覚えてる?

初めて小屋を買ってもらった時のこと。


わたしは不信感でいっぱいだった。

だって、生まれて初めて見たんだもの。仕方ないじゃない。

でも、あなたは私よりも先に小屋に入って言ったわよね。

「ここ、僕の秘密基地。」

冗談じゃなかったわ。文句のつもりで噛んであげたわ。

ここは私のおうち。

まあ、たまには入ってもいいわ。そんな気分だったわね。


ねえ、覚えてる?

あなたの家の引っ越しで、私が車の荷台で大泣きしてた時のこと。


あなたは必死に自転車で追いかけてくれたわね。

あれ、余計に不安だったわ。

もう、本当に悲しかったんだからね。

声がかれると思ったわ。

新しい家についた時、あなたは私の頭に手を置いて言ったわね。

「なかないで。僕がついている。」

まったく誰のせいだと思ってるの?

私が文句言ったの覚えてる?




ねえ、覚えてる?

雀の子が巣から落ちているのをわたしが見つけた時のこと。


あなたは私が食べると思ったわね。

失礼しちゃうわ。

なめてあげようとしただけじゃない。

仕方がないから、代わりにあなたの顔をなめまわしてあげたわね。


ねえ、覚えてる?

あなたのお母さんが家を出た時のこと。


あなたは私に言ったわね。

不自由かけちゃうって。

ほんとそう。

でも、夕方にお母さんがこっそりと来てくれてたの知らないでしょ?

あれから私のことを心配なお母さんは、夕方に必ず来てくれてたのよ?

あなたは家にめったに帰らなくなったものね。


ねえ、覚えてる?覚えてる?

あなたは、何かあると、必ず私の頭に手を置いて話しかけたわね。

私はそれが好きだったのよ。


あなたと共に過ごした日々は、私の中の大切な宝物。

でも、最近のあなたは、なかなか相手をしてくれない。


わたしのこと、嫌いになったの?

わたしのこと、面倒になったの?


体が不自由だから、前みたいに遊んであげられないけど、私はあなたのことが大好きだよ?


ねえ、聞いてる?


そんなところでうずくまってないで、少しは私の方を見て。

今日は暑かったの。

本当に暑くて、のどが渇いて仕方がなかった…………。


ねえ、ねえ、ねえ……。

ああ、もうちょっとだ。

でも、なんだか近寄りにくい場所ね。


普段より、重たく感じる体を引きずり、私はあの子のところまではっていた。


ああ、やっと追いついた。

ちょっと聞いてる?


私はあの子の背中に、前足をそっと置いてみた。

けれど、私の前足はあの子の背中を通り越し、そのまま廊下についていた。


あら、私も目が悪くなったわね。もう少し近づかないと…………。


あら?あなた、泣いてるの?

泣かないで。どうしたの。また顔をなめてあげましょうか?


小刻みに震える体が邪魔で、前に進めやしない。


ほら、ここからじゃ無理じゃない。

ねえ、こっちを向いて。


あの子はなきながら、必死に謝っていた。

何を謝っているのかしら。そんなのいいから、こっちを向いて。


「ごめん、もっと早く帰ってくれば、もっとしっかりお水を入れていたら…………。」


そうね。それはそう。

それは謝ってもらわないとね。


でも、もういいから。

もう許すから。

ちゃんとこっちを向いてちょうだい。


おもむろに、あの子は風呂場に入り、湯船から、何かを抱えだしていた。


あら?

見覚えのある毛色。でもなんだかずぶ濡れね。


あら?

あら?

あら?


「カール。ごめん。のどが渇いたんだね。苦しかったんだね。しんどかったんだね。ごめんよ。カール………………。」


あの子は泣いていた。

あの子の涙は久しぶりに見た。

ずっとずっと我慢していた子が、私のために泣いていた。


ああ、もういいよ。わかったから。泣きやんで。

でも、もう顔をなめてあげられないね。噛みついてあげられないね。


でも、涙はこれでおしまい。

今度見せたら噛みつくからね。


床に伏せ、大泣きするあの子の頭に、私はそっと前足を乗せていた。


友人の犬が死んだときの話をもとに書かせてもらいました。

彼は、研究生活で家にほとんど帰らなかったこと、そして自分の配慮不足から、幼いころから共にすごした犬の最後を、苦痛で終わらせてしまったことを、今でも悔やんでいるそうです。

そんな彼と彼の犬のために、何かかければいいなと思いました。

ほとんど、空想ですが、彼の人となりを考えると、彼の犬もそう思ってたんじゃないかなと思います。

哀悼の意を込めて。

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