1-1.夢の始まり
世界のどこかにある森の中。
川のせせらぎや、葉擦れの音が流れる穏やかな空間に一人の人間が倒れていた。
リスや兎などの小動物達が、見慣れぬその人間を不思議そうに見やっている。
つい先程までいなかったものが突如として現れたことに、驚きはしたが好奇心の方が勝ったらしい。
年齢は青年といっていいだろうか。
短めの黒髪に紺色の着物を纏っている。
ふいにぴくりと瞼が動き、目が開いた。
額の上にとまった逆向きの小鳥と目が合う。
数度瞬きを繰り返し、今度は自分が呼吸していることに気付く。
煩わしかった呼吸器がない。
大きく息を吸い込む。
胸が動き、肺の中を新鮮なとても綺麗な空気が満たしていく。
指先を動かすことさえままならなかったはずの手が、足が、身体が自由に動く。
腕をあげ、小鳥の頭を指で撫でる。
目をつむり、ピ、ピ、と鳴く小鳥に思わず笑みが浮かぶ。
「…ぁ」
喉の奥から声が滑り落ちるように口へ、外へと洩れる。
この口で伝えたいことがあった。
話したいことが山ほどあった。
でもただ一言でもよかった。
その相手はここにいないようだから果たされなかった未練でしかない。
ただ現実、五体満足でここにいる。
「起き上がるからこっちに」
言葉が通じるとは思っていなかったが、小鳥は彼の言う通りに指に飛び移った。
のそりとゆったりとした動作で起き上がる。
手をつき、足を曲げ、腰を上げる。
たったそれだけのことが、それら一つ一つが随分と懐かしい感覚を与えてくる。
何年ぶりになるものか。
大地に立った感触が、自由に動かせる手足が、彼にとって全てが幸せであった。
不治の難病により寝たきりだったのに、何故か筋力の衰えもなくなり、痩せ細っていた身体は程よく筋肉質なものになって全盛期といわんばかりに力を感じる。
恐らくは死後の世界なのだろう。
死の記憶はないが、近くそうなるであろうことは自身で理解していた。
前世では最期まで祈りは届かなかったが、粋な計らいをしてくれたものだ。
願わくば夢で終わることのありませんように。
手で掬った水を口に含む。
喉を通るその感覚にほうと息をはく。
底まで透き通り、濁りの一切ないその水は驚くほど美味しかった。
川面に映るそれは間違いなく自身の顔であった。
よく目つきが悪いと評される薄く開いたつり目と、右の目尻にある涙のようにも見える二つの黒子。
顔を洗うと動悸の止まらなかった心臓も少し落ち着いてきた。
「さて…」
川辺の大きな石に腰掛ける。
起きたときからついてきていた小鳥が頭の上にとまった。
巣でも作ろうとしているのか髪をくわえて結おうとするその感触に、しかし好きにさせる。
考えるべきことはいくつもあるが、優先順位を決めたほうがいいだろう。
まずは食べ物。
これは川の近くに木の実がなる木が多かったのでどうにかなりそうだ。
食べられるかどうかは後で試してみよう。
そもそも今生は食べ物が必要なのかどうかもまだ分からないが。
次に住む場所だが、幸いなことに暖かいのでそこまで急がなくてもいいかもしれない。
作り方も分からないので森を出ることも視野に入れるべきか。
まずは近場を探索してみようか。
周りを見渡しても木々が生い茂るばかりで遠くまで見通すことができない。
改めて分からないことだらけな現状に眉を寄せる。
しかし案内人もいないとはなんとも不便なものだ、とそう思ってしまうのは贅沢なことなのだろう。
せめてこの幸運を手放さないようにできることはしようか。
川を中心に歩いてみても、肉食の獣や大型の生き物に出会うことはなかった。
「安心安全、なのはいいんだが……」
頭上では髪を器に木の実をつついている感触がくすぐったい。
足元をくるくると回る犬、着物の襟元が気に入ったのか前脚をだらりと外に出してぶら下がる狐。
どうにもよく懐かれる体質のようだった。
歩いていて出会った彼らは総じて始めは警戒するのだが、すぐに近寄ってきて鼻を鳴らしては、構ってと言わんばかりにじゃれついてくるのであった。
この森の動物達は生存競争が苦手なのかと変な心配を覚えてしまう。
しかしこうも木々に囲まれていてはいつか迷ってしまいそうだ。
せめて山や丘など高台でも登れば辺りを見渡せるんだけど、と思った瞬間、奇妙な感覚に襲われた。
例えるなら、エレベーターが降りるときの浮遊感に似たようなものだろうか。
急にうるさく吠えだした犬を見やってようやく気付いた。
数センチほど身体が浮いていることに。
「はぁ……?」
相も変わらず木の実をつついてたり、胸元で目を閉じてゴロゴロ喉を鳴らしている彼らは大物なのかもしれない。
思わず現実逃避してしまう。
屈んで犬を抱きかかえて撫でてやると、落ち着いたようで指を舐めてくる。
空気の上に立っているのだ。
字面にすると意味が分からないがそのままのことであった。
足に体重がかかっているし、地面に立っているのと同じ感覚で空中に立っている。
降りたいと思ったらすんなり着地したので恐らくは、高いところに行きたいと思ったことで浮けたということなのだろう。
今生の自分はどうやら人間を逸脱してしまったらしい。
その後もいくつも試してみたところ、どうやらこれは願うと何かを消費して効果を得ているもののようだった。
地面に下ろそうとしても下りようとしない一羽と一匹、そして下ろして浮こうとすると吠えだすもう一匹に、一人で実験するのは諦めた。
浮きたいと願うことで浮くことができ、遠くのものを手元に引き寄せたいと願うことで引き寄せることができる。
代わりに効果を得ると少しの虚脱感があり、何かエネルギーのようなものを使っているのだろうと思われる。
魔法のような、というよりそのまま魔法なのだろう。
幼少の頃に夢に描いた魔法使いになった気分だった。
触れずして採った木の実をかじりながら空中を階段のように登ったり、垂直に身体が上がる想像をすることで高く高く登ってしばらく。
目的を忘れて夢中になっていた彼が我にかえって顔を上げる。
そこには絶景が広がっていた。
見上げると空は蒼く、雲ひとつない晴天。
恒星は朱く、地球と同じく一つ輝く。
眼下には随分と高くにいるにも関わらず視界の大半を埋める樹海とも言える大森林。
前方奥には噴煙を上げる山岳。
右手には地平線まで続く草原。
左手には水平線が見える大海。
「……」
山岳上空を飛ぶ羽を広げる龍にも見える生物。
草原に走った軌跡を残す四つ足の真っ白な獣。
大海を泳ぐ遠目からしてもあまりに巨大な亀。
「…………」
手の震えが止まらない。
のぼせたように頭が回らない。
ここは何処だ。
あれは何だ。
ただ分かることが一つ。
「ククッ、アハハ! ハハハハハッ!」
木の実を食べ終えて丸くなっている小鳥や、迷惑そうに一瞬だけ目を開けた狐、耳を伏せてしまった犬に目もくれず。
狂おしげに空に片手を伸ばして笑い続ける。
「……これが世界か!」
縮図ではあろう。
これが全てではない。
ではないが、これもまた世界の一部分。
空に包まれ、日に照らされ。
自分の存在が世界の一部になった、そんな気がした。
今生は自由に生きたい。
やりたいことをやりたい。
このような景色は他にもあるだろう。
それを探すなんてのもいいかもしれない。
あぁ、なんて楽しいことか。
日が暮れるまで、ひたすら嬉しそうに、それを見つめ続けていた。
鳥の囀りで目を覚ますと、そこには一緒に眠った狐と犬はもういなかった。
野生なのだから飽きたりでもしたのだろう。
寂しさを感じ取ったのか小鳥が慰めるかのように小さな木の実を手に乗せてくる。
「ありがとう」
食べた木の実は甘酸っぱいものだった。
川で顔を洗ってから再度空に向かい、昨日見つけた壁に囲われた街の方角を覚える。
人がいるのかは不明だが、面白おかしく旅をして生きてみたいと思った彼には行かないという選択肢はなかった。
世界を見て廻る。
なんて良い響きなのだろう。
もはや定位置となった頭の上に小鳥がとまる。
「さて、行くか」
歩くこと数時間、日も頂点を過ぎた頃森を抜けた。
目の前には昨日見た草原が広がっている。
獲物を追いかけ回していた白い獣に出会うことはあるだろうか。
随分と大きいように見えたが、この世界の肉食獣が皆ああだったら恐ろしい。
くるぶし程の高さの草を踏みしめ歩く。
高低差も少なく、道がなくとも歩きやすい。
最悪空中を歩くこともできるのだが、地球のように魔法や超能力のない世界だったなら見世物パンダになってしまう。
それは避けたいところである。
小高い丘を登りきったところで、ようやくその先に狼の群れがいたことに気付いた。
数十頭の群れの中でも身体が一回り大きな狼が低い唸り声を上げると一斉にこちらを向く。
獲物を見つけた狩る者の目であり、初めて向けられるそれに背筋が凍りついた。
殺して奪うといった殺意の籠った視線は、平和に暮らしてきた彼にとって足がすくんで動けなくなるのに充分なものだった。
牙を剥き出しにして威嚇しつつ、ゆっくりと彼を取り囲む。
警戒は怠らずとも脅威を感じていないのだろう。
じりじりと囲いを狭めてくる狼達に冷や汗が止まらない。
(これは……詰み、か)
どうすればいいのか、そんなことがすぐに思いつく訳がない。
命のかかった出来事など経験がなく、更に言えば格闘技経験も学校の授業で習った柔道や剣道程度のものである。
野生の狼との素手での戦い方など、素人が咄嗟に考えられるものではないのだ。
覚悟が足りていなかった、と言われるとその通りなのだろう。
走馬灯のように記憶の中の情景が頭に流れる。
夕陽の照らす橙色の住宅街。
家族とリビングで各々のんびりしていた時間。
朧気に映る笑って手を振る人の姿。
そして、朱と蒼の景色。
「……まだ、死にたくはない!」
先頭に立つ群れのボスであろう狼が首をやると、左右の二頭がこちらへ牙を剥いて駆けてきた。
力強く地を蹴り飛び掛かってきた狼に、一般人である彼は何もできず捕食されるだけ。
ここが地球であったならば。
想像したことは、願ったことは何だっただろうか。
何処かへ行け。
動くな。
倒れろ。
それとも、殺されるならいっそ殺してしまえ、だったか。
歯を食いしばり、咄嗟に頭を庇おうと両腕を前に掲げたその時だった。
今にも腕に噛みつかんとする二頭の狼がまるで横から殴られたかのように横へと吹き飛んだ。
遠くで地面に強く叩きつけられた後、勢いのままに転がり、動かなる。
「俺はもう無力なんかじゃない」
強く握りしめた拳が強く光り輝く。
光が収まったそこには朱と蒼の二対の剣があった。
まるで星と空を切り取ったかのような双剣。
勿論両刃の剣を、しかも両手に持っての扱い方など知る由もない。
が、今この時胸を満たしていた絶望の色は無くなっていた。
小手調べは止めたのか、前後左右から変則的に襲い来る狼達に相対する。
ぎこちないながらも剣で逸らし、あるいは斬り払い、受け止めていく。
出来ないから無理、ではなく、こうでありたいと願うことでそれに身体がついてきた。
あちらこちらを鋭い牙で噛まれ、爪で切り裂かれても尚諦めることはなかった。
むしろ口元がつり上がり獰猛な笑みさえ浮かんでくる。
波状攻撃に追い付かない身体に苛つくと、まだ限界ではないと言わんばかりに動きが速くなった。
ぎこちない剣捌きは繰り返していくにつれ無駄がなくなっていき、腕の一部として扱えるようになった。
背後から突進されバランスを崩して腕を噛み切られそうになると、視界が広がり全ての動きが見えるようになった。
剣で追い付かないところは魔法で吹き飛ばしていった。
そうして気付けばボス一頭だけが目の前に立っていた。
こちらは満身創痍、流血が多く視界もぐらぐらと揺れている。
あちらは四つ足と牙は健在、耳が千切れて片目も斬られているがまだ闘えるといった様子。
だらりと剣を下げ、目を瞑って力を抜く。
動いたのは同時だった。
前に倒れる寸前の低い姿勢で、足は全力で地面を蹴り、交差した腕から剣を十字に斬る。
ボス狼はその俊敏な動きから、散々彼を痛めつけてきたその爪牙を突き立てる。
交差し、また同時に着地する。
荒い息を吐きつつ、精根尽きて倒れてしまう。
もはや根性だけで立ち上がっていたのだ。
剣が粒子となって消えて、魔法を使うエネルギーももう残ってはいない。
そしてボス狼は。
一声小さく吠えると、ずしんと倒れ臥し、もう動くことはなかった。
空はどこまでも蒼く広がっていた。
ただ空を眺めるだけで幸福を感じるとは、随分と変わったものだと思う。
できれば永く見ていたいものだが眠くなってきた。
瞼が落ちるその直前にいつの間にか離れていた小鳥がくるくると飛んでいるのが見えた。
何か声も聞こえたようだが何だろうか。
もう眠くて仕方がないんだ、後にしてくれ。
彼は満足気に目を閉じた。