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暁へ走る

作者: Athena
掲載日:2026/05/31


 吐き出す息が、白く濁り始める季節がやってきた。

「……ここ、もう出来てたんだ」

 独り言が、冷えた空気に吸い込まれて消える。

 春に彼を亡くしてから、半年。かつて彼と散歩で通った教会の道は、いつの間にか私の知らない景色に書き換えられていた。彼が亡くなってからの数ヶ月、私の中の時計は止まったままで、外の世界との繋がりは、窓越しに流れる雲を眺めることだけになっていた。

 半年。ようやく、彼のいない空気に肺が馴染んできた気がする。

 もちろん、痛みが消えたわけではない。ただ、足元の泥濘が少しだけ乾き、一歩を踏み出せる程度には固まった、というだけのことだ。

 その証拠に、私は今日、クリスチャンだった彼と通い詰めた教会の前に立っている。

 もともと私には、特定の何かを熱心に信仰する習慣はなかった。けれど、彼が語る聖書の話を聞き、彼の隣で祈りの作法を真似る時間は、知らない国の地図を広げるような新鮮な喜びに満ちていた。

 重厚な木の扉の向こうから、柔らかな聖歌が漏れ聞こえてくる。

少々間が悪い気もしたが、私は意を決して中へ足を踏み入れた。

 高い天井、鼻をくすぐる古い木と蝋燭の匂い。半年前と変わらない光景に、こわばっていた肩の力がふっと抜ける。壁面を彩る巨大なステンドグラスが、午後の光を透かして床に極彩色の模様を落としていた。彼と二人、この光の粒を見上げるのが好きだった。

 聖歌隊の人々が視線を寄越すが、歌声は途切れない。私は後方の席に深く腰を下ろし、指先を組んだ。

『今日はどんなことをお祈りしたの?』

 記憶の中の私が、隣に座る彼に尋ねる。

『特別なことじゃないよ。家族のこと、君のこと。それから…

 僕たちの将来のことかな』

 彼は少し照れたように眉を下げて笑った。

『君は? 何を祈ったんだい?』

『私は……お祈りなんて馴染みがないから。でも、きっと貴方と同じことを願ったわ』

 彼はクスッと喉を鳴らし、私の手を包み込むように握りしめた。

『それで大丈夫。きっと、僕たちの未来は大丈夫だよ』

 祈りの言葉を紡ごうとするたび、記憶の彼が微笑みかけてくる。集中など到底できなかった。

「……彼が、安らかに眠れていますように。私が泣いているのを見て、彼が悲しみませんように」

 もっと長く、もっと丁寧に伝えたかった。けれどこれ以上ここにいれば涙が溢れ出してしまう。そう思い私は逃げるように席を立ち、教会の外へと足早に駆け出した。

「まだ……早すぎたかな」

 冷たい風に顔を晒し、自分を追い越していく寒気から逃れるようにアパートへと急いだ。

 玄関のドアを開けると、静寂が私を出迎える。

 靴を脱ぐ音、鍵をトレイに置く音。あらゆる生活音が壁に跳ね返り、冷たくこだまする。彼と同棲していた部屋を離れ、少し遠くへ引っ越したはずなのに、誰かの気配を求めてしまう体質は変わらない。

 同居をしていた頃は私がドアを開けるのを合図に「おかえり!今日はどうだった?」っと子犬のように私の元へ駆け寄り優しく尋ねてくる彼の声が聞こえてきた。

 子犬の様にとても好奇心旺盛で、例えくだらない事だとしても色々な事を知るのが本当に大好きな人で、キラキラした笑顔の後ろで、本当に尻尾を振っているようなそんな可愛さがあった。

 今私がドアを開けると聞こえてくるのは私の冷たいこだまだけでそれがより一層孤独を際立たせる。

 家族や友人には恵まれている。交流も絶えてはいない。それなのに、奇妙な孤独が水の中に垂らした油のように心の中に沈殿し溜まっていく。

 部屋にいれば寂しさに押し潰され、外に出れば思い出に切り裂かれる。

 いっそこの街を離れることだってできたはずだ。けれど、そうしなかったのは、彼と過ごした証まで失ってしまうのが怖かったから。

 不意に物音がすれば振り返り、スマホのロック画面に映る彼の笑顔を見ては立ち止まる。

「前に進まなきゃ」

 その言葉が、彼を過去の遺物として切り捨てる冷たい拒絶のように思えて、申し訳なさに胸が塞がる。

「……もっと、強くならなきゃ」

 自分に言い聞かせるように呟き、両頬を軽く叩いて気合を入れる。

 彼は強い人だった。少なくとも私の前では、一度だって弱音を吐かず、辛さに涙を流すこともなかった。

 だからこそ、彼が自ら命を絶ったと聞いた時の衝撃は、世界が粉々に砕けるような感覚だった。

 どうして何も言ってくれなかったのか。それは優しさだったのか、それとも私への拒絶だったのか。

 答えの出ない問いが、脳内で旋回し続ける。「貴方のせいじゃない」という周囲の慰めも、心の奥底に沈殿した重い油を洗い流してはくれない。

 その時、静まり返った部屋にスマホの通知音が鋭く鳴り響いた。

 びくりと肩が跳ね、思わず情けない声が漏れる。

『久しぶりに明日ランチ行かない? ちょっと買い物もしたいな』

 友人からの、飾らない誘いだった。その短文の背後にある気遣いが伝わり、こわばっていた心が僅かに解ける。

 私は「喜んで」と返信し、画面を閉じた。

 ランチなんて、何ヶ月ぶりだろう。彼の葬儀の後、形ばかりに集まって以来だ。

 私は再びスマホを手に取り、無意識に「イタリアン」と打ち込んでいた。彼の好物。気づいた瞬間、火傷をしたように指を引き戻し、ページを閉じる。

 ふと、教会の近くにできた新しいカフェを思い出した。

 調べてみると、清潔感のある、こじんまりとした店だった。リンクを送ると、すぐに快諾の返信が届いた。

 翌日、私は久しぶりに鏡の前で化粧を施した。

 カフェで迎えてくれた友人は、私を「腫れ物」としてではなく、以前と変わらない温度で、ただの私として扱ってくれた。

 パスタを口に運ぶ。けれど、それは柔らかいシャープペンの芯を噛んでいるようで、味覚を通り抜けて胃に落ちていく。窓の外に見える教会の十字架が、昨日のモヤモヤを呼び起こす。

 友人がフォークを置いた。私の手の上に、温かな彼女の手が重なる。

「……貴方なら大丈夫。無理に忘れなくていいの。辛くなったら、いつでも頼って」

 その微笑みが眩しくて、私は溢れ出しそうな涙を必死に飲み込んだ。

「……ありがとう」

 絞り出した声は、ひどく掠れていた。

 その後、ショッピングモールを歩いたが、華やかなショーウィンドウを見ても心は動かない。楽しもうとすればするほど、友人に気を使わせている申し訳なさが募り、私は早めに切り上げて帰路についた。

 夕方の街を一人歩きながら、一段と強い劣等感に苛まれる。

 差し伸べられた手を掴めず、ただ笑い合うことすらできない自分。

 思考の泥濘に足を取られ、気づけば私は知らない道を歩いていた。

 ふと、足が止まる。

 ウィンドウに映る自分の姿に、背後のディスプレイ――純白のウェディングドレスが重なった。

「あぁ……まただ」

 あの時、私たちは準備の真っ最中だった。

 彼が「君に一番似合うから」と言って選んでくれた、真紅のドレス。一生に一度の贅沢だと笑って購入した、鮮やかな赤。

 あの日購入して心を踊らせながら家に帰った日、もう一度着て彼に見てもらおうと意気込み彼が「君は本当に美しいよ。」と

 笑顔を再び見せてくれることを期待し、彼の前に姿を表すと

 彼は笑顔で「なんて美しいんだ。」と満面の笑みを見せてくれた。

 だけどその時の彼の瞳は震え、何かの灯火が、彼の魂が吸われ私のドレスの赤を染めていくような感覚がした。

 彼が亡くなって理由も分からないからただ私が少しでも納得するために思い出を変えているだけかもしれない。

 今ではその色を見るだけで、あの日の絶望が喉元までせり上がってくる。赤は、彼の命が尽きたあの日を、流れた時間を、叶わなかった約束を象徴する呪いのような色になっていた。

 逃げるようにアパートへ戻り、ソファに倒れ込む。

 彼の気配が染み付いたクッションに顔を埋め、目を閉じる。

 ……声が聞こえる。

 針の落ちる音すら聞き逃すまいと耳を澄ませると、刹那、彼の輪郭が網膜に浮かんだ。

「待って!」

 手を伸ばした瞬間、身体に衝撃が走る。ソファから床に転げ落ちていた。

 なんで、私ばかり。

 なんで、私だけが取り残されて。

 悲しみは突然、烈火のような怒りへと変質し、私を支配した。

「私はこんなに孤独なのに……どうして助けてくれないの!」

 絶叫が、冷え切った部屋に反響する。

「どうしてまた、いなくなるの? 貴方を愛してたのに、どうしてこんなひどい仕打ちをするの!」

 床に叩きつけるように流れる涙が、手の甲に水溜りを作る。

「私は……私は、貴方を幸せにできていなかったの?」

 嗚咽が止まらない。視界が滲み、呼吸が苦しい。

 けれど、叫び疲れて床に突っ伏した時、クローゼットの隅に押し込んだあの大きな箱が目に入った。

私はしばらく、その箱をぼんやりと見つめていた。

指先が少し震えている。

彼に最後に会った日のことを、思い出したくなかった。

あの時、私は彼の目に映る違和感に気づいていたはずだった。

でも触れるのが怖くて、目を逸らしてしまった。

あの時の自分が、今も胸の奥で小さく息をしているような気がした。

 ――逃げていても、何も変わらない。

 この「赤」が呪いなら、それを纏って、彼のいた場所まで突き抜けてやる。

 私は震える手で箱を開け、真紅のドレスを引き出した。

 シルクの滑らかな感触が、肌を刺す。鏡も見ず、ただ一心不乱にそのドレスに身を包んだ。

 豪華すぎるその装いは、寂れたアパートの中ではひどく滑稽で、けれど狂おしいほど美しかった。

 私が向かったのは、駐車場に佇む一台の車だ。

 彼が大切にし、今は私が引き継いでいるそのシートに、深紅の裾を押し込む。

 孤独に押しつぶされるのでもなく、思い出から逃げるのでもない。私は、私のままで、この赤を、彼を、引き連れていく。

 震える指でCDをスロットに差し込む。

 生前、彼が何度も繰り返し聴いていた曲。

 ハンドルを握る手に力を込め、私はアクセルを踏み込んだ。深夜の海岸沿い、街灯が等間隔で後ろへ飛び去っていく。

 ボリュームを限界まで上げ、エンジンの咆哮とともに加速する。

 そして、彼が最も愛した、あのフレーズが溢れ出した。

『暁の空に浮かぶ星々が太陽を恋しがるように、私は貴方を想い続ける。どんなに時間が掛かったとしても何も無いよりはまし。貴方が居なくなったとしても私は前に進み続ける。』

 隣で彼が口ずさんでいた時は、ただの甘い歌詞だと思っていた。

 けれど今は、この言葉が私の血肉となり、背中を押す力になる。

 真冬の冷気を切り裂くように、サンルーフを全開にする。

 氷のような風が車内に吹き込み、ドレスの裾を激しくなびかせた。死ぬほど寒いはずなのに、胸の奥だけが、かつてないほど熱い。

 見上げれば、星々が私の行く先を冷徹に、けれど確かに照らしている。

 地平線の彼方、空が藍色から淡い茜色へと滲み始めた。

 凍りついた心が溶け出し、一滴の熱い塊となって流れ落ちる音を聞いた。

 太陽と星々、そして隣にいるはずの透明な気配に見守られながら。

 私は、眩い光が待つ東の空へと、アクセルを踏み続けた。

 


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