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願いの鏡  作者: メンキチ
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本編

第一章:T県の午後と拾い物


関東平野の北部に位置するT県。国道沿いにはチェーン店が立ち並び、見渡す限りの平坦な景色が広がるこの地方都市に、国内有数の中堅工業製品メーカーの工場がある。


23歳の美咲は、そこの事務員として働いていた。


地元の商業高校を卒業して7年目。彼女の業務は、コピー取りや備品の補充、簡単なデータ入力といった、入社したての頃と変わらない雑用ばかりだ。キャリアアップとは無縁の生活だが、美咲に不満はなかった。


「難しいこと考えなくていいし、お給料もそこそこ貰えるしね」


彼女が入社できたのは、会社が地元採用枠を設けていたことと、彼女の持ち前の愛嬌が人事担当や地元の役人受けが良かったからに過ぎない。美咲自身、自分の頭が決して良くないことは自覚していたが、それを補って余りある「中の上」の容姿と愛想の良さが、彼女の最大の武器だった。


私生活もまた、平穏そのものだった。適度に男性から食事に誘われ、恋人がいない期間もそう長くはない。しかし、そろそろ結婚を意識し始めても、「この人だ」という決定的な相手には巡り合えずにいた。


ある秋の夕暮れ、美咲は部屋の模様替えを思い立ち、近所の巨大なリサイクルショップへ足を運んだ。


体育館ほどもある倉庫のような店内は、古着や家電、家具が雑然と積まれている。合コンのネタ作りや暇つぶしにはうってつけの場所だ。


ふと、インテリアコーナーの隅で足が止まった。


重厚な額縁に彩られた、西洋モダン風の壁掛け鏡。縁の装飾は凝っており、どこかアンティークな気品が漂っている。裏面には古びた文字で『Wunsch』と刻印されていた。メーカー名だろうか。


「へえ、なんかいい感じ」


値札を見ると『1,000円』。今の美咲でも迷わず買える金額だ。


「これなら私が映えるかも」


少し大きかったが、抱えられない重さではない。美咲は衝動的にその鏡を購入し、アパートへと持ち帰った。


第二章:魔女の真似事


帰宅後、リビングの一角に100円ショップで買った強力なピンを刺し、鏡をかけた。


少し離れて眺めてみる。殺風景な6畳間が、そこだけ切り取られたように華やいで見えた。


美咲は鏡の前に立ち、少しおどけてポーズを取った。一人暮らしが長いと、独り言が増えるのが悲しい習性だ。


「鏡よ鏡、鏡さん。世界で一番美しいのはだあれ?」


童話の魔女の真似事。当然、返事など期待していなかった。


しかし、一瞬の後、鏡面がぼんやりと白く発光し、部屋に低い男のような、しかしどこか無機質な声が響いた。


『美的感覚は人それぞれであり、現在は多様な価値観が存在するため、一番を決めることは困難です。しかし、多数意見を重んじるのであれば、本年のミス・ユニバース優勝者がそれに該当すると思われます。よろしければ、その人物を投影しましょうか』


美咲は悲鳴を上げることも忘れ、数秒間、口を半開きにして呆けてしまった。


幻聴か? いや、鏡は確かに光っている。


呆然とする美咲に、鏡は淡々と追撃する。


『特に不要のようですね。必要であればいつでもお声がけください。ご主人様に尽くすのが、私の使命ですので』


さらに数秒後、ようやく我に返った美咲は、慌てて叫んだ。


「そ、そのミスなんとかの人、映して!」


鏡の表面が波打ち、一人の黒人女性が映し出された。圧倒的なプロポーションと自信に満ちた笑顔。


「ふーん……思ったより可愛くないわね」


美咲は正直な感想を漏らした。自分の好みではない。


その瞬間、恐怖よりも好奇心と所有欲が勝った。これはとんでもない掘り出し物を手に入れたのかもしれない。


夕食のパスタを茹でながら、美咲は鏡の前に座り込んだ。まるで新しいSiriやAIスピーカーを手に入れた時のように、次々と質問を投げかける。そして、最も気になっていたことを聞いてみることにした。


「ねえ、私は日本で何番目に美しい?」


心臓が高鳴る。自分は可愛い。それは分かっている。クラスでも職場でも、常に上位にいたはずだ。


鏡は即答した。


『先ほどのご質問同様、明確な順位付けは困難ですが、客観的な顔面黄金比、肌質、体型データから推測しますと、およそ300万位から400万位前後かと思われます』


「はあ!?」


美咲は声を荒げた。300万位? そんなに低いわけがない。


しかし、しばらくして冷静さを取り戻すと、彼女の頭の中で都合の良い計算が始まった。


「待って。日本の人口って1億人以上いるでしょ? ってことは……300万位だとしても、上位3%から5%には入ってるってことじゃない!」


以前、バラエティ番組で「富裕層と呼ばれるのは上位5%」という話を聞いたことがある。


「私、容姿だけで言えば富裕層クラスってこと? つまり、玉の輿に乗れる器ってことよね!」


ショックは一転、強烈な優越感へと変わった。


美咲の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。この鏡は、真実を教えてくれる最高のパートナーだ。


第三章:蜜の味


それからというもの、美咲の日課は一変した。


仕事から帰るとすぐに鏡の前に座り、他人の不幸を覗き見るのだ。


「ねえ、いつもブランド自慢してる由美の預金残高教えて」


『……消費者金融を含め、現在200万円の負債があります。自転車操業状態です』


「やっぱり! あのバッグもリボ払いだったんだ!」


「マウント取ってくる既婚者の沙織は?」


『夫は現在、マッチングアプリで知り合った女性とホテルにいます』


「うわ、いい気味。幸せアピールなんてするからよ」


「会社のお局、高橋さんの家での様子は?」


『家族との会話は一日平均3分未満。自室で孤独にスマートフォンを操作しています』


「セクハラ課長の家庭は?」


『娘から生理的な嫌悪感を抱かれており、洗濯物は別にされています』


蜜の味だった。


自分より幸せそうに見える人間、自分を見下してくる人間。彼らの裏側にある惨めな真実を知るだけで、美咲の自尊心は満たされた。


質問はエスカレートし、過去の知人たちにも及んだ。


高校時代の元カレは、できちゃった婚をしたものの、生活感に溢れた冴えない奥さんと狭いアパートで暮らしていた。


クラスのマドンナだったあの子は、男に騙され、今は風俗店で働いているという。


いじめられていた地味な子は引きこもりに。私に告白してきた陰キャ男は、そこそこの企業に入ったものの、いまだに童貞のまま。


「ほら、やっぱり私が一番まとも。私が一番勝ち組に近い場所にいる」


一方で、面白くない事実もあった。


クラスで一番地味だったブスが、東京の大手商社マンと同棲していたり、自分より成績の悪かった子がベンチャー企業の社長夫人になっていたり。


「なんであんな奴らが」


嫉妬で胸が焼けそうになると、鏡は決まってこう言った。


『しかし、この状況が幸福であるか否かは、ご本人にしか分からないものです』


「うるさいわね、データだけ出しなさいよ」


美咲にとって、鏡はただの道具であり、教師のような説教は不要だった。


美咲の婚活にも、鏡はフル活用された。


合コンやデートの後、相手の品定めを鏡に依頼するのだ。


「今日の商社マン、預金いくら? 車は何?」


「趣味は? マザコンじゃない?」


鏡が告げる「真実」は、常に美咲を失望させた。貯金が少ない、隠れた借金がある、実家の母親と仲が良すぎる、変な性癖がある……。


『欠点のない人間など存在しませんが』


鏡の忠告も耳に入らず、美咲は次々と男たちを切り捨てていった。


「私には、上位5%の私には、もっと相応しい完璧な男がいるはず」


そんなある日、美咲はふと思いついた。


「ねえ、あなた、未来のことは分かるの?」


『未来は常に不確定です。この質問をした瞬間にも、無数の分岐が生まれています』


「じゃあ、私の一番可能性の高い未来を教えてよ。誰と結婚して、どんな生活をしてるの?」


鏡は、初めて長い沈黙を作った。


そして、低く重い声で告げた。


『その質問に答えた場合、”死”に繋がる可能性がありますが、それでも聞きますか?』


今まで即答していた鏡が、躊躇った。


「死」という言葉の響きに、美咲は背筋が凍る思いがした。


(私が死ぬってこと? それとも……)


得体の知れない恐怖を感じ、美咲は首を振った。


「……やめておくわ」


まだ20代。未来なんて聞かなくても、きっと明るいものが待っているはずだから。


第四章:残酷な数式


それから、20年の時が流れた。


美咲は43歳になっていた。


彼女の婚活は、失敗に終わっていた。


高卒で入社した会社では、40代になっても平社員のまま。後輩たちが役職につく中、簡単な雑用とお茶汲みを続ける彼女の存在は、もはや「愛嬌のある看板娘」ではなく、「扱いにくいお局」として疎まれていた。


それでも美咲は諦めきれず、週末ごとの婚活パーティーやマッチングアプリでの出会いを繰り返していた。


だが、現実は残酷だった。


20代の頃は選び放題だったはずが、今では選ばれることさえ稀になった。たまに言い寄ってくるのは、介護が必要な親を抱えた初老の男性や、再婚相手を探す子持ちの男性ばかり。


「私には相応しくない」


美咲は自分を慰め続けた。


「だって私は、日本の上位5%の美女なんだから。安売りしちゃダメ」


しかし、そこには致命的な数字のからくりがあった。


23歳のあの日、彼女は「人口1億人」を分母に計算して喜んでいた。


だが、恋愛市場における「価値」を測るなら、分母は「全人口」ではない。


「女性」であること。さらに「同世代(婚活対象年齢)」であること。


これらをフィルタリングすると、分母は1億人から数千万人、さらには数百万人にまで激減する。


その数百万人の同世代女性の中での「300万位から400万位」。


それは上位5%の選ばれし美女ではなく、上位30%から40%――つまり、「中の上」あるいは「ごく平凡」な順位でしかなかったのだ。


若さというゲタを履いていた20代ならともかく、40代になった今の彼女に、その順位を覆す武器は何も残されていなかった。


第五章:答え合わせ


ある孤独な夜、美咲は久しぶりに鏡の覆いを取った。


ここ数年、現実を見るのが怖くて封印していたのだ。


埃をかぶった鏡に映る自分は、目尻の小じわが目立ち、口元は不満でへの字に曲がっている。


「……ねえ、みんなはどうしてる?」


自分を慰めるために、かつて見下していた人々の「今」を聞くことにした。


「ブランド自慢の由美は?」


『借金返済のために夜も働き、その経験を活かしてファイナンシャルプランナーの資格を取得。現在は独立し、年収1000万を超えるキャリアウーマンです』


「……は?」


「不倫されて離婚した沙織は?」


『離婚後、苦労の末に誠実な男性と再婚。二人の連れ子と共に、穏やかな家庭を築いています』


「会社のお局だった高橋さんは?」


『定年退職後、長年の趣味だった陶芸教室を開き、そこで知り合った友人と良好な関係を築いています』


「セクハラ課長は?」


『娘の出産を機に和解し、現在は孫煩悩な祖父として慕われています』


美咲の手が震えだした。


「じゃあ、あの人たちは? 元カレは?」


『子供たちは独立し、夫婦二人で旅行を楽しんでいます』


「風俗で働いてたあの子は?」


『店に来た変わり者の資産家に見初められ結婚。現在は海外に移住し、慈善活動を行っています』


「引きこもりだった子は?」


『オンラインでの仕事を経て社会復帰し、地元のスーパーで店長を任されています。人望も厚いようです』


誰もかれもが、20年の時を進んでいた。


泥沼でもがいたり、失敗したり、傷ついたりしながらも、彼らは「変化」し、「積み重ね」ていた。


止まっていたのは、高みの見物を決め込み、他人を見下していた自分だけだった。


最終章:崩壊


絶望の果てに、美咲は震える声で問いかけた。


20年前に封印した、あの質問を。


「……私の未来は、どうなるの」


鏡は静かに、しかし冷徹に答えた。


『あなたは、他人と自分の幸せを比較し続け、自身の足元を見ることを疎かにしてきました。あなたが23歳の時に思い描いていた理想の未来は、もはや統計的に0%に等しいでしょう』


「そんな……」


『現在の行動パターンのまま推移した場合、今日の繰り返しが死ぬまで続きます。親の介護、自身の健康悪化、そして経済的困窮。誰にも看取られることのない、孤独な老後が待っています』


「やめて! 言わないで!」


『しかし、未来は不確定です。今日、今この瞬間から、他者への関心を捨て、自身の生活を改めれば……』


「うるさい、うるさい、うるさい!!」


美咲は叫び、近くにあった重い花瓶を振り上げた。


見たくない現実。聞きたくない正論。


「あんたなんかいなきゃ、私は幸せな夢を見られたのに!」


ガシャンッ!!


激しい破砕音が狭い部屋に響き渡った。


美しい西洋モダン風の鏡は粉々に砕け散り、床一面に銀色の破片を撒き散らした。


『Wunsch(願い)』と刻まれたプレートが、ひしゃげて転がる。


「はあ、はあ、はあ……」


肩で息をする美咲の耳に、もうあの声は届かない。


鏡の予言通り、未来を告げたことで、鏡はその「命」を終えたのだ。


後に残されたのは、散乱したガラス片と、それに映り込む無数に分割された、老いて歪んだ自分の顔だけ。


美咲はその場にへたり込み、喉が張り裂けんばかりに泣き叫んだ。


その泣き声は、薄い壁を隔てた隣人に「うるさいおばさんだな」と舌打ちされるだけで、誰の心にも届くことはなかった。

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