二人の出会い
暗闇の中、誰かに名前を呼ばれた気がした。それがどういう言葉であったのか、そもそも名前なのかわからいけど、優しくて懐かしい声で確かに、僕の名前を呼んでくれた。寒くて身体が冷たい。自分がどこにいて、何をしていたかももう思い出せない。けれどその声は僕に生きろと言った。もう誰のものかもわからない声の主がはっきりと僕にそう願った。
重く暗い雲が空を覆っている。早朝の乾いた冷たい風がガラクタだらけのこの場所を通り抜けた。ディアンは視線を上げてガラクタの山の先にある、小高く盛り上がった丘を見上げた。丘の上は灰色の壁に覆われていた。その壁の奥には貴族やら商人やら上流階級が暮らす、ロザリア国の王都フェルリアンがある。そして、この丘の下に広がるスラム街。東ブロック、西ブロック、南ブロックと方角によって地区が分けられておりその南ブロックの四分の一ほどに広がる、スラムの間で「宝島」と呼ばれているこのガラクタの山々は上層部や工場地帯からの廃棄物の処理場となっている。ここには定期的に廃棄物が運ばれては一斉焼却が行われており、西ブロックの住民は焼却される前に宝探しのように使えるものや売れるものを掘り出しに来る。
ディアンはガラクタの山を小さい足で登っていく。この山は今さっきできたばかりだ。工場からの廃棄物は不定期で頻繁に運ばれてくるが、上層からの廃棄物は焼却の前に、スラムの住民が寝静まった夜半過ぎに捨てられることをディアン達は知っていた。残飯、洋服、一部が壊れた家具、割れたガラス瓶、何かに使う金属の部品。スラムの住民は上層から捨てられたゴミを使って生活している。どんなに壊れていようと使い方が分からないものであろうとなんでも使うのがここでの生き方だ。ディアンもこの数年、ずっとその教えに習って生きてきた。
「お、これはなかなか。」
ディアンは山の中から一つ指輪を見つけた。銀の地金に大粒の紫の宝石の装飾が一つ埋め込まれている。中々高価な物である。上の奴らはこんな物に金をかけてはいとも容易く捨てられるのか。指輪がその日暮らしの自分を嘲笑っているようでディアンは眉を顰めた。指輪を無造作にポケットに入れて、ディアンは宝島を囲うセメントの壁の東側から、飛び出るように見える工場を眺めた。昼夜問わず工場には明かりが灯り、煙突からは黒い煙が立ち上り、暗い雲へ溶け込んでいる。
10年前。スラムを東西に分けるように、工場が建てられた。スラムでは工場で働く労働者が住む東ブロック、国営工場が建ち並ぶ南ブロックが作られ、元々スラムに住んでいた人々は西ブロックへと追いやられた。彼らの多くは工場で働き始め、東ブロックへと移り住んだが、一部は西ブロックに残り貧しい生活をしている。
ガラクタの荒野の向こうにいくつかの人影が見えた。分厚そうな外套を着たそれはスラムの民のものでは無い。焼却をしに来た役人だ。周りでディアンと同じようにガラクタを漁っていたスラムの大人達はその影を見た途端にそそくさとガラクタの山を下り、宝島から退散していく。焼却が始まれば宝島の出入り口が封鎖される為早く出なければならない。また、本来廃棄物を持ち出すのは違法であるため役人に捕まれば法を犯した者として処罰される。逆に言えば、捕まらなければ良いのだ。西ブロックは貧困層の掃きだめ。王都の人間が最下層のこのブロックの住民を放置していることをいいことに、西ブロックは無法地帯と化している。最底辺の人間だからこそ与えられた特権とも言おうか。
工場地帯は東から上る朝日によって、凹凸のある一本黒い帯となっている。宝島から撤退する大人たちと共にディアンも山を下ろうとした。視線を麓の方に移した時、視界の片隅に大きな木箱が移った。木箱の表面の所々に黒い何かが付着している。ディアンはそっとその部分に触れてみた。それは生乾きのようで、ディアンの右手にも付着した。暗くて視覚では判別できなかったが、顔に近づけた時に鼻を掠めたつんとした匂いはそれが血であることをディアンに伝えた。木箱に付着している血が同じ人物のものならば、その血の主は無事ではないだろうな、と変に冷静になった頭でディアンは思った。ふと、ディアンは木箱の蓋の部分に布が挟まっていることに気が付いた。そして、その布を見た途端、嫌な推測が頭をよぎり悪寒が走った。
(もしも、この血の主がこの中にいるとしたら—。)
いずれこの木箱も他の山と共に焼却される。この木箱の中身がたとえ不快なものであろうと明日になればきれいさっぱり無くなってしまうのだ。けれども、ディアンの中に潜む好奇心が、微かな良心が、その蓋を開けろと訴えた。ディアンは固唾を飲み恐る恐る木箱の蓋を開けた。蓋が影となって中身がよく見えない。ディアンは片手をしずしずと箱の中へと入れた。腕を肘あたりまで入れた所で、指先に布のようなものが触れた。分厚い布は何か凹凸のあるものを包んでいるようだった。輪郭をなぞるように指先で布を沿う。布のごわごわとした感触を熱心に感じていると、不意にさらさらとした束のようなものが指先を掠めた。髪の毛だ。そう確信した瞬間に全身の鳥肌がぞわりと立った。
(やっぱり人だ。人が居る。)
反射的に手を引っ込めるのを我慢して、ディアンは髪の毛の奥へと分け入った。ふにふにとした柔らかな感触が指から伝わる。皮膚だ。その皮膚から指先へと微かな温もりが伝わる。よく見てみると布の表面が微かに上下していた。
「生きてるのか?」
ディアンは半開きにしていた木箱の蓋を全開にして、木箱の中を確認した。分厚くて大きい布にくるまった人物がそこに居た。顔は髪に隠れて見えないがディアンと同じ背丈のようだった。空は次第に明るくなり、役人達は順調に焼却の準備に取り掛かっていた。
「おい、ディアン。何突っ立ってるんだ。燃やされてえのか?」
木箱の前で茫然と立っていたディアンの背後から中年の男がディアンに声をかけた。
「おっちゃん、これ…」
ディアンの様子を不思議に思った男はディアンの元へ駆け寄り木箱の中身を見た。
「こいつはぁ…死んでるのか?見たところ子供みてえだが。」
「…息はしてるけど、」
「大分弱ってるな。おい、ディアン。この子は俺が運ぶから、これはお前が持ってろ。」
そう言って男は持っていた布袋をディアンに渡し箱の中の子供をそっと持ち上げた。
木箱から取り出されると、朝日の光によってその容貌が鮮明に見えた。子供の丈より一回り以上大きい布は深緑の外套のようなもので、ところどころ血に染まっていた。栗色の髪の隙間から固く閉ざされた瞼が見えた。呼吸は浅く小さい。今にも死んでしまいそうな衰弱ぶりにディアンは思わずその子供から目を逸らした。
「もうすぐ役人どもが火を放っちまう。急ぐぞ。」
「あ、ああ。」
急ぎ足で進む男の後ろをついていく。柑橘の香りが風と共に鼻を掠めた。朝日が工場の屋根から顔を出し、宝島を去る3人を煌々と照らした。




