秋から冬へ
銀座の中央通り近くにありて、靴の木型(ラストLast)より起こし作成する店あり。韋眞子頻りに英国などへ発注し、木型より起こし靴作らしむも、不便ありて、国内に店を探し、うち一つに、頻繁に作製を依頼するやうなりたる。
今日は新しきブーツに新たなる木型を作るとて、さまを看、皮革の吟味も兼ね、銀座を訪ふなりけり。
「わたしを荘厳するにはさまざまな方便を用いなくてはならないわ。たとえば眞言宗の僧侶が塗香し、身密口密意密を整え、灌水して三鈷杵や十字金剛羯磨杵を手に念じ、魔を裂き、印契を結んで護摩壇を焚き、観想によって五色の雲や水晶や七宝や紫摩黄金で荘厳された道場を現象させ、その至高の空間で宇宙主宰の法身仏と合一するようにね」
3Dスキャンやら石膏による型取りなどにあらず、敢えて手作りせらゆる木型に拘るは、すなはち刹那のかたちを写せるとて、うつせみのフィットの感に繫がらざる、といふ現実理の妙義あればこそ。工匠職人の知識と経験の総和なるもの、すなはち勘に拠るしかあらざればなり。
韋眞子、靴屋に着きて小さき古き店の奥なる靴用ミシン置かれたる作業部屋に入る。油や墨に汚れたる、疵あまた附きし革の前掛けしたる職人の、キップ(生後6か月より2年くらいの牛からなる革。なを生後6か月に満たぬ仔牛よりなる革をカーフといふ。カーフは疵少なく、しなやかなれども、キップ革は強度と厚みに優る)に型紙を当て、革包丁にて裁断するを見ゆるなり。
「これですよ。ちょうど、ご注文の革を手裁ちしていたところです」
「グッド・タイミングね。さすがわたしだわ」
職人頭、眼を丸くし肩を竦めぬ。
革を手に取りて確かめ、また初めて見ゆ木型を撫で、愛でたり。
「美しいわ。藝術ね。実用の藝術。眼を樂しませ、肌を樂しませ、鼻腔を樂しませ、歩みを樂しませる。あゝ、美しい。傀儡であろうとも。
そうよ、それでも敢えて果たすのよ。
生活を賛美し、生を肯定する、自分を飾り立てる本能は間違っていないわ。子孫繁栄の法則とも合致するし。ふふ」
さやう言ひて髪靡かせ、狭く種々雑多に物散らかりたる作業部屋を、身体より発する光輝にて照らす女王のやう、韋眞子女は振舞へり。
靴屋の用を済ませども帰らず、外堀通りに出でて、銀座6丁目交差点にて曲がり、並木通り(銀座7丁目)のルイ・ヴィトンLouis Vuittonに入りぬ。ヴィトンと言へば、モノグラムなるが人気と言へども、敢へてマルチ・カラーを選ぶ癖ありき。
マルチ・カラーのブラスレ・ラック・イットBurasure Rack It(仏:Porte-Burasure Il)をぞ以前購入せしことある。ブロン(白地)を買ひけり。されどもいまノワール(黒地)をしみじみ見入りたり。想ふ。装飾品や、装身具とかやといふもの、もともと神物霊鬼に係る意味あり。たとへばマスカラなど中近東などにて眼の災ひを避くためにぞ行ひにけるあり。
「そう言えば」
最近放映されしテロのニュースを思ひ出しけり。凄惨なりき。無辜の人(少なくも韋眞子には無辜と思ほゆる人)、その数十名なる生命の一刹那に失はれし暴虐、赦し難き残忍限りなき事なり。
この世は昏く復讐と憎悪怨恨に満ち満ちにてあり。ただただ空しく暴力ぞ猛威をふるふ。正論を言ふ心正しき者らは往々力弱く、眞實正義は儚し。善人皆暴力のまへに屈すなり。屈してしまわざるを得ざり。口惜しき事果てしなく、天涯を越へ叫び貫かむや。無念の情、切歯扼腕ならざらむや。韋眞子、考ふるなり。
「復讐を肯定することに問題があるかもしれないけど、現実がこうである以上、少なくとも当事者が当事者に対して爲すというあたりまえな原則を守らなければ、恐ろしい血の報復の連鎖を生むわ。
加害者でない者が復讐され、被害者でない者が復讐を叫ぶ。理不尽が異常な残虐を産むのは火を見るよりも明らかだわ。加害していない者が復讐されれば、その憎悪は数万倍になる。人の憎悪の法則は怖ろしい。数千倍、数億倍になる。信じ難い、驚くべき凄惨と残酷とを生む。
それなのに、そういった暴虐は已む事を知らない。あゝ、何て恐ろしい世界。美しくもないし、眞実でもない。美とは百数十億光年もかけ離れているわ。日本だって他人事ではない」
さやうつらつら思ひつつも、ふと気になりしことありて、同じ8丁目中央通りなる本屋に入りぬ。
「そう、これだわ」
セビリャのイシドールスSan Isidoro de Sevilla(羅:Isidorus Hispalensis、五六〇年頃‐六三六年)に関する書籍なり。中世初期のセビリャ大司教なりけり。
ヒスパニアの文明をぞ蛮族の野蛮の氾濫より守りたる。神によりて遣はされし人なり。これによりて六五三年に開かれし第8回トレド教会会議にて、最高の賛辞にて讃へらゆれ、六八八年に開かれし第一五回のトレド教会会議にて、こなる大賛辞ぞ正式に承認せらゆる。偉大なり。
さて夕刻。秋葉原に寄りてPCを覧ずるなり。タッチパネルを試し、いま所有せるより良きレスポンスを択ばむとす。
去る量販電機店に入りぬ。広く絢爛、横溢しあざやかなりけり。
PCならぶコーナー見ゆ。未来を見むがごとき幾何學の明快。さまざまに触れ、観照し、鑑賞する。ふと気附く。
「あ、柊斗だ」
思はず小さき声ぞ洩る。見紛ふこともなき、高貴柊斗たる姿あり。知性に研ぎ澄まされたる高貴の横顔。冷凛とも非情とも言ひ得る、いずことはなく爬虫類さへ連想さしむ無表情。心に疼くものあるやを、韋眞子、自らに問ふ。否や。なし。一切。不可思議なり。奚や恋といふ。知らず。誰か何か知らむや。
「ふふ」
韋眞子は敢へて廻りて柊斗のまへに出でたり。
「久しぶりね」
男、咄嗟に冷淡装ふも眼は泳ぎにけり。やがて理性に拠りて定まりぬ。
「ああ。元気そうだね」
次ぐべき言の葉、繋ぐことなし。韋眞子、微笑み泛べぬ。
「そうね。だいたい元気ね、わたしは。で、あなたは、どう? まあ、あなたも元気そうよね。ふふ」
「そうでもないさ。忙しくてね。研究室はストレスが溜まるんだ」
「でしょうね。一杯飲みにいかない?」
コンマ一秒、途惑ふも、
「いや。残念だけど、時間がないんだ。さっきも言ったとおり、忙しくてね。いまも研究室で使う私物のPCを探していたんだ。すぐに戻らないと」
「あら、残念ね。じゃ、またね」
柊斗がさやう言ふと知りて敢へて訊きし問ひなり。自らその心余裕を悦び樂しむ。力在りし者力試して樂しむがごとし。探せども気に入りしタッチのPCなし。あたかも沙漠のごとし。
独りCaféにて飲めるエスプレッソ。テラス席にて。未だ九月といへども、この日、太陽沈みし後はやがて気温下がりけり。すみやかなること幽門の開くがごとし。人出でず。歩道にはみ出す椅子に坐す。風立ちぬ。舞ふチラシを靴にて踏む。見遣れば璃厭の個人展を小さき画廊にて催す知らせなり。
拾ひて埃をきれいに払ひ、丁寧に折りたたみて卓上に載せ、砂糖壺の下に飛ばされぬやう置きたり。
「これで義理は果たしたわね。後はどうなろうと知らないわ。誠意は尽くしたもの。これ以上、わたしにはどうにもできないし。それにさ。
彼も望んでいないわ」
秋の日のバイオリンの長き嘆きのやう、切なき抒情、よきシャンパーニュのごとく美味し。心昂らせ、余情の旋律深きに陶酔さしむ。この恋成就する兆ししあらむとても、成就させるは余りに惜しきほど。
飯佐之あみの影響多し。彼の女と知り合へし事、何とも言ひ難き昂揚をぞ覺ゆ。樂しみ限りなし。スマートフォン鳴る。
「おはよう、韋眞子、元気?」
「いま8時よ、夜の。時刻はわかってると思うけど」
「それが何だって言うの? 眠くないもの、夜じゃないわ」
「何なの? ブッシュマンBosjesman」
阿蘭陀人よりブッシュマン(藪の民)とぞ呼ばれたるは、「カラハリ砂漠の叢林に住まう自由なる人」の意なり。彼の族をサンSan人と謂ひ、阿弗利加大陸南部のカラハリ砂漠にて狩猟採集する民族なり。
かつて彼ら「日が沈むは、我らが眠たくなるゆゑなり」とぞ言ふらし。あみはこれを以ていふなり。
「そうよ。あなたも知っているのね」
「いらない知識には事欠かないのよ」
「『日が沈むのは自分が眠くなるからだ』ってね。あゝ、素敵ね。それが自然な人間の感情だし、自然と一体になって生きる人間の感情なのよ(ブッシュマンみたいに時間が合えばね。わたしはまだまだだわ)。自然で、眞の意味で自由なのよ」
「かもね。
わたしも自由になりたいわ。もっとね」
「え? それ以上?」
「あなたにだけは言われたくない!」
「あははは。そうよね。ねえ、これからシャンパーニュでも飲まない?」
「わたしはあなたみたいな自由人じゃないわ。勤め人なのよ」
「じゃ、金曜日ね」
「しょうがないな」
「そう言えば狩りはどうした?」
「狩り?」
「璃厭のことよ」
「あゝ・・・。ゆっくり樂しむわ」
「そうね」
素気なく返答するなり。
ただ1秒の沈黙ありき。あみは韋眞子の恋心の薄れしを感じ、また韋眞子はあみがさやう感じゐるを感じ取りをり。さやうあるをあみもまた知らずゐるものかは。またまた韋眞子も観ずなり。
その夜、韋眞子、帰り独り歩めばつづ(粒々)なる星、天鵞絨のごとき天穹に眞砂のやう鏤められ、百億光年の彼方にあふれあり。あゝ、大地や海の広大なること限りなし。されども光は一秒にて全陸海を七周り半するといふ。
とても光さへ、到るに八分超ゆる彼方の太陽は、炎球とぞ見ゆるも、地水全ての百十倍なり。一切思料を絶すれども、夜の星さらに大きかるべきものあまた、また遙か遠し。光達するに十億年を要すも珍しからずなり。
遠き平安時代さへ千二百年。さなる二十万倍といふ歳月を想像し得るものかは。さやう想像さへかなはざる永き歳月を光さへ翔ぶべきといふ距りを想ひ画かゆるものかは。想像絶すはまさにこれにありなむ。
あゝ、天よ。吾がまこと恋せしは汝なり。天の御中なる北極星よ、北の辰なる七星よ、天の川よ、あまたの星々よ、卿らなり。誰かそれを地上で理解せんや。さやうなる者、稀有なり。もしゐるとせば、地上に堕ちたる、翼折れし者のみぞ。夢にあらはれし魔族の貴公子、吾が脳裏に翻るその白き美麗。または十二枚のうるはしき翼持つ熾天使や。
虚し、さやうなるロマンチズム。ナルシシスムにしかず。ただ時は逝くのみ。
「もうすぐ中秋ね」
中秋の名月の候。八月十五日と書きて「なかあき」と読むぞ読む俗あるは「中秋」に由来せしとかや言ふらし。古来、春夏秋冬は正月より三ヶ月を置くごとにあり。七、八、九月は秋なり。季節には初、中、晩あり。八月は秋の眞中にて、十五日は月の眞中ゆゑ、これ「中秋」とぞ言ふ。唐土にては初、中、晩を、孟、仲、季といふ。旧暦なる四月(初夏)を孟夏と言ひ、また、中秋を仲秋と言ふはこれなり。すなはち仲秋といふは葉月を言ひ、十伍日のみを差すにあらず。
さてこのこと陰暦にしあれば、対応せる太陽暦日は、年によりて異なるなり。壬辰の年(平成廿四年)にありては長月(九月)の卅日なりき。癸巳年には長月十九日なりき。甲午は長月八日。乙未は廿七日。丙申十五。丁酉には神無月(十月)の四日なり。戊戌は長月廿四日。己亥十參。
その夜もまた、大日如来(摩訶毘盧遮那如来)も鎮座ましますやと見紛ふ満月輪(に近き円月)の頃なりけり。この年は秋分に近き日なれば、韋眞子、眞神にあり。
家の縁側にをり、夜空を仰ぐ。芒を差して飾れり。鈴虫の音玲凛なり。盞を傾けぬ。清酒きよみてすみたり。名月を映す。風涼やかにしてそこはかとなく草葉を揺らしむ。囁きのごとし。皓々たる月、銀の眩きと白の眩き力を合はせ照るなりけり。清涼怜悧なること筆舌及ばず。心すがきこと、えも言はれじ。甚深精妙なりけり。星遵へて燦めきの海を渉る月なる舟、神々しき哉。マハー・ヴァイローチャナमहावैरोचनを満月輪に観想せよといふ摩訶止観の妙も此處に在りしや。
秋とぞ言へども紅葉未だ遠き。団扇に髪を扇ぐ。柔らかき黒髪揺れそよぎたり。光の粒散るがごとくにて、すがし燦粒を流し眼にて眺め遣りしも、秋深まりぬときを待ち侘びるとは、山野の紅葉、黄葉に染まるを愛せばこそかくあらめ。
まこと眞神の秋は錦繍といふに相応しき艶やなり。金襴緞子も、螺鈿施せし紫摩黄金の蒔絵も、色喪ふなり。さりとても、幽かに霞む枯淡のそこはかとなく匂ふ、何處か懐かしき日の本の国の絢爛、韋眞子、魂魅せられ、これを愛す。
璃厭のことは何ごともなし。画廊に通ふもあの日限りなり。遅疑逡巡に非ず。獅子が肥へたる鹿を見て、貪る時機を伸ばしつつ、樂しむに似たるや。否。または贅に飽ひたる王皇が畸形なる精神の、歪みたる悦樂せしや。否。捉へ難くて何とは言へぬもさらさらと清みて明晰なり。秋日の天晴れの陽射しのごとくに。
某日、某カフェにて曰く、
「なぜなら、わたしの人生がArtだからよ。当然そうなのよ。これは美だわ。
むろん、わかるわよね、あみ」
「わかると言えば納得しないくせに」
「そうよ。まるで古代の女神のようにね。メソポタミアのウルか、ギリシアのアテネか、異教の都市の神殿に荘厳される女神のようにね。
ギルガメッシュの王都の城壁の上に立って、自分を袖にした王を呪詛する女神イシュタルのように、よ」
「ぅふん。わたし、いつの日かギュスターヴ・モローGustave Moreauみたいな雰囲気のあるイシュタルを創ってみたい」
「モローにそんな作品あった?」
「たぶん、ないわ。イメージよ。そうなの。何だか、あたりまえのように、それが住みついちゃっているのよね。既に過去に見たことがあるみたいに。わたしね、少女時代にユイスマンス読んで以来、イメージ上のギュスターヴ・モローってのが焼き付いちゃって、頭から離れないのよねー。
ねえ、楓が染まる頃に、あなたの故郷に行きたわ」
「むろんよ。『随神に神の幸はふ邦。神なる侭に神さびせす眞秀ら』よ。いつ来ても素晴らしいわ」
「言葉の意味がわかんないよ。何語? 何て言ったの?」
「日本語よ。『神様が神様として幸運に栄える国。神様のままに振舞う素晴らしい場所』って意味よ」
「神聖な場所らしいわね」
「そうよ。あたりまえじゃん、わたしの生誕の聖地だもの」
「じゃ、美神の聖地巡礼で。睿智の杖を持って往かなきゃならないかしら?」
「わかってるわね。美こそが睿智よ。睿智が眞実を創造するからね。だからArtが生きる意味なのよ。太陽のように肯定的な人生だわ」
冬。眞白き里に藁葺の納屋、墨痕のごとし。鬱たる杜岡も白く、葉陰が筆の穂先の跡にも見ゆる。煙突の煙か細く消へ、烏侘し。韋眞子、師走、正月一歩も家より出でず、尼のごとく清楚に暮らせり。さりとて一の小説を書き上げにけり。美麗なる高貴の血統にしある逝にしへの族なる、悪魔の貴公子の跳梁跋扈せしdécadence小説なりき。酔ひもせず見し夢。
『美しき哉、アート。文藝も又、美ぞ眞實也。』完