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りおん

 霽天蒼穹雲薄く、風に薫あり。韋眞子、マンションを出づる。

 歩道歩めば、さやかなるさ緑の萌え葉の候。桜樹の幹には薄き緑の斑紋、鬚長き濃き苔などを添へ、華咲き始むる。冬には欅に隠され忘れらゆるも、人春に驚きつ想ひ出だす。

 歩きつ眺む。樂しまざるものかは。厳つき皺入る古樹にかくも鮮やかなる明かき桜華咲くの妙義、えも言はれじ、筆舌尽くせず、喩へなし。

 バスに乗り駅に着きても、彼の(ひと)の思惟も独り奔る。春は悩ましき哉。のどけき(そら)に、倦みたる夢想、朧月夜の猫のごとくに蠢き騒ぎて妄りに膨らみ、奇々怪々に爛熟し、腐敗のごとくも(めぐり)亂れ、氣怠し。

 人入り亂れ混ざり雑ざる東京駅、新幹線に乗りぬ。

 さて、()(さな)子女(こじょ)、春分の節にありければ里へ帰るなり。

 天之家といふは眞神の里の舊(旧)家にて古くは眞神の貴族なりき。而して屋敷は眞神の邦の深き處、聖なる眞神の御山の入り口なる、杜の鬱蒼と繁りたる丘の上に建つ。集ひたる臣下の家の(ともがら)と正装し、御社なる墳墓にて祖霊氏神を祀り、後に族郎党を率ゐて眞神山の大々御々社(眞神神社なり)を参拝す。桜下の盛宴あり。

 翌朝、すべての儀を終へて復た東京へ戻るすがら、兼ねてより詣でむとぞ希ひたる畝邨(ほむら)(眞神郡畝邨村)の古刹、貞観正國寺(ぢゃうぐゎんしゃうこくじ)に詣でし。小型鞄よりペンタブレットを取り出だし、山門などスケッチするなり。スマートフォン用ひて撮影す。貞観と言へば唐にもありし元号なれども、日の本は八五九年より八七七年をいふ。歳月に相応しく古き薫り、斎々しく威厳あり。 


「この聳える感じ、風格、魂を捉えるのは、とてもペンじゃムリね。じゃあ、筆で、って言いたいけれど、もっとムリね。わたしには」


 敷石続く老樹大木の道往けば、法隆寺のごとく廻廊に囲まれたる伽藍の偉容見ゆるなり。スマートフォンの音声録音機能スイッチを入る。自らの言を記録す。


「凄いわ。そうね、蒼穹に伸び上がるような感じ。澄んだ(おお)きさと言うか、玄く沈んだような荘厳さ、あゝ、まどろっこしい。舌が(もつ)る。五重塔は東寺より大きく見えるわ」


 韋眞子、門をくぐりて廻廊の中に入りぬ。男ありき。金堂の石段に坐し、五重塔をスケッチせし。眼鏡し、黒髪整へ涼やかなる顔立ち、指は細く長き。風情に惹かゆれ、しみじみ眺むる。

洗ひ晒せしリーヴァイスLevi's穿き、破れしコンバースConverseオール・スターAll Starぞ履く。左手首にパテック・フィリップPatek Philippe のカラトバCalatravaあり。

 未だ春浅くも白きシャツのみにて、頻りに鉛筆を走らす。韋眞子、高さ五十五メートルといふめでたき塔を仰ぎつつ(よぎ)りて金堂へ上がらむとし、その描きたるを見し。

 見ればあやしき奇しきとぞ覺ゆ。大和葺の裳階屋根、高欄、雲形斗栱、頂上の相輪ぞ精しく描ける。


「昔の建築を研究しているんですか」


 意せず韋眞子、かく問ひし。男、問ひに一瞥さへ与へず、あさみし(こと)ざまにて、


「いいえ」

「あ、すみません、その、デッサンされてるかと思ったら、そうじゃなくてパーツの筆写してらしたから、ちょっと驚いて、思わず声掛けてしまいました。『ああ、敢えて写真じゃなくて、筆写で記録する研究方法もあるのか』とか思って・・・・・」

「デッサンです」


 石のごとき表情にて抑揚なく言へり。韋眞子、棘々しき気持ち生じ、


「え、何よ、その言い方。そんな建築の図面みたいなパーツの絵描いてりゃあ、研究かなって思うの当然じゃない!?」 

「いいえ、絵のためのデッサンです」

「はあ? 

 悪いけど、図面にしか見えないわよ。そうね、パーツの立面図か、展開図の部分みたいなものにしか・・・・・」

「別にこれをそのまゝ絵に使うわけじゃない。飽くまでも準備だ。資料だ。そういう意味ではあなたの言うとおり研究です。下地にするんです。

 表に出ない部分も知らなくてはリアルな絵は描けない。すべての方向や角度から見た全体像を知らなくては生きた絵は描けない。生きた線は引けない。リアルな像を結ぶことができない。当然の話だと思うが。リアルはすべての細部の総和だ。見えないからと言って存在しないことにはならない」

「そう? 見えるってことが実在の根拠になるのかしら」

「見えないことは非存在の理由にはならないと言っただけだが」

「そうですか。そうでしたね。

 失礼しました」


 さう言ひ、頬膨らませ、金堂へ上がり、須弥壇上に仏・菩薩、諸天の像を拝み仰ぎぬ。仏や菩薩の螺髪、白毫、肉髻、尊し。宝冠や瓔珞(ようらく)臂釧(ひせん)や腕釧、金箔の光背、炎の後背を恍惚と観る。

 菩薩の裳裙(もくん)、その紋様、いと奇しく、正面中央部と左右各々の前後の計五箇所に襞を作り、石帯といふ紐にて結ぶなり。インド古典舞踊にても同様らし。細長い条帛(じゃうはく)を左肩より右脇下へ通し、背中より再び肩に回して左胸にてその布端(ぬのはし)を、左肩・右脇へ通せし布の下へとくぐらする。天衣(てんね)を肩に回し手に掛けるなり。

 天女は唐代貴婦人のすがたなり。(くん)()の上へ、がい(とう)()を着、肩に背子(はいし)、まへに(へい)(しつ)を垂らしむ。腕は長袂衣(ちょうけつい)(しん)()(ひれ)(そで)。腰に緒を結び、(くつ)を履くなり。

 神将は胸甲、籠手、前楯(まへたて)(腹甲)、脛甲(すねこう)、腰甲、肩甲などの甲冑とともに天衣、裳の下には袴を身に着け、沓を履くなり。

 眺むるほどに天界の光景、眼のまへにひろがり、五色の雲やら光彩陸離にて、厭はしきこと数多ありてもやがて忘らゆる。ぎゃう(形)さまざまなりて飽かず覺ゆ。

 藝術は心魂を癒やすなり。神聖崇高は心を霽らし、清らかに澄み明らめ、かろらさやかにすなり。これぞ生命の(すい)、精髄と知らゆる。

 元来一切アートは祭祀なり。祭祀は現実の用なり。藝術は現実乖離せず。

 ラスコー洞窟Grotte de Lascauxやアルタミラ洞窟Cueva de Altamiraの壁画を想へ。狩りたき想ひの実現、希ひの成就が行爲され、洞窟璧面に表象せらゆるなり。縄文の火炎土器、殷の青銅器を見よ。生活、儀礼儀式、神への崇拝、畏敬に美を求め、美を生む。

 また曾て語り部の語りしすべての物語は歴史にしありて事実なりき。それゆゑ眞実の迫る情あり。人は涙し、勇気を鼓舞し、精神を涵養す。

 人は現実を強く念ふ。架空を求むも現実を変へたき希ひなり。すなはち現実への欣求が動機原因なり。また現実逃避もしかり。現実への心深きがゆゑに心疵痕し、これを逃れむとぞする。

 一切現実へのゾルゲSorge(関心。気遣ひ)なり。畢竟これ自らの未来への意識より生ず。自らの生命を尊ぶが原義なれど、すなはち子孫繁栄、またもや種属の存続への希求説に遂する話なり。

 一頻り考へ、韋眞子は立ち尽くすおのれに気づけり。心既に清められ、清々しく善し。


「さあ、行こう」


 堂を出でて階に戻れども、既にすがたなし。五重塔など眺む。柱に龍神の絡む、深きいはれあらむ、ゆかし。

 再び想ほゆ。

 藝術は樂し。祭祀なり。装飾なり。歴史なり。日々幸あれと望む生活、心昂らせ歓ばせる飲食衣裳家財道具、誇らかに魂高めし民族の事実、すなはちすべて現実への関与なり。

 境内を廻り終へ、駐車場へ赴き、レンタカーに乗る。イグニッション・キー捻りき。

 樹齢重ねし高き老木列する古街道を走るに、背後に天蓋のなきアンティーク車を見附けり。


「フルオープンにしたベントレーだわ。二〇年代か、三〇年代の古いやつ。この季節に幌外すのは早過ぎない?

 て言うか、昔のイギリス空軍みたいな革のヘルメットに、ゴーグルって、何なのよ。典型的なAnglofileイギリスびいきね」


 スマートフォン鳴る。マイク附イヤホンを片耳に差し込む。差し込むと同時に通話始まりぬ。


「もしもし?」

「あー、韋眞子か? そうだろ? 昨日、そのヴェイロンBugatti Veyron 16.4におまえが乗っているのを見かけたんだ。BBはどうした?」

「誰?」

「早蕨だよ、いまおまえの後ろを走ってる」

「え? ベントレーの男、()()くんだったの? そっちこそ買ったの?」

「ああ、そうだよ。スピード・シックスBentley 6½ Litre & Speed Sixさ」

「って、マセラッティMaserati GranTurismoはどうしたのよ」

「あるよ、東京に置いて来た。2台乗って来られないからね」

「ええ! 両方とも東京で使ってるの? てっきりこっち(眞神郡)で乗るための車かと思ってた!」

「想い込みだね」

「ふつうだよ。何で交通の発達した東京でそんな車2台も持つ必要があるのよ、不経済じゃん。駐車場とか高いでしょう」

「価値観の相違が思い込みを生む。おまえ、すっかりヤマトに染まっちまったな」

「世界共通の価値観よ」

「僕らは眞神の部族だぜ。他の連中とは違うんだ。あゝ、これはくだらない選民意識さ。そういうおまえこそどうなんだい」

「わたしのはレンタカーよ。こっちで借りたのよ」

「僕はその方が驚く。どこにヴェイロンのレンタカーがあるんだ」

「あーら、此處は眞神よ。ヤマトとは違うのよ」

「ふざけるなよ、そうか、天之家に自動車販売している家があったな」

「そう、哥舞伎くんが世話してくれたわ」

「あゝ、カブキって、天之哥舞伎先輩か! それでわかった」

「ところであなた、その車で来たってことは東北地自動車道で帰るんでしょ? わたしとは方向が違うわ。海の方へ行くから。安房市で返すのよ」

「そうか、じゃさよなら。次の信号でお別れだな」

「2㎞くらい先よ」

「わかってる。それよりおまえの運転が荒いのが気になってるんだ。何かあったか?」

 韋眞子、息やや止まるも、

「ああ・・・・さっきちょっとムカつくことがあったのよ」


 説明す。


「へー、大したことじゃないじゃん。

 たぶん、そいつは(いしだたみ)()(おん)じゃないかな」

「リオン? うーん、甃って聞いたことあるわね」

「そりゃそうだろ。眞神族の一家だぜ。平衛家の臣下の赤門家の臣下が甃家だ。武門の家柄だぜ。僕らより二つくらい年上のはずだ」

「あまり見かけなかったわね」

「イタリアに絵の勉強で留學していたとか聞いたけどな。詳しくはわからない。小さな展覧会にも出品しているらしい。眞神のあちこちで写生してるって聞いたよ。同じ私立眞神校だったから學生時代に見かけたことがある。おまえの言うような、そんな風貌だったはずだよ」

「へー」

「じゃあな、また」

「うん、どっか美味しい店教えてよ」

「フレンチで、つまりラ・キュイズィーヌ・フランセーズla cuisine françaiseで、いいとこがあるよ。青山にね、『アジュール・ド・プルイAzure de pluie』ってのさ」

「わかったわ」

「ご馳走さん」

「独りで行くのよ。決まってんじゃん」

「独りの食事なんて最低だな。何事も心啓いて通じ合い、共感できる友がいるから樂しいのに。

 人生は樂しむ事が目的さ、快感を齎す神経伝達物質を脳から分泌させること、それが人生の目的だ。物的で、無味乾燥な見解だと思うかもしれないが、事実は事実だ。悟りも解脱も正義の崇高感も、愛の高揚感と充実も、自己犠牲の潔い気持ち良さも、あらゆる満足も、科學や哲學に於ける達成の歓びも、すべては結局、そこへと収斂されてしまう。

 事実は曲げ難く、異論はあり得ない。

 ・・・以上、Q.E.D(証明終了の意。ラテン語。Quod Erat Demonstrandum)」

「だから何? そういう気分なのよ。それがすべて。じゃあね」

「らしいな。どうやら機嫌が悪いのは璃厭のせいじゃないようだね。どっちかって言うと、彼はとばっちりを喰らったみたいだな。じゃ、また、今生で」


 安房市にて車返却し、秋田新幹線に乗りて秋田駅へ。盛岡駅へ向かひ、東北新幹線に乗りぬ。旅行鞄ポケットよりタブレットPC出だす。メールチェックし、会社へ二、三通報告書送りき。やがて企画書作りして一時間過ごし、終へてそのまゝタブレット用ひて読書を始むるなり。耽りぬ。車輛の静かなるなめらかな揺れ、樂し。ふつと思ひ立ち、スマートフォンに検索す。タブレットにて『美味礼讃』を読みつつ。言はずと知られたる美食學Gastronomieの大家なるブリア=サヴァランJean Anthelme Brillat-Savarinの名著。

 (をし)へらえし『アジュール・ド・プルイAzure de pluie』ぞインターネットにて調べにける。

 いはゆる新フランス料理以前の料理を扱ふ料理店なり。すなはちヌーベル・キュイジーヌnouvelle cuisine(伝統的なる重厚ソースのフランス料理を、素材の組み合はせの妙によりて飽きのなき、従前に比し軽めなる味にて仕上げる他に、伝統的には使はれざりし素材やら料理方法やらを用ひて作るフランス料理)や、キュイジーヌ・モデルヌcuisine moderne以前の料理を出だす店なり。


「ははん、面白そうね」


 東京駅に着く。着くや否や、スマートフォンをぞプッシュする。アジュール・ド・プルイを来週火曜に豫約す。


 さてその日こそ韋眞子大いに期待し、独り犀の角のごとく赴くなれ。午後六時に表参道駅を降り、外苑へ向かひて南青山を少々歩く。店の外観、ユトリロの白の時代を想起さしむるなり。されど近づきて身の凍り固まるを覺ゆ。

 ガラスの窓にキャンドル、ゆらゆらせし炎にシルエットなすは高貴柊斗、韋眞子の知らざる女と談笑し、食事せるを見ゆればなり。一刹那、帰らむと想ふも、敢然と歩を進めるなり。名を告げ、ウェイティング・バーにてキール・ロワイヤルを舐め、気高く冷厳なる女王のごとく威を崩さず。


「お待たせいたしました。お席のご用意ができました」


 銀髪慇懃なる給仕来たりてさう言ふ。


「案内してください」


 歩み入るも柊斗は気が附かず。傍ならざれば不思議なし。席は彼の方より見れば陰なる場所ゆゑ見らえぬ安堵と見らえぬ不満と双方を覺ゆ。


「こちらでございます」

「ありがとう」 


 白く眩きテーブルクロスの丸き卓、給仕が椅子を引く。坐す。バカラ社製のクリスタル・グラスならび、手まへより白ワイン用、シャンパーニュ用、赤ワイン用、ミネラルウォーター用の4種類なり。

 フォーク、ナイフ、スプーンなど銀器の類や、セーブル焼のあでやかなる器、アルジャンティエによりて寸分の狂ひもなくならぶ。卓上に花添へられ、テーブルクロスの絵柄美しきハルモニアなす。崇高なる完成なり。

 韋眞子、満たさゆる深き笑みを泛べ、それらを眺む。而して柊斗の方を盗み見す。見らえず。焦燥を覺えつつも、見むと努むるべき義務を免れたるかのごとき安堵あり。アンビバレンスambivalenceなる(こころ)

 前菜はフォアグラにシャトー・ディケム。ボルドーの貴腐ワインの逸品、柔らなめらなる甘口にて、フォアグラとの組み合わせは絶妙なりき。心天に舞ふ。藝術は美し。柊斗などいかばかりにあらむや。

 シャトー・ディケムをひとくち口に(ふく)みき。フォアグラをナイフとフォークにて切り、噛みしめ、とろけるがごとき味の妙に恍惚さへ覺ゆも、かつてこなる貴腐ワインをぞノルマンディー産なる仔羊と合わせしとき、同じ感覺せるを想ひ起しし。

 海に近き草を食みし肉汁は海鹽の旨み豊かにて、シャトー・ディケムと組み合はすこと善事の極みなり。

 メインディッシュはカナール・ア・ロランジュCanard a l'orange(鴨胸肉のオレンジソース添へ)なりき。濃厚なる鴨肉にさやかなるオレンジかな。

 首にメダルを下げたる白髪のフランス人ソムリエが笑み浮かべつつ訪ひしとき、韋眞子はサン・テミリオンにすべきか、ポムロールにすべきかを迷ひたり。いずれもボルドーbordeauxワインの雄にて、ドルドーニュ河の北にあるなり。

「さて。ローマ人も愛したボルドー。その数あるワインの中にて、力強く、香り高く、タンニンを多く含み、ボルドーのブルゴーニュとも言われる両者のうち、どちらにしようか。難しい問題ね。

 ふーん、いいわ。きめ細かく芳醇なブーケ、濃いルビーのポムワールも捨てがたいけれど、今宵は八世紀の修道僧、聖ミリオンに敬意を表して、麗しきガーネット色に勝利の凱歌を歌わせましょう」

 慇懃なる給仕が銀の皿に載せたる料理をワゴンにて運び来たるなり。鴨まるごとの形せしそれ、キャラメルベースのオレンジ・ソース、肉の焼き色と合はさり、濃き飴色に輝けり。眼のまへにて切り分けしそれ、セーブル焼の華麗な絵皿に盛る。


「ぅうん、最高ね」


 ひとくち啣み、満面笑みなるもその刹那、 


「ぁはは」


 常ならぬ高らかなる笑ひ聞こゆ。あさましと思ふも、韋眞子のフォーク、ナイフの動き止む。聞き覺えありし声にしあれば。紛ふことなし。柊斗なり。訝しく思ふ哉、彼の男、さやう喜怒哀樂を示す事稀にしあれば。度し難し。止めたるフォーク、ナイフ、小さき音立たしめ、皿の上に擱くなり。心に(ほむら)生ず。

 韋眞子とともに過ごせるときいかなる折にありても、かやうなることあらざれば、胸郭に焼けるやうなりし熱く苦きもの奔りけり。苦く黒き血がどす黒き噴煙のごとく全身を駈け廻るなり。

 人、笑ひたる因なくば笑はず。因あらば果あり。すなはち柊斗の笑はざりしは笑ふべき因なければなり。これを恨むは頑是なきなり。幼少児のわざなり。さやう知りたれども、心滾り已まず。焔獄の火叢のごとし。切なきこと限りなし。

 席を立ちたり。手洗ひへ行くやう歩み、横眼に見むとするも儚し。ただしずかに相見つめ合ひ睦み合ひて食事せし二人あるのみなりき。

 かつて其の場處にて睦みたりしは自分なりとぞ想へば儚し。勘定済ませ、其處を出でたり。樂しみに想ひて今日を迎へ来たれども、(いたずら)なりけり。

 愚昧を爲すべからずと想ふも、心は念ひに従はず、涙頬に伝ふ。外は寒くなりけり。風冷たく、雨なりて桜華散り舞ふ。心に留めるなく、歩む。行方知らず。

 憮然(こころおち)して雨に打たゆれ叩かゆるまゝずぶ濡れ、公園に悄然と坐す。まへ髪額に張り附きて流るる雫、鼻筋に伝ひ、唇曲がりて顎に溜り垂れつつ落つ。虚し。


「どうしたんですか」


 面を上ぐれば警官なり。


「いいえ、何でもありません。大丈夫です。失礼します」


 韋眞子急ぎ立ち上がりて眼を伏せ俯き去る。

 高貴柊斗は東京大學大學院数理科學研究科の學生なり。韋眞子は数理といふを、世俗を超へ清冷なる純粋論理たると想ひあくがれ、知り合ひし日に恋するなりけり。彼の女のまことならざる想ひ込みに奇蹟のやうに合致せる男なりしかば已むを得ずとすべしや。

 さ迷ふまゝに午後九時も半ばなりき。寂しき路なり。狭き道なり。街燈あるも、昏き道なり。我が身いずこにあるやを知らず。ただ異界を眺むごとくアパートや果物屋、酒屋や本屋を眺む。さなる中に小さき画廊あり。

 サイケデリックなるガラス傘附き照明に惹かれ、寄るも、よく見ればさにあらず。エミール・ガレCharles Martin Émile Galléのごときアール・ヌーボーArt Nouveau様式なり。複数名の無名なる若き藝術家らの展覧会らし。

 油絵やオブジェや写眞さまざまある中に、水墨画あり。没骨法にて、すなはち水を引き濃淡の墨を滲ませぼやかし、巌に、鬱たる杜に、岩迸る清流、墨痕のごとき藁屋根の納屋や()()れ上がれる岡を描けり。澄みたる景色なり。吸ひ込まゆるがごとく、しずかに心布地に沁み逝くこそ癒さゆれ。清涼の寂莫さやかすがしき。従前より見えし没骨の妙との相違、すなはち精緻にあり。およそ没骨と細密画とは水油のごとく合はせらえざるものにしあれども、墨調のきよらかすかの幽玄の妙に拠りて、合はざるものが合ひ、奇蹟のハルモニアぞ()れ在りし。美なり。


「素敵だわ。凄い。いったい、」 


 その名を見遣れば、あな、


「甃璃厭・・・・」


 


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