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ヒュー・オーウェルの約束  作者: 月永こん
第一章  森の娘
2/3

「… …若さを、無くす?」


 綺麗な造形の中で、金色の瞳だけが揺れる。 


「そうです。私には不要なんです」 


 そう重ねたが、魔術師は不安げにサーシャを見つめるだけだった。


「私はこんなでも、一応は若い娘と言われる種類です。森の奥深くに一人で暮らすことに、不安が無いわけじゃありません。こんなであるがゆえに、だからこそ、蹂躙されるかもしれない。私は平和に暮らしたいんです。一人で、この場所で。何物にも邪魔されずに」


 魔術師の瞳を見据えながらサーシャは、自分の気持ちを訴えた。

 黙って聞いていた魔術師だったが、一度瞳を閉じた。

 そうしてしばらく間を空けた後「わかりました」と告げる。


 「あなたのお望みのままに。けれど、若さを失った分、あなたは寿命も縮めるかもしれない。それでも構わないのですか?」 

「ええ、構いません。私は、何にも縛られず構われず、振り回されない、そんな日々を過ごしたいのです。色んなことに振り回されて委縮して惑わされて、そんな生き方はもう耐えられないんです。長くつらい日々が人生ですか?そんな人生などいらない。私は私らしくありたい。たとえ短くても」


 サーシャの悲痛な、そして音の無い叫びが小屋に満ちた。


 「目を閉じてください」


 魔術師は言う。

 彼女はおとなしくその瞳を閉じる。

 あどけない面立ちの、それを象徴するなめらかな額に、魔術師は手をかざす。

 やがて聞いたこともないような音の羅列がサーシャの耳に滑り込み、その音の端から意識が沈み込むように暗く閉じていった。


 風がサーシャの髪をくすぐる。

 瞳を閉じていることを思い出した。

 ゆっくりと目を開ければ、そこには見慣れた小屋の景色が広がる。

 何が起こったのかしばし逡巡し、ああ!魔術師、とこの世のものとは思えないほど美しい人物を思いだした。

 見渡しても彼の人の姿は見えず、どうしただろうかと思って立ち上がろうとテーブルに手を置き、視界に入るその手に年輪が刻まれていることに驚く。

 両手を反したりまた表にしたりとしげしげと眺め、はっと顔を上げて唯一、鏡のある部屋に飛び込んで覆いを外した。

 そこには、一人の老婆が立っていた。

 深いしわが刻まれ、編みこまれた白髪。

 若いころの面影など、思い出すこともできない。


「やったわ!」


 サーシャは思わず漏れたしわがれた声に驚き、両手で口を覆ったが、鏡の中の人物も同じ動作をしたことで、老婆が自分であるという確かな証拠をつかんだような気がして飛び跳ねた。


「やったー!!」 


 鏡の中、笑顔で万歳三唱する老婆がまるで若い娘のようで、彼女は声を立てて笑った。 

 こんなに愉快な気持で笑ったのはどれくらいぶりだろうか。

 そうだ、お礼を言わなくちゃと魔術師を探したが、もう家の中には姿が無かった。

 足はもういいのかしら。

 深い傷を見ただけに不安があった。

 何しろ半分は自分のせいだし。

 だというのにこんな願いをかなえてもらってしまって。

 今度会ったら、このお礼と罠の件を正直に謝ろうと胸に誓った。

 さて、サーシャは町ヘ行くときのおなじみの格好である黒いマントを羽織って、いそいそと出かける支度をした。 

 こんなお婆さんになったんだもの。 

 もう、町の人間の目に留まることは無いわ。

 久しぶりにおいしい果物も食べたい。

 森の中の果実も手に入るけれど、農園で作った、甘みを追求したそれに比べれば味気ないものだった。

 みずみずしい甘みが滴る果実なんて、もうどれくらい食べていないかしら。  

 籠を持って町へ向かう足取りは、まるで少女のようだった。

 町の商店が連なるこの通りには、いろんなものがひしめくように売られている。

 肉と言えば最近は兎の細かい肉しか食べていなかったので、大きな一枚肉がどんと置かれているさまを見て目を輝かし、新鮮な魚がいくつも籠に載せられた皿を何度も眺め、つやつやと良い色を放つたくさん積み上げられた鮮やかな緑の野菜たちは、そのまま食べてもおいしそうだ。

 綺麗な布や糸が山のように積またそれを眺めるだけで、編み物や縫い物に胸が弾む。 商品の山を縫って歩けども、誰も彼女を見る者はいなかった。

 どれほど居た堪れない気持ちでこの道を駆け抜けたか、サーシャの胸が昔を思い出してきしむ。

 そうそう、とりあえず果物ね。

 気を取り直し、サーシャは八百屋の前で立ち止まると、一等赤い実が入った籠に手を伸ばす。  


「ばあ様、一人で買い物かい?」 


 お店の主人がサーシャに声をかけた。顔を上げれば、赤い実と比べてそん色ないほどつやつやとした顔をほころばせた主人がサーシャを見ていた。


「一人で籠の果物なんざもてねえだろう?全部お入用なら、ばあ様の家までお届けさしてもらうがね」

「いいんですか?」 

「ばあ様と違って、俺は若いからね、それくらいどうってことないよ」


 そう言って笑う店の主人は、17歳のサーシャから見ればどっちかというとおじいさんの分野に片足突っ込んでいるように見えるけれど、今のサーシャよりは若いと言える。


「そうかい、それじゃお願いしようかね」


 サーシャは努めて年寄り臭い言い方をし、その好意に甘えることにした。

 まだ買い物をするからと、あちこちの商店に顔をのぞかせれば、「婆さん、今日はこれをサービスしちゃうよ」だとか「あんたみたいな年寄りに買い物を任すなんて、お身内は何をしてるんだい」とか、いやに親切にされる。

 八百屋に戻るころには、サーシャの買い物かごはいっぱいになっていた。


「こりゃ、ばあ様大漁だなあ。どうれ、全部運んでやるよ」 

「ええ!いやそれはさすがに悪いわよ」 

「その姿を見てひとりで帰らせて、滑って転んであの世に行っちまったら目覚めが悪いぜ」 


 あんまり人を年寄り扱いするものだから、サーシャも言う。


「そんなに年寄り扱いするもんじゃないよ、こう見えて私は案外若いんだから」


 そう言ってつんと澄ませば、八百屋の主人は笑いだす。


「ちげえねえや。これはこれはレディを捕まえて年寄り扱いは悪かった!ぜひこのワタクシ目にお荷物を運ばせてくださいませー!」 


 大袈裟な身振りでそういうものだから、サーシャは笑いだす。


「馬鹿なこと言ってないで、さっさと仕事するんだよ!!」


 店の奥から笑って主人の女房が顔を出す。


「おばあちゃん、この馬鹿が御免なさいよ」


 買い物は後で届けてもらうことになって、サーシャは空っぽの籠を持って小屋へ戻る。

 道々に咲く野花を籠に積んで、鼻歌を歌いながら、明るい気持ちに弾む心が抑えられない。

 振り返れば、来たの森の鮮やかさが昨日の比ではないほど美しかった。

 夕方、八百屋の主人が汗だくになってサーシャの小屋に買いものを届けてこう言う。

 

「ばあ様、確かにあんた若いよ!こんな山奥から一人で町へくるなんざ、もうよしとくれ!!もっと町近くに空き家があるから、そこで暮らしちゃどうだい?」


 というわけで、なんのかんのと親切にしてくれるものだから、サーシャは件の家に引っ越すことになった。 

 もっと町中へと誘われたが、騒がしいところは嫌いだとわがままを言えば「しょうがない年寄りだ」「まあ頑固なんだから!」と皆が笑って許してくれる。

 そうして彼女は、町近くの丘に建つ、小さな家で暮らすようになったのだ。

 不思議な事と言えば、誰も若いころのサーシャを覚えていないということだ。

 両親についてもだ。

 何か事情があってあんな山中で一人で暮らしている寂しい老人というのが、町で語られるサーシャの全てだ。

 魔術師がその辺もうまくしてくれたのかもしれない。

 サーシャは本当に今度会ったら、罠の件をちゃんと謝ろうとさらに心に誓う。

 町近くの暮らしは毎日が忙しかった。

 買い物で会う町の人々が、いろいろとおまけをしてくれるから、彼女も手作りのお土産を持って町へ行く。

 そんなことを繰り返しているうちに、やがてはお茶に呼ばれたりお茶に呼んでみたり、双方が行き来するようになった。

 時には広場で、子供たちに誘われるまま輪になって踊ったり「年寄りの冷や水だ」とからかわれれば、その人物の腕をとって、踊りの輪の中に引き込んだ。   

「全く、ばあ様には敵わねえ!」

 人々の笑い声があふれ、歌が満ち、そんな喧騒の中に身を置くことがサーシャにとって楽しいことになったのだ。

 いつごろからか、茶飲みの雑談が相談事になって、サーシャは町の人々のよい相談相手になった。

 いろんな人たちが心悩ます事案にしっかりと耳を傾ければ、彼らは彼らの様々な醜さが重いかせとなっていることに、サーシャは気付くのだ。

 それは姿形だけのことに関わらず、心持や欲や嫉妬や、地位や金銭やら、彼らは本当にさまざまな自分の醜いところを憎み、けれどそこから抜け出せないことに悩んでいた。

 彼らはサーシャに胸の内を告げ、そうして、その醜さと折り合いをつけて、またどうにもならなくなった時にサーシャにそんな気持ちを預けに来る。

 かつてサーシャをあざ笑った若者たちですら、本心というよりもむしろ、そういうことを言う事によって、彼らが自分の醜さから逃れるための精一杯の強がりであったことを知る。

 サーシャだけが醜く、何も持っていないわけではなかったのだ。

 町の人々の誰しもが、醜く、持ちえないものを渇望していた。

 目が覚める思いとはこの事だった。

 そのことが分かっても、彼女は若さを失ったことを後悔しなかった。

 若さを失わなければ知りえない事だったから。

 これでいいのだ。

 自分を縛っていた自分の糸が一つずつほぐれていく。

 彼女を縛っていたのは世間ではなく、彼女自身であった。

 彼女は年老いた。

 けれど、彼女は今が一番輝いていると自分でも感じる。

 笑いの絶えない日々と、人々に囲まれる暖かさと、誰かに信頼を置かれることと誰かに頼って自分をまかすことも、全部初めて知ったのだ。 

 ああ、素晴らしい日々だ。

 彼女は、家の前にベンチを置いて、町を見下ろしながら深くそう思った。


 季節は冬へ向かおうとしていた。 

 町の人たちは雪深くなる前に町へ来いとサーシャを説得していた。

 しかしサーシャは離れがたかった。

 これ以上森を離れたら、もう二度と魔術師に会えないような気がして。 

 もう一度会って謝ってお礼を言わなくちゃ。それだけが心残りだ。

 そんなある日、庭でトカゲと戯れていたら、背後に気配を感じる。 

 また町の子供たちが彼女を驚かせようとしているかもしれないと、彼女も返り討ちにしてくれようとトカゲを手にしまう。


 「森の娘さん」


 ところが、そこにいたのはあの魔術師で、放り投げかけたトカゲを慌ててもう一度取り直すと、魔術師がいぶかしげにする。


「お久しぶりね、魔術師さん」 


 サーシャは笑顔でそう言った。

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