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ヒュー・オーウェルの約束  作者: 月永こん
第一章  森の娘
1/3

すぺてのはじまり



 私は、醜い。 


 家にある唯一の鏡に覆いをして、私はその場所から離れた。

 何一つとっても、若い女に望まれる美しさがそこにない。

 艶のない茶色い髪にも、陰気な瞳にも、取ってつけたような鼻にも、色味の片鱗すらうかがえないほどの薄い唇にも。

 両手で顔を覆う、この腕も枯れた枝のようで、腕からつながる体も女と呼ぶにはあまりにも骨ばっていた。


 私。

 私は醜い。 

 明るい朝の光が、窓から次々と光を投げ、古ぼけた木造りのこの家にまた新しい朝を教える。

 光の中で舞う埃の粒が、きらきらと光りながらサーシャの周り包んだ。

 どんな陰鬱な気持でいても、いつだって美しい朝がやってくる。

 光が優しく森の木々を輝かせ、やがて光は風を起こす。

 ドアを開ければ新鮮な風が、サーシャの髪を揺らした。

 サーシャは森で一人暮らす。

 両親が存命の時はもう少し町近くに住んでいたが、遅く生まれた子だった為、娘である彼女の年齢にしては年老いていたから、一年前ほどに二人とも次々に身罷ってしまった。

 それからのち、彼女は森のずっと奥、両親がまだ若かった時に建てた猟のための小屋で暮らすようになった。 

 もっと、もっと人目のつかないところへ。

 町は彼女の身をすくませるから。

 彼女は醜かったが、まだ17の年頃の女でもあった。

 小さな町だったから、年頃の男女というのは数も限られているし、人生で最も美しく華やかなこの年代特有のみずみずしさが、人々の視線を呼ぶ。

 どこそこの息子はなかなかいい男になったとか誰それの長女のあの髪はまるで女神のように美しいとか、瞳の色が蠱惑的だとか働き者なのに指先がまるで妖精のようにきれいだとか。

  彼らが歩けば、ふと顔を上げて人々は見るだろう。

 店に入れば、ちらりと様子をうかがうだろう。

 その視線はまた、サーシャにも注がれるのだ。 

 ところが人々は、彼女を視界に認めると、すぐに視線をそらしてしまう。

 年頃の男なら、そのような若い女が一人で店にでも入ってきたなら「やあ、今日は一人で買い物かい?」なんて、気安く声を掛けたりするものだ。

 けれども、誰もサーシャに声なんて掛けない。 

 目が合ったなら、こいつに恋でもされたらかなわないとばかりに顔をそむける。

 それでも、町を歩けば人々の無遠慮な視線にはこそこそとさらされるのだ。

 嫌なら見なければいいのに。

 彼女は固く胸の前で両手を握りながら駆け出す。

 どうせ私は、女という人種に期待される何かを一つも持ち合わせちゃいないんだから。

 最小限の会話で買い物を済ませ、飛ぶように家へ帰る。

 両親はそれでも、彼女をひどくかわいがって、蝶よ花よとばかりに育てた。

 父はサーシャをいくつになっても「小さなお姫さま」と呼んだ。

 父の前では自分は、まるでおとぎの国に暮らす宝石のように輝かしい姫君にでもなったような気持ちになった。

 母も彼女をとても愛した。艶のない髪をいくつも編んで、花を挿しこんでくれた。

 花の妖精のようだと手を打って褒めた。    

 けれど。

 それは両親だったからなのだ。

 サーシャが成長し、町へ一人で買い物へ行くようになって、彼女は気付く。

 私は醜いと。 

 それでもサーシャは女だった。

 男ではないという対称として女だった。 

 若い男たちが集う広場を通り抜ければ、目をつぶれば何とかとか、真っ暗な新月の夜だったらどうにかとか、下卑た話は嘲笑を含んで彼女の胸を突き刺していく。

 構わないでくれたらいいのだ。

 他に何も迷惑はかけないし、誰にも危害を与えるつもりもない。

 私は一人で十分生きていける。

 誰かにすがって生きなければならないほど、生き方は醜くない。

 身を縮める必要なんてない。

 それなのに。 

 町へ行くとき、いつも、彼女は耳を塞いで走るのだ。

 両親の薬をもらいに町へ行く必要のなくなったサーシャは、森の深い小屋にこもる。 鏡に覆いをする。

 醜いものを見て暮らす必要なんてない。 

 森の木々は美しく、小川のせせらぎは煌いた。

 小鳥のさえずりは耳を喜ばせ、土の香りは胸を落ち着かせる。

 世の中はこんなにも美しいものにあふれている。

 それを眺めるのは自由だ。

 例え自分がその美しい世界に、含まれていなくても。


 ある、美しい春の日だった。

 芽吹いた葉が、強くなり始めた日差しを反射する。

 木漏れ日は力強く、陽だまりを森にいくつも作った。

 サーシャは水たまりで弾む様に陽だまりを踏んでいく。

 昨日の夕方に罠を仕掛けた。

 兎の一羽も獲れていればいいけれど。

 仕掛けた場所へそっと近づく。

 目印の木をたどって、後ろへ回って。

 そうしてサーシャは息を飲んだ。

 白い体躯のシカが、罠に足を掴まれ、その細い足から血を流して倒れていた。

 角も相当立派で、体も立派なものだった。

 だけど、こんな大きなシカ、絶対食べきれない。

 そう判断したサーシャは息があれば離してやろうと思いそばに近づいた。

 そうは言っても、角で一突きされればたまったものではない。

 銃を担いで慎重に近づき、足元の棒きれでシカをつつく。

 生死の判断はできないが、目覚める気配はなさそうだ。

 銃を降ろすが片手にはナイフを持ったままサーシャはシカの太い首に手を当てる。 

 温かい皮膚の下から脈動を感じ、まだ生きているのを確認する。

 目を覚ましたら危ないな。

 そう思いながらさっさと罠を外し、持ち合わせた薬草をくるみ、それを傷口に当てながらハンカチで足を縛った。

 この怪我が原因で命を落としたら申し訳ないけれど、それはそれで誰かの命に変わるわけだし。

 森は美しいが、弱肉強食だ。

 人々が心和ませる緑の景色の奥には、生きるか死ぬかという一番重要で明瞭なテーマが存在している。

 サーシャ自身も、いつかは誰かのお腹に入ることになるかもしれない。

 兎を獲るつもりだったのだけど、ごめんね。

 サーシャは呟きながらその足をさすった。

 気が付かれないうちに遠のこうとサーシャは立ち上がり、音を立てないように、またシカから注意をそらさず静かに後退する。

 二、三歩下がった時点で、シカの耳がピクリと動いた。

 まずい。

 サーシャはあわてて猟銃を手にし、大木の後ろへ回る。

 銃のロックを外し、構えながらこっそりとシカの様子を伺った。

 そして、目を奪われる。

 美しいシカは、一呼吸してふるりと体を震わせると、足元から人間の姿に変わっていったのだ。

 命の危機を忘れて、サーシャは呆然とその様子に見入った。

 やがてシカは、黒いローブに身を包んだ一人の人間になった。

 こんな夢の様な事が起こるわけがないと、半分腰を抜かしながら頬をつねったが、痛みで涙がにじむうえに彼の人の足には、先ほど自分がまきつけたハンカチがしっかりと縛ってある。

 ガタン。

 彼女はうっかり猟銃を足元に落とした。


「大丈夫?」


 そう、シカが彼女に告げる。

 体半分木の後ろに身を隠したままのサーシャは、その声に導かれるように大木に添って身をよじり、シカの全体を見た。

 黒いローブが肩まで続き、その上にはプラチナブロンドの髪が顎の付近で揺れる。

 金色の目がこちらを見る。

 その顔立ちの造形の美しさに、サーシャは二度息を飲んだ。


「これ、ありがとう」


 花がほころぶようにシカが笑って、足にまかれたハンカチに触れる。

 その指先もまるで作られたように美しい。


「うっかり罠を踏んじゃって、気を失ってしまったんだ。シカなんかに姿を変えるんじゃなかったな」

「… …なの?」 

「ん?なに?」 

「あなたは… …だれ?」 


 サーシャは魅入られた様にそうシカに問うた。

 人と話すのに、これほど抵抗なく言葉が漏れた事に驚く。

 シカは「いてて」と呟きながら立ち上がる。すらりとした体躯はかなり上背があると見える。


 「私は魔術師ですよ、森の娘さん。最近姿を変える術を覚えたんで、シカにでもなって走り回ったら楽しいだろうなと思っていればこの通りです。森を知らないのに、走り回った罰ですね」


 罠を仕掛けたのは確かにサーシャだから、良心が痛まなくもないが、しかし森とはそういうところであるので、森を知らぬ者が安易に走り回って楽しいだけのところではないと彼女なりの理屈がある。

 だから、罠については黙っておこうと思った。

 足を進めようとした魔術師が、痛みにうめく。

 そりゃそうだろうなあとサーシャは駆け寄る。 


「手を貸します」 

「すみません、傷を治す術はまだ不慣れで」

「うちで休んでいってください」 


 ちくちくと痛む良心が、彼女の小屋へ彼を招いた。 

 なんとか魔術師の肩を担いで、小屋に到着する。

 そのころにはもう、魔術師は脂汗を流して顔色も悪く、口からは荒い息が漏れる。 相当痛むだろうなとサーシャは予想する。

 彼女のベッドに魔術師を寝かし、足のハンカチを開けば、先ほどはシカの足でよくわからなかったが、かなりひどく傷ついていた。

 血は止まっていたので、とにかく傷に薬を塗り布を巻いて、清水を浸した布で上から冷やした。 

 やはり医者を呼んだほうがいいか。

 彼女がベッド際で立ち上がると、先ほどまできつく目を閉じていた魔術師がうっすら目を開ける。 


「どこへ… …?」


 汗がにじむその額を冷たい布でふいてやった。 


「お医者を呼び行きます。傷がかなり深いので」 

「いや、大丈夫」

「でも」 

「大丈夫だから。すぐよくなる。医者はやめて、少し休ませて… …」 


 それだけ言うと、魔術師は意識を手放した。 

 大丈夫、とか言っても… …。

 そうは思ったが、本人が医者は嫌だというのだから仕方がない。

 完全に閉じた目の上の額に手をやれば熱が感じられる。

 桶に水を張って、彼女は魔術師の眠るベッドのそばに椅子を持って腰を下ろした。

 汗の滲む額に冷たい布を当てて、一晩中それを代え続けた。

 朝日が魔術師の顔の輪郭をなぞる。

 熱が引いたのか頬の色も良くなった。

 足の傷に薬を塗ろうと布を外せば、ほとんど治りかけた風で、さすが自身をシカに変える力を持つだけのことはあるなと感心した。

 と同時に、あんなわかりやすい罠にかかってしまうのは迂闊にもほどがあるなとも思う。 

 やがて、魔術師はその美しい金色の瞳をのぞかせた。


「おはようございます。痛みはどうですか?」 


 魔術師は手で顔をさすると、額の布に気付く。


「… …朝?」 

「ええ。傷はだいぶ良くなってますよ」

「あなたはもしかして、一晩中ここに?」 

「私、こう見えても丈夫だし体力もあるんで。一晩くらいどうってことないですから」


 さて、朝ご飯でも、と思い立ち上がりかけた時、不意に手を取られた。 


「… …どうしました?」 


 そう問えば、金色の目がじっと自分を見つめる。

 きれいな瞳だ。朝日みたい。 


「ありがとう。あなたは私の命の恩人だ。もとはと言えば、私が安易に魔術を用いて浮かれていたのがいけない。自分の魔術を過信してそれで死んでも文句は言えないというのに」 


 半分は自分に原因があるような気がしているので、サーシャは曖昧に微笑んだ。 


「いえ、お気になさらず。大丈夫ですから」

「願いを」 

「え?」 

「お礼に、あなたの願いを一つだけ叶えたい。死者をよみがえらせることはできないけれど、私にできる事なら精一杯叶えます」


 魔術師はとても真剣な顔でそう言った。


「何が欲しいですか。金塊でも地位でも、いつまでも続く若さでも。どうぞ願ってください」 


 いつまでも続く若さ?

 それにいったいどれほどの価値があるだろうか。

 そう若さなんて。

 彼女は顔を上げると、魔術師は両手で彼女の手を握る。

 さあ、どうぞとその顔に書いてあるから。

 彼女は言う。


「若さを」 

「はい」 

「私から若さを永遠に無くしてください」


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