第七十九話 誰も救えない天使の話
この町には、天使がいるらしい。
それは台典市に住む子供が、誰しも一度は親から聞かされるおとぎ話みたいなもので、名前にマが付けばなんでも魔が差してしまうような、そんなありきたりな言葉遊びに過ぎない。けれども、この町に住む人の中には、実際に天使を見たという人や、天使に救われた、なんて言う人もいるという。
そんな町の、私が通っていた学校にも、天使がいたという。
誰が言いだしたか、私が入学した時から聞かない日が無いくらい、誰もが当たり前に信じている学校の七不思議みたいなオカルト話。曰く、天使に微笑まれると願いが叶う、らしい。尾ひれは呆れるほどたくさんついて、まるでリヴァイアサンだ。
幸いなことに、あるいは残念なことに、私はその天使というものに出会ったことが無ければ、微笑まれたことも当然に無い。もし微笑まれたとしても、私の願いがあるとすれば、それは天使に会いたいというだけのものであるから、その時には叶っていることだろう。
鏡を見るたび、自分の姿に嫌気がさす。嫌気のさした表情の自分に、嫌気がさす。何が不満なのだろう。何が物足りないのだろう。何が羨ましいのだろう。私には、何が足りないのだろう。
天使。それは確かに私の名だ。私が決めた、私の、私だけの名前だ。私は天使で、私は天使ではない。心の中で、理想に塗れて見えなくなっていくその光を、追い続けている。
それは、人間としてどんな努力をしたところで、成れやしないものなのかもしれない。どんな最高の人間だって、それは天使とは違う。たくさん勉強して、賢い人間になって、誰もに愛されて、良い大学に行って、それで。それで、良い人間になって。それが天使になるということなのだろうか。天使になるために努力するということなのだろうか。
その答えはノーだ。そんなことは、自分が一番分かっている。それはただの、私の人生だ。
才能に恵まれた。誰もに愛されて、何でも吸収して成長した。
環境に恵まれた。失ったこともある。けれど、それは立ち上がることで糧になった。
努力をした。成長のために最良の選択を、正しい道を選び続けた。
けれどそれは、天使になるためのことじゃなかった。ただの、愛ヶ崎天使という一人の人間の人生だ。私が、良い人間になるためのことだ。正しい人間になるためのことだ。誰もに羨望され、褒められ称えられ、比類のない個になった。その結果がどうだというのだ。誰に認められればいい?誰に見つけられればいい?阿弥陀の手も釈迦の糸も、私を掬い上げてはくれないだろう。
天使とは何なのだろう。あの日確かに飛び去ったソレは、私にとっての何だったのだろう。目を背けたくなるようなシャドウ?それとも、人生を変えるツインレイ?その答えは、きっと私が天使を見つけるまで分からない。それまではただ、私は高く進み続けるしかない。
卒業式が終わった。それは学生にとっては人生の大きな節目だ。この日を以て、高校生活は終わりを迎え、高校生としての自分はすべて過去になる。もっとも、月末までは学生証の有効期限が残っているからと、就職にしろ進学にしろ、高校料金を貪ろうと生き急ぐ人もいるらしい。
いつも通りの下校路を、これが最後か、何て感慨をさほど感じないまま下っていく。今日が世界最後の日だとしたって、いつも通りの道はいつも通りそこにあるだけだ。思えば、生徒会長になってからはいろんな場所に出かけていたから、この道はそれほど通らなかったような気がする。それでもこの道をいつも通りだと思うのは、自分の中でこの道を行き、この道を帰った記憶が、思い出として刻まれているからなのだろう。
色んなことがあったようで、思い返してみればなんてことの無い日々だった。きっとそれが、青春というもので、いつか未来の私の心を温めてくれるのかもしれない。きっと私は、そのなんてことの無かった日々の一つ一つを、手を差し伸べた彼ら彼女らのことを忘れていくけれど、記憶の残り火は優しい光となって心を灯し続けるだろう。
ローファーがアスファルトを踏みしめる音が、少しだけゆっくりになって、私は足を止めた。気分が、ほんの少しだけ良い。叫びだしたくなるようなほどでもなく、ともすれば見逃してしまいそうなほど、少しだけ。
駅へと向かう下り坂からは、市街の様子がよく見える。この町で一人暮らしを始めて、ほとんどの地理を把握するくらいには歩き回った。けれど、そんな町ともお別れだ。誰もが信じているけれど、私が三年間歩き回っても、この町に天使なんて見つからなかったのだから。
気を取り直して、また歩き出したとき、自分のわずかな高揚感の正体に気が付く。
「ありがとう!さよなら!!」
最後に言った言葉を思い出して、少しだけむず痒くなって、歩きながら景色にキョロキョロと視線を動かす。きちんとお別れできた。彼女が何と返したかは、もう背を向けてしまって分からなかったけれど、誰かに面と向かって別れの言葉を告げるのは初めてのことに思えた。実家を出る時はもっと淡白で、先輩たちとは帰り道の方向が違ったくらいの何気ない言葉で最後の日を終えた気がする。
私は完璧な人間ではない。天使なんて存在とは程遠い、欠けたところばかりの人間だ。それでも、生徒会長になって、多くのことを掌握できていた気がする。けれどもやっぱり、誰もが幸せになる最適解なんてものを見つけられる力はなくて、完璧ではない選択を、天使だなんて偶像で埋めて誤魔化した。
碧ともきっとあの日でお別れになると思っていた。元旦に彼女の思いを突き返して、これでいいのだと、そう思った。碧には、必要としてくれる人がいる。その人たちは、私に手を伸ばす人のような替えのきく救世主を渇望する人たちじゃなくて、隣で笑っていてほしいと願ってくれるかけがえのない人たちだ。碧の葛藤も逡巡も、きっとすべてを理解することは私にはできない。彼女が求めていることが手に取るように分かっても、それは彼女をダメにする餌に過ぎない。
「最後に一つだけ聞かせてくれ。あんたは、天使は、藍虎のこと、どう思ってたんだ?」
そう聞いてきたお節介な男子生徒の声が脳裏に蘇る。
天使というペルソナで覆い隠していたけれど、今更になって碧のことを思い返す。碧が私のことを好きだという態度をまるで隠さなくなってから(あるいは彼女は隠しているつもりだったのかもしれないが)、その一挙手一投足は他の生徒たちと同じように意思の無い自動人形のように認識していた。信用や信頼という気持ちが薄らいだわけではなかったが、それ以上にどこか哀れで、彼女が私に抱き続けている幻想が剥がれないから、仕方なく合わせているようなものだった。
碧の前で素の自分でいたことなんて、特にこの一年は一度も無い。碧もきっと、そんなことは分かっていて、それでもそれが天使なのだと納得しようとしていたのだと思う。私が進む先に、隣にいる誰かなんて必要が無いと分かっていて、それでも隣にいようとしてくれた。その視線が、その感情が、副会長としてでも、友人としてでも収まり切らない感情であったことは、私も理解はしている。だからこそ、彼女に本当の私なんてものを悟らせてはいけなかったのだ。彼女と別れるためには、私は絶対でなければいけなかった。別れることが運命なのだと、そう思わせなければいけなかった。
こうして別れを終えて、晴れ晴れとした気分になっているのは、碧との別れ方が心残りにならないかと不安だったからなのかもしれない。もしそうならばきっと、彼女のことは私の中でそれなりに大きな存在だったのだろう。
第一印象はクールで知的、なんて皆と同じようなものだった。甲斐甲斐しく色んな所で支えてくれる姿は、秘書かSPか、ともかく物語の中の人みたいで少しかっこよかった。進級して、同じクラスになって、だんだんとそれだけの子じゃないんだって分かるようになった。どこか男の子みたいな無邪気なところや、恋する乙女みたいな慌てた表情に、ああ、この子はきちんと人間の女の子なんだって安心した。
休学が明けて、後から碧が変になっていたという話を聞いた。正直なところ、そこまで自分を、天使を大切に思っているとは知らなかった。碧のことが大好きな友人たちから頼み込まれて、恋と呼ぶべきか呪いと呼ぶべきか、そんな天使の夢を解く羽目になったのは自業自得なのだろうか。生徒会長になってもおかしくなかった彼女は、けれど私の前では空気のしぼんだ風船みたいになっていて、それでも前みたいに胸を張ろうとしていた。はっきり言って見ていられなくて、最善策だなんて言って少し意地悪をしすぎたかもしれない。
碧のことを、嫌いだと言ってしまうのは簡単だ。情けなくて臆病で意気地なしで優柔不断でお節介で見栄っ張りで強欲で、私が好きなことがバレバレのあの子は鬱陶しかった。
でもそれはある意味で、彼女が愛されていて育ったことが分かるから、そう思うのだ。今も愛されて育っているから、そんな風に思うのだ。彼女は私を褒め称えるけれど、私からしたら碧には、私を羨んだり憧れたりする必要が無いほど、たくさんの愛が集まっている。碧の向ける私への目線に、そんな恵まれた境遇から来る憐憫の感情が含まれていることも私にはわかる。その愛情が傷ついた小鳥を助けたくなるような偽善に満ちていたわけでないとしても、その義務感は確かに、満たされているからこそ生まれてくるものだ。私が幸せであるかどうかなんて、彼女には関係が無いのに、私を好きであるがために、それが必須のように思ってしまっているだけだ。
碧のことをどう思っているか。その答えは、今も変わらない。ただ純粋に、幸せを願っている。誰に向ける言葉とも、想いとも変わらない。けれども、誰に向けるよりも確かな気持ちで強く思っている。
気が付けば、もう駅前まで下りてきていた。駅は空いていて、同じ学校の生徒も他校生も見当たらない。
改札をカードで通ってホームに降りる。もうすでに下宿の引っ越しは済んでいる。新居への引っ越しはもう少し先になるが、実家の部屋に中学校の時のまま戻った家具たちは、持っていくつもりが無い。しばらくはあまり好きではない実家で過ごすことになる。
回送列車が勢い良く通り過ぎて、私は乱れそうになる前髪を軽く押さえた。
昔から、どこか遠くへ行きたかった。きっとその先に、天使がいると信じていたから。
初めはいつもの公園から少し先へ。通学の時に見かける駅の名前が見えて、新しく世界が広がった気がした。住宅街を進んで、裏山が行き止まり。少しずつ地理が頭に入ってきて、またその先へ。そうして行けばいつか、世界の全てを知ることができるんじゃないかって、そんな淡い夢を抱いて歩いていた。そうして世界を端まで歩いて行けたら、いなくなった天使に追いつけるんじゃないかなんて希望的観測もしていた。でも現実はそうではなくて。新幹線でどれだけ進んでも、日本の端にすら行けなくて、私がどれだけ前に進んでも、天使との相対距離は変わらなかった。
だから余計に、知りたくなった。天使とは何なのか。私が生まれたとき、母は何を以てそう名付けたのだろう。私は一体、何を求めているのだろう。
天使と同一化しようとしても、私にはできなかった。誰もを救う天使になんてなれやしなくて、そんな存在が赦されるほど、この世界は優しくなかった。あの事件は結局のところ必然だったのかもしれない。自分が天使だなんて錯覚は、いつまでもしてはいられなかった。夢という殻に閉じこもっていても、現実は酷く冷酷に襲ってくる。私から天使を奪ったのも、そんな冷徹な現実だった。
現実にこれ以上何かを奪わせないようにするためには、強くならないといけなかった。それは天使としてではなく、一人の人間として、愛ヶ崎天使という私として。そうしてようやく一人でこの世界に立って、ようやく空を仰げる。
天使とは何なのか。その答えを見つけるために、私はもっと進まなければならない。そして、理解しなければならない。私は何を求めているのか。私はどこに向かって進んでいるのか。
その答えはきっと、空を漂う綿菓子みたいな雲のように素敵な物なんかじゃなくて、けれども確かに、あの日天使に置いていかれた私を救ってくれる小さな光だ。
家の最寄り駅で降りると、爽やかな風が頬を撫でた。温かな春風に、私は空を見上げる。あの日天使の描いた放物線の先を眺めるように。
夢を抱こう。夢を語ろう。叶わないかもしれない、現実の中で擦り切れてしまうかもしれない。だからこそ、いつまでも忘れないように。
これは、誰も救えない天使の話。どうしようもない光に焦がれた私の話。答えなんてないとしても、私はどこまでも翔けていくだけだ。
『誰も救えない天使の話』はこの話を以て完結となります。
構想はしてあるので、蛇足になるかもしれませんが、いずれ大学編を読み切りの形で投稿しようかと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




