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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 三年生
84/85

第七十八話 卒業式。赤。

・主な登場人物

まながさき天使てんし:この物語の主人公。誰もに愛された少女。


藍虎碧あいとら みどり:天使の”友人”の少女。クールに見られがちだが、天使に心を奪われている。


影間蕾かげま つぼみ:商業科の男子生徒。かわいらしい見た目をしており、女子生徒と間違われがち。


初地ういち先生:通称マジョセン。二年が経ち、初めて卒業生を送ることになった。


氷堂空間ひどう くうま:生徒会長になった二年三組の男子生徒。委員会には所属していない。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。丁寧な口調は口癖。


留木花夢とどこ はなむ:三年一組の女子生徒。身長が低く童顔。顔に肉が付きやすい体質のせいで、顔が真ん丸になってしまうことが悩み。


鳩場冠凛はとば かりん:三年一組のクラス委員長の女子生徒。静かな佇まいをしている。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。


田尾晴々(たび はるばる):三年一組のクラス副委員長の青年。チャラい見た目で言動もチャラいため、誰からも信用されていない。性根は優しいが、見た目で損をしている。


有飼葛真あるかい くすま:三年一組の男子生徒。いつも眠そうな顔をしている。実際眠いらしい。ぼんやりしているようで、意思は強い方。行動力はあるが、やる気はない。


橋屋目高はしや めだか:新聞部部長だった商業科の男子生徒。藍虎とは元天使ファンクラブの”戦友”。


廓田怜亜くるだ れあ:三年二組の女子生徒。藍虎をとても慕っている。

 その町の、その学校には天使がいた。


 卒業式を迎えたその学校は、最後に少しだけ、そんな天使のことを思い出す。それは輝く青春の思い出。大人になれば忘れてしまうような、くだらない風説に過ぎない。けれども、そこに天使がいることで、生徒たちは、どんなことも幸せに思えたと、そんな感慨に耽るのだった。


 高校最後の日を迎えた校内は、しかし朝から穏やかな談笑と幸福に満ちた笑顔で溢れていた。今日ばかりはと教師たちも校内でのスマートフォンの使用に目を瞑り、順繰りに教室では写真と嬌声の音が聞こえてくる。ある意味ではそれが、彼女にとってのけじめであり、もうそこには帰ってくることのない天使を、きっといつか忘れてしまう思い出を、誰かの手で繋ぎ止めようとしたのかもしれない。


 桜はいつか散っていく。けれど、満開に咲いて別れを祈ってくれたその記憶を、誰もがまた思い出せる。思い出して、また前に進んでいける。生徒たちがそうして、眩しいばかりの空を見上げるのを止め、自分だけの道を進み始めたときに、もしかすると、ようやく台典商高の天使は救われるのかもしれない。そんな、結局のところただの独りよがりな偽善を写真と共に心にしまって、生徒たちは明るい別れを迎え入れる。






 教室が、別れを惜しんだり受験の結果を話したりする喧騒に包まれている。私は一人席に着いて、いまだ教室に現れない隣席の少女を思う。愛憎入り混じる、とでも言うのだろうか、ともかく複雑な感情が今は心の中で葛藤していた。むしろ決心がつかない今、彼女と面と向かい合わなくて良かったとすら思っている。


 卒業式の会場である体育館へ、卒業生である私たちが移動する十分ほど前に、ようやく彼女はやってきた。実際の所、隣の教室が彼女にあげた悲鳴や歓声で、なんとなくそんな予感はしていたが、ひとまず卒業式を休むつもりは無いようで私は安心した。けれど、これまでの執行部の先輩たちがそうであったように、いつの間にか帰ってしまっているなんて可能性も高い。今後の行き先を注視しておく必要があるだろう。


「……何か考え事してる。そんなに試験不安だったの?」


「ああ、いや。天使がどこかに行ってしまわないかと不安でね」


「心配なら、リードでも付けてみる?なんて、そしたら(みどり)も答辞読むとき横にいないとね」


 まるで明日も学校があるかのように、明日も傍にいてくれるかのように、彼女は冗談を言った。年明けぶりに見た彼女の姿は、どこか大人びていて、よく知った美しい顔なのに、どこか紙面越しの芸能人のように思えた。


「そうだ、写真——————」


 私が天使と最後の写真を撮るためにスマートフォンを取り出そうとした時、間の悪いことに、担任の初地(ういち)先生が教室に入ってきた。どうやらもう移動の時間らしい。


「一組も整列してくださ~い。ほら、男子も身だしなみちゃんとしなよ~?」


 軽快な足取りで廊下へ向かう天使の後を、私も渋々追う。


愛ヶ崎(まながさき)さん、久しぶりに見たけど、変わらないね。いや、変わってるけど、変わらないっていうかさ」


「なんだか珍しいね、有飼(あるかい)が天使の話をするなんて」


 名前順で後ろに並んだ有飼に道すがら話しかけられ、私は初地先生の後ろでこっそり二列になる。


「まぁ、これでも台典商高生だから、興味が無いわけではないよ。みんなが話してるから、俺が話すでもないかなってだけでさ。

 ほら、思えば入学式の時も彼女が新入生代表の言葉をやってたじゃん。愛ヶ崎さんに始まり、愛ヶ崎さんに終わるっていうかさ。その中で、彼女にもたくさん変化というか、成長もあって、俺たちはそれに感化されたりすごいなぁって感心するだけだったり、そんなこんなでもう三年だ。きっと彼女、俺たちが思っているよりすごいんだろうね。でも、彼女はいつまでも、あの頃噂されていた彼女のままな気がする。ずっと遠くにいるのに、呼んだらきっと助けてくれるって思えるような、さ」


「……そうだね。そう言われてみると、なんだか私も、入学式の日を思い出してしまうよ。卒業式なのに、お別れって気がしない」


 教師が注意しても、少しだけ騒がしい廊下の雑踏も、それぞれが旅立っていくための挨拶のように思えた。私たちはお別れするためにここに来たんじゃない。これは区切りの一日で、それは必ずしも終わりじゃない。


「でも、この三年を考えたら結構退屈な行事かもね。珍しいくらいに……別に入学式も、何があったってわけでもないか。あの子も今や副会長だっけ。そう考えると面白いのかな」


「事件も事故も、何事も無いのが一番だよ、ホント」


「あはは、副会長さんが言うと説得力あるね。まぁ、実際そうか。退屈より面倒の方がずっとしんどい」


 肩をすくめて有飼が視線を逸らす。気付けばもう体育館の入り口だった。


 改めて整列させられた後、入り口の幕が開かれた。厳かな西洋音楽が遠くから響いている。


 私は前を向いて一歩踏み出す。これは別れではない。決して、悲しいことではない。前に進む勇気を付けるための儀式に過ぎないのだ。だから最後まで威風堂々と、私は氷の虎として晴れやかで毅然とした顔で進む。彼女が最後まで、天使であろうとしたように。






 長く退屈な校長の話が終わって、在校生代表の二年生が送辞を読み上げた。面識はないが、確か去年の冬に暴行事件に巻き込まれていた生徒だった気がする。傍目でも頭の切れそうな少年で、愛ヶ崎さんと藍虎(あいとら)さんが後任とした理由が少しだけわかった気がする。まぁ、私なら、少しくらい至らないところがあったとしても、副会長の堅苦しい少女を育ててあげる方が楽しいと思うけれど。


 愛ヶ崎さんが答辞を返す。ありきたりな言葉を並べて、そのくせ時々私たちにしか分からないような懐かしい話を入れたりなんかして、絆されそうになる自分にイヤになってしまいそうだ。


 悔しいことに少し涙腺が緩みそうになったところで、周りからもすすり泣くような声が聞こえてくる。ああ、もう、何もかも手玉に取られているようで本当に最後まで嫌な子だ。あなたは何も悲しんでなんかいないくせに、私たちばかり悲しませようなんて。


 目頭が温かい。まだこぼれないでいてくれる涙を感じていると、ひときわ大きな声ですすり泣いている音が聞こえてくる。壇上の彼女も思わずクスリと笑って、事情知ったる私たちもまた、困ったように笑う人と、つい涙を流す人とに分かれる。私のは当然呆れ笑いだ。


 一組の席の一番端で、堪えているのにそれでも分かる藍虎さんの泣き声が聞こえてくる。飄々としているようで、感情の浮き沈みが激しいと気づいたのは、受験期に入ってからだ。彼女が薄めのメイクを好むのは、涙もろいからなのだろうか。


 二年生になって、クラス委員長になったときは、こんなにクラスメイトのことで頭を抱える羽目になるとは思っていなかった。生徒なんて凡庸で、あの子(天使)を除いてどんぐりみたいなものだと思っていた。けれど、誰かさんが水をやるから芽が生えて、あちこちに身勝手な葉が生えて、今では鬱陶しいくらいに個性的な花だ。


 答辞が終われば、卒業式の定番ソングと校歌を斉唱する。卒業式でしか歌わない別れと旅立ちの歌は、いまだにうろ覚えのままだった。校歌を歌うのもこれで最後かと思うと、清々する。ああ、清々する。思えば変な歌なのだ。


 留木(とどこ)さんも泣き始めて、ロクに校歌を歌えていない様子が視界の端で見えてしまう。卒業式何て、そうそう泣くものじゃないと思っていたけれど、この学校には天使の面をした魔物が潜んでいることをすっかりと忘れていた。


 存外あっという間に卒業式が終わり、退場の音楽が流れ始める。最前列の一組は、退場も入場も最初だ。


 退場の合図で立ち上がり、事前に相談していたパフォーマンスをすることになる。もともとは商業科だけがやっていたものらしいが、なんとなく今年は普通科もやることになり、私は乗り気ではないが、仕方なく承諾した。と言っても、時事に乗っかったものは寒気がするし、上手く舵を切って体育祭や文化祭でやって来た円陣を組む方向に落ち着けた。こういう時はクラス委員長で良かったと思う。


 こういうときの先導や音頭は、本当は藍虎さんの方が適任なのだけれど、予想通り泣き崩れて使い物にならないので、仕方なく私がかけ声を出す。


「一組ぃ~~!!!!」



「最高~!!」「最高~!!」「ありがと~!!」「最高~!!」

「フォーエバー!!」「ありがと~!!」「最高~!!!」「うあああああ!!!」「最高~!!」



 動きだけは綺麗にそろったが、かけ声は示し合わせていたはずなのに全く合わず、思わず顔を見合わせて笑い合う。まだ表情をぐちゃぐちゃにしたままの藍虎さんの背をみんなで押して、一列になって退場する。

 なんだか最後まで締まらない。こんなクラスの長だと思われるのは心外だ。だけれどなんだか、楽しい高校生活だったといつまでも笑って話せそうだ。






 教室に戻っても、手を離すと視界が涙で溢れてしまいそうで、いつまでも目頭を押さえていた。涙が止まってくれない。悲しくなんてない。ただとても温かい。自分がどうして泣いているのか分からないけれど、温かい感情が目からとめどなく溢れてしまう。


「いつまで泣いてんだよ、もう卒アル来てんぞ~」


「マジョセンの話、藍虎さんのおかげで短くなったから、その分いっぱい落書きできるね。せっかくだし一組で一ページ使っちゃおうよ」


「碧、まだ泣いてるのか?私もさすがにもう……い、いや、泣いてないけどな!」


「…………天使は……?」


 なんとか涙を抑えながら、私は尋ねる。


「ああ、まだクラスの奴と写真撮ってる。まだ教室にいるから安心しな」


「彼女、式の前に他のクラスの人と撮ってたらしいから、藍虎さんが泣き止む前に、案外すぐに帰っちゃうかもしれないわね。まぁ、めそめそしてるようじゃあ、それも仕方ないかしら」


 鳩場さんに煽られ、私は意を決して立ち上がる。そうだ、こんなところで後悔するわけにはいかないのだ。恥ずかしさとか、申し訳なさとか、そんな言い訳は、今日は全部捨てる。きっと、これが最後だから。


 意気軒昂に立ち上がって見たものの、教室を見回してみても彼女の姿はない。


「あれ、いない……?」


「んなはず……あれ、愛ヶ崎は?」


 田尾が近くの女子生徒に尋ねると、曖昧に教室の反対を指さされる。その視線の先の生徒もまた、曖昧に教室の端を指さし、そして天使はいなくなった。


「あら、荷物も無くなってるわ。ふふ、すごい手際ね」


「感心してる場合じゃないっ!」


 私は慌てて教室を飛び出そうとしたが、扉を開いたところで廊下にあふれる人の波に阻まれる。校内の生徒を全員集めたのではないかと思うほどの数の生徒が、廊下に群れをなしている。


「ああ、藍虎先輩。天使のキスも無く、よく目を覚ましてくれましたね」


「本当なら、そうしてほしかったけれどね。それより、どうなっているんだい?」


 ちょうど一組の教室後方扉の近くにいた氷堂くんに手を取られ、私は満員の廊下に引っ張り込まれる。氷堂くんが一言断ると、私と彼をちらりと見た生徒が道を開けてくれた。


「いやはや、少し楽観視していたところがあったのですが、どうも下級生も含めて、()使()()()()()()()()()が欲しいと集まってきたみたいでして。ほら、あるでしょう、そういう文化」


「あったかな……?」


 思い返してみても、歴代会長たちがそんなことに迷惑していた覚えはない。しかし、天使の第二ボタン。そう言われると、俄然欲しくなるのはファンクラブの性だろうか。


 その時、階段へと抜けていく廊下の角の方で、突然に人混みが割れる。どんなモーセかと目をやると、そこにはバツの悪そうな顔で朱野(あけの)さんに手を握られた天使の姿があった。周りの生徒たちは、獰猛な肉食獣のような目で天使を見つめている。


 ぽっかりと空いた二つの人並みの輪がだんだんと近づき、やがて一つの円となる。執行部に引き回された私たちは、夥しい視線の中で引き合わされた。


「手荒になってしまいすみません、藍虎先輩。ですが、これがきっと一番良い」


 氷堂くんに背を押され、私は天使の前に立たされた。ざわざわとしていた廊下の喧騒が、動向を待つように静まり緊張感が高まる。天使は困ったように口角を上げて、額に軽く手を当てた。ああ、君は今日も美しいね。


「天使……その……」


 息を整える。きっと、私の目は涙で腫れ、顔もキレイとは言えないだろう。人並みにもみくちゃにされ、身なりも崩れているかもしれない。けれど、伝えるのはこの心一つ。見てほしいのは、この想い一つだ。言い訳も、躊躇も、今は必要が無い。


 こんな状況でもしっかりと私を見てくれている天使を、私もしっかりと見つめ返す。



「————好きだっ!! 君のことが、誰よりも!!」



 廊下の緊張がさらに高まる。誰の呼吸も聞こえないほど、時間が止まったように思えた。


 それは、ただの告白だ。


 神に懺悔するような、独りよがりな叫びだ。


 だけど、それが私の全てだった。


 私は天使が好きだ。きっとそれだけでよかった。それ以上に何かが欲しかったわけではなくて、それがイケないことだと思っている自分が苦しかった。だから、関係を進めて肯定してほしくて。

 でも、そんなの、必要なかった。ただ知ってもらえればそれで良かったんだ。いつも笑顔で、みんなを幸せにしてくれて、でも誰にも本当の自分を見せないキミに、本当の私を。もっと人は、誰かに助けられて良いんだって。


 天使は、私の言葉を聞いて、困ったように微笑んだ。恥ずかしそうに視線をそらして、いじらしく足で軽く地面を擦る。そして、右手をカーディガンのV字の隙間にいれた。


 見せつけるように大げさに、彼女はワイシャツのボタンを引き抜いて、コインみたいに親指で私の方に弾く。私の胸元に当たったボタンを、なんとか両手で受け止める。まだ糸の絡まったそのボタンは、まるで一本の赤いバラのように思えた。


 校舎が割れんばかりの嬌声、歓声、悲鳴、囃し立てる声が廊下で爆発する。耳がキンとなるその一瞬で、天使は私にそっと近づいて抱き寄せる。それは愛の告白を受け止めたように見える自然な動作で、誰にも見咎められない。


()()()()()()()()()


 天使はそう囁くと、踵を返して雑踏に消えていった。


「ああっ、また逃げたよっ!!」


 明るい橙の髪の少女が廊下の角で叫んで走り出す。廊下の人混みはその声に引き寄せられるように流れて消えていく。時間が加速したみたいに流れていく人波の中で私は立ち尽くしていた。気が付けば、廊下にはぽつんと私がいるだけだ。


 後ろから軽く背を叩かれ、私はボタンを胸に抱きとめる。


「まったく、これでは執行部で写真を撮るのは難しそうですね。何しろほら、僕たちには事後処理がありますから」


 肩をすくめる氷堂くんは、私の返答を待たずに廊下を歩き去っていった。


 私は手の中のボタンをぎゅっと握りしめる。行かなければならない。それがどんなに悲しくても、苦しくても、お別れしないといけない。そうして、前に進んで行くのだ。


 私は、すっかり静かになった廊下を、ゆっくりと歩き出した。







 それから、驚くほど静かな廊下を抜けて、静まり返った昇降口から校門へ向かった。天使を追って消えていった有象無象の生徒たちの声も、どこか遠い。


 少しだけ眩しく陽の光が私の目に差した。朝はあんなに寒かったのに、今は陽気を感じるほどだ。


 階段を下りて、卒業式の立て看板の前に出てくると、思った通り、植込みの花壇に軽く体重を預けた天使が佇んでいた。息も切らさず、まるでずっと待っていたように、私に微笑む。


「もう、行ってしまうのかい?」


「うん。今までありがとね、碧」


 まるで、もう会えないことが当然のように、そう別れの言葉を彼女は伝える。


「同窓会の案内は、お母様に送っておくよ」


 私がそう言うと、天使は一瞬顔をくしゃりと嫌そうにゆがめた。思えば、彼女のそんな直情的な表情を見るのは、とても久しぶりだった。


「……行けたら行くよ。二年後でしょ?」


「ああ、その次の年も、その次も、毎年開いてもらうよ。キミが来てくれるまでさ」


「ふふ、毎年近況報告ができていいじゃんね」


 私はゆっくりと天使に近づいて、まだ手の中で握りしめていたボタンを差し出す。


「あの、これ……」


「……?取っといてよ、思い出にさ。まさか碧があんなに大胆なことができるとは思ってなかったよ。あ~、恥ずかし」


「わ、私だって、あんな大勢の前でなんて思ってなかったよ……」


「ふぅん、二人きりで告白するつもりだったんだ。卒業式の後で。碧ってやっぱりムッツリさんなんだね」


「む!? ち、違うよっ! というか、やっぱりってどういう意味だい!?」


 天使は悪戯っぽく笑うと、ボタンを差し出した私の手を優しく包んだ。心の奥にしまわせるように、そっと胸に寄せられた手は、大切な誓いみたいだ。


「碧は大丈夫だよ。これから普通に生きて、普通に人を愛して、幸せに生きて。天使なんていなくても、幸せはキミの近くにあるよ」


 好きな人にじっと見つめられて、こんなに近くにいるのに、なぜだか気持ちは穏やかだ。広大な海の波音を聞いているような、突き抜けるような意志が体に満ちていく。初めて自転車を漕いで、いつの間にか父さんが手を離していた時のような、不安で、けれども、自分が一人で走り出したのだという実感。


——————もう、大丈夫だ。私はきちんと進んでいける。天使を笑って送り出してあげられる。


「ね、碧。目……閉じて?」


 彼女の言葉に、私は従順に目を閉じた。視覚が封じられ、他の感覚が鋭敏になっていく。車の通りすぎていく音、風のそよぎ、小鳥の声。

 なんだか彼女の体温が近づいてくるみたいで、意識しなくても唇をだんだんと尖らせてしまう。


「——————!?」


 いやいや、さすがにそれは心の準備がっ!と彼女の肩を押し離そうとして、そこに誰もいないことに気が付く。慌てて目を開けると、車のせわしなく行き交う横断歩道の向こう側、下校路の方に天使は渡っていた。にんまりとした意地の悪い表情で私の動揺を笑っている。


 私は何か声をかけようとして、とっさに言葉が出ない。言いたいことはたくさんあるのに、どれも言葉にならない。車の通りすぎていく排気音に攪乱されて、思考がまとまらない。一台、また一台と通り過ぎていく度に、時間が消えていくように思える。


 彼女のいる彼岸に私は渡れない。見えない赤信号に止められるように、存在しない踏切に阻まれるように、ただ向こう側の彼女を見ていることしかできない。


「ありがとう! さよなら!!」


 天使が、車の雑音よりも、張り裂けそうな胸の鼓動よりも、ずっとずっと大きな声で叫んだ。その言葉は、私の一世一代の告白への返答のように、私には思えた。


「ゔん!!!」


 気の利いた言葉なんて返せなくて、愛してるの一言も言えなくて、私はただ、大きく頷いて崩れ落ちた。彼女を笑顔で送り出したかった。絶対に泣くもんかと、彼女の去る背をしっかりと見送った。

 いつも通りの、けれどこれがきっと最後になる下校路の風景が滲んで見えなくなるまで、ずっとそうしていた。







 教室に戻ると、クラスメイト達はまだお互いの卒業アルバムに落書きしあったり、写真を残したりしているようだった。ちらほらと他のクラスの生徒も見えた。私もどこかに行った方が良いだろうか。


「あら、もうお別れは済んだみたいね。……済んだ、のよね?大丈夫かしら、さっきより目が腫れてるけれど」


「わわっ、髪もぐしゃぐしゃになってるよっ」


 写真を撮るために残っていたのか、私の席の周りに集まっていた友人たちが優しく迎え入れてくれる。影間さんがそっと髪型を整えてくれる様子を、田尾が安心したように笑い飛ばす。


「ほんとに、この写真撮っといて良かったな。泣きすぎだっての」


「そういう思い出も残せるのが写真のいいところだと思うがな。同窓会の時には焼き増しして持ってくるか」


「……? 写真って何の————」


 ちゃっかり私の席に座っている目高の背越しに、机の上のアルバムを覗くと、白紙のページに二枚の写真が貼られていた。ポラロイドカメラで撮られたのだろう、独特の余白があるその写真は、私に告白された天使が困ったように笑う浄化されてしまいそうな一枚と、天使にボタンを弾き渡され、まさに鳩が豆鉄砲を食らったような表情で受け止める私の恥ずかしい写真だった。


「な、な、な、なんだこの写真は!」


「どうだ、よく撮れてるだろう。横溝河にも礼を言っておいてやれ。自信作だと胸を張っていたからな」


「と、と、撮ってたのか!?」


「なぜ撮っていないと思っていたんだ?あそこまでセッティングしてやったんだ」


「な、な、な、な…………」


 目高に文句を言いたい気持ちと、天使の写真映りが良すぎてうっとりしてしまう気持ちが拮抗し、言葉を失ってしまう。


「漫画みたいでキュンキュンしたよな!()()()が照れてるところ、初めて見たかも」


「録音もしてるから、何度でも聴き返せる」


「ちょっと、怜亜(れあ)!? そ、それは消すんだっ」


 教室の中でスマートフォンを抱えて身軽に逃げる怜亜を追いかけながら、ああ、なんて締まらないんだと思わず笑ってしまう。でも、それがきっと私の人生で、運命という奴なのかもしれない。みんながいて、支えてくれて、そう簡単に終わってはくれない。そんな少し気の抜ける毎日が、普通の幸せというものなのだろうと、そう思った。


—————ありがとう、天使。さようなら、天使。


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