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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 三年生
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第七十七話 獅子身中の天使

・主な登場人物

藍虎碧あいとら みどり:天使の”友人”だった普通科の女子生徒。クールに見られがち。


影間蕾かげま つぼみ:藍虎と同じN大を目指す、商業科の男子生徒。女子と見紛うかわいらしい見た目をしている。


 二週間という時間は、あっという間に過ぎてしまう。


 ぽっかりと空いた心の穴を、埋めるように勉強をして、友人たちと最後の高校生活を過ごした。分からないところを補い合って、時には笑い合って、馬鹿なことを言い合ったり、みんなで頭を捻って考えたり、それが普通の友人関係なのだと実感した。


 支え合う仲間がいる。励まし合う相手がいる。なんて素晴らしいことなのだろう。


 けれど、今の私には、それはずっと昔の無声映画のようにモノクロに見えて、私は自分がどうしているのかすら、分からなくなっていた。


「お姉ちゃん、昨日も遅くまで起きてたけど、体調、ほんとに平気?」


「勉強、してたからね。受験生はみんなそうだよ。私だけじゃない」


「…………それなら、いいんだけどさ」


 雪は午後から降るらしい。淀んだ雲が浮かぶ空の下、私は受験会場に向けて家を出た。


 受験会場は他でもないN大学のキャンパスだ。複数ある内の経済学部向けのキャンパスが、入試会場として設定されている。私の家からは、最寄駅から電車で二十分程度だ。もし合格できれば、通学は高校よりも楽になるだろう。


「調子はどう?目のクマ、結構ひどいわよ」


「……ああ、あまり眠れていないだけさ。体調に問題は無いよ」


 ローカル線に乗り換えるタイミングで、ちょうど鳩場(はとば)さんと出会い、少しだけ言葉を交わす。扉が閉まるとお互い無言で単語帳に目を落とした。


「————あの子、推薦なんでしょう」


「……どこでそれを?」


 興味なさげに単語帳のページをめくりながら、鳩場さんは呟いた。


「年明けから入試対策の授業に来なくなったら、誰だってそう思うわよ。まぁ、でもむしろ当然だとは思うけれどね」


「当然、か。確かにね」


「当然というのは、あなたもよ、藍虎(あいとら)さん。もう執行部じゃ無くたって、みんな心のどこかではあなたを支えにしてる。もっとシャキッとしてもらわないと困るわ。少なくとも、みんなの前ではね」


 私は彼女の言葉に応えず、目をそらして単語帳に意識をそらした。見覚えのある単語たちが、暗記に集中しようとする心に隙間を作る。自分の正しさを誇る自信なんてないのに、みんなが私を祀り上げる。私を信用して、励ましてくれる。空っぽで、不安で仕方がない私を。


 通学時間が短いのも考え物だ。気持ちの整理がつかないまま、電車はN大前駅に到着した。同じように受験生と思われる生徒たちが、降車していく。


「行くわよ?」


「あ、ああ」


 人のすっかり捌けた車内を見て、私は慌てて鳩場さんの後を追った。






 大学入試が始まる。なんて言うと、三年生になる前から入試は始まっていると、真剣な顔で諭されることになる。けれども、確かに今、他の高校の生徒や自分よりも年上に見える受験者たちも入り混じる会場で、独特の緊張感に包まれる今。この瞬間に、入試という壁が目の前に立ちはだかっていることを、私はようやく実感するのだった。


 試験の形式や注意事項について、簡単な説明の後解答用紙と問題が配られる。科目の書かれた無骨な表紙に、これはもう本番なのだと思わされる。


 最初の科目は地歴公民だ。日本史Bと倫理、政治経済が私の選択科目になる。ただでさえ選択科目の多い問題用紙は、自分の問題を間違えないことが最初の課題だ。どれだけ簡単な問題だとしても、正しく解答できなければ点は取れない。


 ヤマを張っていたつもりは無いが、偶然にも朝の電車で見ていた年代の問題が出され、年表が鮮明に思い出された。大問一は比較的自信を持って解答できそうだ。


 めくるごとに漢字が増え、問題は堅苦しく長い文章に変わっていく。並び替えは複雑になり、その文得点も増える。


 事変の並び替え問題を前にして、頓狂な言い方で年代を覚えさせようとしてくれた天使の姿が脳裏に思い出された。生徒会長になって、落ち着いた印象に変わった天使も、不思議な語呂合わせで年号を覚えるところは変わっておらず、根っこは同じままなのだと安心した記憶がある。あの時の天使は、思えば感覚派だったのだろう。覚える段階を越えた天使は、聡明に、理知的で理論的な勉強法を実践するようになった。


 問題用紙に丸を付ける手が止まっていたことに気が付く。テスト中だというのに、また彼女のことを考えていた。もう関わることも無いだろうに、思い出されるのはずっと前の、柔らかで暖かな彼女の笑顔だ。


 落ち着いて、自己採点のために選んだ答えに印をつける。時間はまだ余裕があるはずだ。見直しのためにも、余計な考えは捨てて、今は前に進もう。


 ————余計な考え。天使のことを考えるのは余計なことだろうか。


 私にとって彼女は人生の全てだったと言っても過言ではない。一年生の時、彼女に一目ぼれをした。彼女を支え、隣で歩むために執行部に入り、彼女が成長できるための地盤を整えるために奔走した。天使は皆に愛され、かくして空へ飛び立った。そうして、大地に残された私は彼女が手の届かない場所に行ってしまったことを嘆くべきなのだろうか。殉教者の命に、悔いなどないはずだ。


 解答用紙の楕円を塗る手が止まる。色が薄い。これでは解答が認識されないかもしれない。塗りなおそうともう一周シャープペンシルを回して、自分の手に力が入っていないことを知る。


 つまりは、愚かしいのは私の欲望だ。天使のためにと思って活動しながら、本当は、彼女を独り占めにしたいと思っていた私の罪だ。

 天使ファンクラブと銘打って、同士と笑い合いながら、その実自分は彼らよりも優位にいるのだという悦に浸っていたのだろう。他人の信頼を得て、その実誰も信用などしないで、天使との日々に目を焼かれていただけの馬鹿な人間だ。果たして、残ったのは不信の蕾だ。執行部でなくなった私を、天使に見放された私を、誰が信じるのか、誰が頼るのかと疑い、支えも無く暗闇の荒野を這いずる死に体の怪物だ。


 鬱々とした考えを振り切るように、無心で問題を進める。今はそんなことを考えている場合じゃない。大丈夫、大丈夫だ。


 静かな筆記の音だけが聞こえる試験会場で、ゆっくりと、しかし着実に、試験は終わりへと進んでいた。






 かすかなざわめきと共に、一日目の試験が終了する。リスニングの最後の問題を正確に聞き取れる人間は一握りだ。今はただ、わずかにつかみ取った単語からの推測が見当はずれでないことを祈るばかりである。


「一日目お疲れ様、藍虎さん。今日の問題、自信はある?」


「うん、ぼちぼちかな。模試より上手くできた気はしないけどね」


「あら、案外弱気なのね。あの子たち、みんなで解答の自己採点をしようって言ってるんだけど、あなたも来る?」


「……いや、いいよ。明日不安になってもしょうがないし」


「そう。まぁ、上手く言っておくわ。また明日」


「うん、また明日」


 軽快な足取りで去っていく鳩場さんは、きっと今日の問題にも自信があるのだろう。私は誰からも声をかけられないまま、一人で会場を後にした。




「あっ、藍虎さんっ」


 駅に着く直前、まばらな人混みの中で後ろから声をかけられた。振り向くと小柄な影が近寄ってくる。


「お疲れ様、影間(かげま)さん。そっちも帰り?」


「うんっ、商業科は別の会場だから、みんなにも会えなくてさ」


「そういえば、そっか。みんなは集まって自己採点をするってさ」


「……そうなんだ?」


 私の言葉がどこか腑に落ちないような表情で、影間さんは頷くでもなく少し首を傾げた。


「それよりさ、明日テストが終わったらご飯でも行かない?二次試験対策はしないとだけど、一応区切りってことでさ」


「ああ、構わないよ」


「やった!いいお店探しとくねっ。大学生になったら、行きつけにしちゃおうよ」


 無邪気に笑う影間さんに、クラスメイト達のことを思い出す。きっと、明日も自己採点をするために集まるのだろう。明日の夜にはすべての解答速報が出ることになるから、その時には採点の信憑性も上がる。


 少し上機嫌で私の前を歩く影間さんを、少しだけ羨ましく思う。人の目に晒されて、理想を押し付けられて、それでも自分らしく生きようとする彼が、その自由さが少し眩しい。あるいはそれは、自分の心の空白が疼くような。その眩しさに、もう手の届かない影を重ねるのは、あまりにも虚しくて、私は目頭を押さえてその幻想を心にしまった。





 夜になって、私は一人ベッドに寝転がる。冬休みの終わりに片付けた部屋は、余計な考えを持たなくて済む。


 私にとって自室は、秘密基地のような物だった。好きなものを飾って、押し隠していた自分らしさを発露してもいい場所だった。それが今は、殺風景で味の無い牢獄のような場所だ。勉強するにはいい場所だと自虐してみても、机に向かう気は起きない。


 今から明日の知識を詰め込むのは馬鹿らしく思える。不安になるほど甘い準備をしてきたわけではない。けれど、どこを見たって受験の話で染まったSNSは不安を掻き立ててくる。受験者たちが書き込む掲示板で、混乱と狂気に満ちたコメントをする人たちを見て、どこか見下すような安心感を覚える。見るつもりが無くても勝手に解答が流れてきて、間違ったところだけ鮮明に意識させられた。今日の科目で七割を切るほどに間違ってはいないだろうかと、漠然と考えながら自室の天井を眺めた。


 N大はそれほどそんなに偏差値が高いわけではない。けれども、C判定でも出願して行けるほど二次に余裕があるわけでも、受験者が少ないわけでもない。


 漫然と、自分は受かるだろうという思いがある。そのせいで、努力というものを馬鹿らしく思っているのかもしれない。大した夢も、目標も無いくせに、頑張るなんて馬鹿らしいと、あの日の情熱を持った自分に蔑まれるようで。天使のことを諦めたくせに、こんなことに必死になるなんて、と達観したようで、ただの世間知らずな思いを抱いている。世間何て、どうだっていいのに。彼女がいてくれれば、天使がいてくれれば、それで良かったのに。


 ぽっかりと、心に穴が開いている。それは間違いなく、天使が飛び去った跡だ。立つ鳥が跡を濁さなかったとしても、鳥のいないその場所はがらんどうだ。


 この穴は埋まるのだろうか、と何もない天井に手を伸ばしてみる。蛍光灯の光が指で遮られて、顔に影が落ちる。


 この欠落は、恋の穴だ。最も身近だと思っていた、愛した人間に裏切られた傷だ。天使を恨む気持ちは微塵も無い。ただ彼女らしいと、私は自分が傷ついてもなお、彼女の自由さに微笑むことができる。結局のところ、私を焦がす痛みは、それでも無様に彼女を愛したままでいたいと思う劣情のせいなのだ。


 私はこれから、誰かを愛することができるのだろうか。彼女以上に、誰かを、異性を愛してしまうのだろうか。


 私は、()が嫌いだ。それがいつからか、正確なことは分からない。けれど確かに、天使のことを好きになってからだろう。初めはもっと、漠然とした忌避感で、今だって、話せないというわけでもない。天使がいなくなって、上崎(かみさき)に告白された日。気が付けばもう一年以上経つあの日に、私は欲望というものの醜さを知った。あるいは、自覚させられたと言うべきかもしれない。私が天使に向けていた思いは、いかにおぞましく汚らしいものなのかということを。


 結局のところこの感情は、ただの嫉妬なのかもしれない。どんな劣情を抱いても、私には天使を射止めることはできない。私を定義づける社会的な情報が書き替えられたとしても、この肉体は生まれ変われない。先天的なその違いを、優越するでもなく、自覚するでもなく振りまかれる下賤な態度に嫌悪する、エディプスじみたミサンドリー(男性嫌悪)。どれだけ努力したって、その権利は手に入らない。私はただ、自己破滅を招く欲望を抱えただけの道化に過ぎない。


 女として生まれて、それを悔やんだことはない。中学校の頃、男子グループに混ざってゲームの話をしたり、サッカーをして遊んだりしていた時も、男だったらと思ったことこそあったが、自分が女であることを疎んだことはなかった。友人たちが好きにゲームを買う中で、こっそり買い始めた化粧道具や、体の変化に合わせて買わざるを得ない薬や消耗品も、損だと思ったことはない。


 けれど、あの日、確かに私は思ったのだ。知人だとしか思っていなかった男子生徒に、心の中では自分の方が優れていると見下していた他人に、覚悟を決めた告白を受けたあの時、私は自分の拭いようのない弱さを感じた。


 恋愛なんて、私は知らなかった。ただ誰かを好きになって、その相手も私を好きでいてくれて、そうして添い遂げていくのだろうと思っていた。私にとって、その高い目標の先で隣にいるのは天使のはずだった。努力して、隣にいてもいい自分になって、ようやく叶うものだと思っていたのに、現実はもっと醜いものだった。


 努力もしない、身の程も知らない奈落から伸びた手が、私を掴もうと迫ってくる。恋愛という歪んだレンズで堕落を肯定し、私の邪魔をする。どれだけ取り繕ったところで、人の本性は獣だ。自分は違うと努力したところで、私だって変わらない——————君の隣ならあるいは、なんて、もう信憑性の無い考えだ。薄汚れた感情が、今もまだ、君を求めているのだから。


 君と出会ったことが、間違いだったのだろうか。隣なんて歩いていられないのに、求めてしまったことが間違いだったのだろうか。私はこれから、どうやって、何のために生きていけばいいのだろう。考え方も正答も、天使は教えてくれないままいなくなった。今度こそ、帰ってくることは無いのだろう。


 苦しさは胸を締め付けて、不安は体を包み込む。けれども等しく夜は明けて、私はいつも通り朝を迎えるのだった。





 それから、私の心の問いに答えが出たわけではない。一月は往く月だと言う。これまでのどんな年よりも、私はそのことを実感することになる。


 ざわざわとした心と裏腹に、問題を考える思考は明瞭だった。どうしたって分からない問題への折り合いの付け方にだって、誰よりも自信がある。ゆっくりと時間をかけて見直して、案外簡単な見落としに気が付いて解答する。人生はそうしたトライアンドエラーの繰り返しだ。きっと、天使への思いも、同じように折り合いをつけてしまえる。きっと、そのはずなのだ。



「藍虎さん、自己採点みんなでするって連絡来てたよ?」


「ああ、みたいだね」



「藍虎さん、二次試験の勉強、一緒にしない?」


「……そうだね、よろしく頼むよ」



「藍虎さんっ、予定無かったら、この後一緒にお茶行かない?」


「予定……は、ないけれど、またあの喫茶店にしようか」


 二次試験が終わった。自信があるかと聞かれれば、分からないと私は答えるだろう。心の空白に投げかけた問いは、淡い記憶の中で学んだ知識が答えてくれる。私にとって全知に等しいその声は、私を答えに導いてくれる気がした。


 一次試験が終わって、なにかと影間さんといる機会が増えた。いや、きっと彼の方が意識的に増やしてくれているのだと、今の私でも理解できた。彼はなぜ、執行部でもなくなった、あらゆるつながりを失ってしまった私と、共にいようとしてくれるのだろう。その理由は簡単なようで、考えたくない気がして、心の中の天使は、けれど何も答えてくれないのだった。


「試験、終わったね。って、まだ決まったわけじゃないけど。ペンの音を聞いてた感じ、自信あるんじゃない?」


「……どうだろうね。でも、これで君と、こうして話すのも終わりになってしまうね」


「…………どうして?」


 自分で口にして、大きな失言だったと他人事のように思う。彼は同じ大学を目指す友人で、私も彼も、不合格を感じているわけではないのに。この関係性が、受験勉強のためだけのものではないことなんて、分かり切っているのに。


「二人の行きつけにしたいって言ったの、冗談のつもりじゃないからね」


「……………………」


 ホットコーヒーに伸ばそうとして、そっとテーブルの上に落とした手に、影間さんがゆっくりと手を伸ばす。彼はきっと、また私の手を取ってくれる。私を勇気づけようとしてくれるのだろう。元気づけようとしてくれるのだろう。だけど、そんな善意すらも、私は信じることができないでいた。何もかもが、運命のようで、そのひどい違和に私は怯えていた。


「——————」


 手が、触れる。そのほんの少し前で、手が止まってしまう。私から触れることもできなくて、もどかしい距離で彼の手が投げ出されたままでいる。まるで、何かを待つみたいに、影間さんは私を見つめている。心配そうに、見つめている。その瞳の奥に、どんな感情があるか、私には分からない。それがひどく、怖かった。


「影間さんが、君が、私に優しくしてくれるのは、()使()()()()()()()()()()()?」


 執行部を卒業して、天使に拒絶されて、私は落ちていくばかりだと思っていいた。このまま奈落に落ちて、それでいいと思っていた。けれど、同じ大学を受ける仲間に支えられて、影間さんに励まされて、私は幸せになろうとしているみたいだった。こんな醜い私が、誰かにまだ見られていた。もし、そんな幸福が奇跡でないのなら、偶然でないのなら、それはきっと、天使の仕業だ。誰もを幸せにしようとする、自由で、奔放で、悪戯っぽい彼女の仕業だ。誰からも一線を画したようで、結局誰もを幸せにしようとするお節介な天使の仕業だ。


「——————どっちだと思う?」


 射抜くようにじっと。影間さんは、私の目から視線を離さない。子猫のようないつもの彼女とは違う、まるでそう、虎のような鋭い眼光が、私を貫く。


「本当に、何もかもが天使のおかげだって、彼女のおかげだって、藍虎さんは、そう思う?」


 静かに、言い聞かせるように、影間さんはそう言った。


()()()()()()()()()使()()()()って、誰かを救ったのは天使だけだって、藍虎さんは、そう思ってるの?そんなことはないよ。そんなことは、ないんだよ。キミは、キミにも、救われた人がたくさんいる。だから、()()()()()()。キミが救った人のことを。キミに勇気づけられた人たちのことを、忘れないでいて」


 影間さんが、私の手を優しく包んだ。


「ね、私たちはもっと、自由に生きていいんだよ」


 冬服のカーディガンの隙間に、温かい何かが浸みて、私は言葉が上手く出てこなくなった。視界がボヤけて熱くなって、でも現実ははっきりと頭の中で理解できて。ああ、私は前に進んでいるのだと、今更になって思った。

 もう天使とは会えないのかもしれないと、そんなことが急にとても悲しくなった。そんなことを、私は悲しんでいいのだと、そう認められた気がした。それは、もう彼女の隣を目指さなくていいのだという安心だったのかもしれないし、彼女に置いていかれてしまったのだという孤独感かもしれない。涙は堰を切ったようにあふれ出して、私にもなぜなのかは分からないけれど、止めることができなかった。


「わ、わっ、藍虎さんっ、あんまり引っ張るとコーヒーが…………ああ、もう——————」


 その後のことは、あまり覚えてはいない。ただ、茜には「影間さん?にはちゃんとお礼言っときなよ」とこっぴどく叱られてしまった。その表情が、どこかいつもよりも優しく見えたのは、きっと茜に叱られるのがとても久しぶりに思えたからかもしれない。


 暖房がこもった自室の窓を少し開けると、冷たい空気が入ってきた。夜の風はそれでもどこか優しくて、私の心に空いた傷跡を優しく撫でてくれるみたいだ。


 ああ、私は空っぽだ。天使がいなくなって、空っぽになったのだと、そう自分でも気が付いた。でも今はどこか晴れやかで、きっとその穴を何かが埋めてくれるのだという未来に期待することができた。


 明日は高校生活最後の日だ。実感は有り余るほど胸を締め付けているけれど、この後悔こそが私を作ってきたのだと、今はそう思える。


 天使の思い出は心の中で傷となって抜け落ちて、けれどもきっと、私にはまだ言わないといけないことがある。それはきっと迷惑で、君を困らせるようなことだけど。

 ふふ、最後くらいは、私も君みたいに、わがままを言ってみたいと思ってたんだ。



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