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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 三年生
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第七十六話 兵士に差す光陰

・主な登場人物

まながさき天使てんし:この物語の主人公。生徒会長だった。一月末に引っ越し、台典市を出発する予定である。


藍虎碧あいとら みどり:生徒会執行部副会長だった女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。家にいるとき、カレンダーを見つめてぼんやりしていることが多い。


影間蕾かげま つぼみ:監査委員長だった商業科の男子生徒。かわいらしい見た目をしている。商業科の進学者が少ないため、受験対策授業は普通科と合同で受けている。


 

 この学校には、天使がいた。天使のいた学校に、私はいた。


 少年老い易く学成り難し、といつかの彼女は言った。天使は老いを知らないかのように受験を終え、この地から羽ばたく準備を始めている。一方の私は、彼女を引き留める勇気も力も無いままで、卒業を目前としているのであった。いつか来る別れに、私はなすすべもない。ただ悲恋と絶望感を、現実に混ぜ合わせて気を紛らせ続けるのだ。


 女神に期待して、生徒たちは天使の噂を忘れてしまったのではない。きっとみんな、天使には手が届かないと、天使はもう光すら届かない場所に行ってしまったのだと、諦めてしまったのだ。手を伸ばすことすら、億劫になるほどの輝きで、それでも天使がみんなのためにその翼を広げていることを、私は知っている。私だけが知っている。


 君がもう、大学入試のテストを受ける気が無いことも、合格先からの課題を家で隠れてこなしていることも、推薦を使ったことが漏れないように初地(ういち)先生を口止めしていることも、私だけが知っている。大学入試の本番まで、クラスの人たちの戦意が失われないように気を遣っていることを。


 どうして、君は私だけに教えたんだい?私なら、知っても努力を止めないと思ったから?私には秘密にしておけないと思ったから?


 ああ、きっとそのどれでもない。君の考えは私には分からない。もう隣にいることすら叶わないから。私には、君の背を追うことすらできないから。







 ゆっくりと頭を上げると、私が揺らした麻縄は、もう元のように静謐として垂れていた。朝の爽やかな冷たさに、気持ちが一新されたように思えた。


「この神社、学問の神様じゃないんだよ?」


「初詣なんだから、目先のことばかり願っても仕方ないさ。この一年は、大学生でいる時間の方が長いんだから」


「ふふ、確かに」


 もこもことしたダウンジャケットにマフラーも巻いて、寒さ対策は万全な天使が、思わせぶりな笑みを浮かべる。私が受験に対して、それほどの自信を持っていないことを看破しているのだろうか。あるいは、天使のいない大学生活を良いことのように言う私に、疑いの目を向けているのだろうか。


「それじゃあ、心機一転、だね。冬休みが終わるまでは模試漬けで行くからね?」


「お手柔らかに頼むよ……」


 楽しそうに参道を戻っていく彼女に、私は肩をすくめる。今が正念場なのは理解しているが、いざ勉強するとなるとやはり気持ちは進まないものだ。


 生徒会選挙が終わって、私は執行部を引退して、ただの一人の生徒になった。天使は生徒会執行部の功績や、後輩育成の実績を上手く使って推薦入学ですでに合格を決めたようだった。母から一般入試を受けるように言われていた私は、推薦入試の種類や特色に明るくないが、どうにも天使の受けた方式は中でも難易度の高いものだったという。どう調べたってここからでは通えないその大学は、私が今から受験するには学力が及ばない。私学には行かないから、と期待半分で記入した合格判定はDだった。


 生徒会選挙の少し前、天使に合格通知を見せつけられた私は、それが実質的な最後通告だと理解した。学校での授業は、いまやほとんどが実践模試に変わり、後は益も無い選択外の歴史科目を受けさせられるばかりだ。天使以外の推薦利用者や商業科などで就職が決定した生徒の中には、登校が自由になっている人もいるらしい。天使だって、もう学校に来る理由も無いはずだった。


 しかし、私の予想と反して、天使は朱野(あけの)さんへの指導と並行して、放課後や昼休みに私の勉強に付き合ってくれた。もしかすると、それは推薦入試を受けたことを隠すための演技だったのかもしれないが、私はそれでも天使が隣にいてくれることに安堵していた。もう、生徒会執行部の仲間ではない私とも。


 冬休みに入って、私は天使の誘いで、入試前の追い込みを手伝ってもらうことになった。年明けの今日も、こうして一日から勉強会だ。一人ならきっと、今日くらいは、と思っていたことだろう。実際、母も同じようなことを言っていた。だが、これは勉強というだけではなく、私が彼女といられる時間のカウントダウンでもあるのだ。


「それじゃあ、今日は冬休みも折り返しだし、復習セットからね。(みどり)が間違えた問題と、勘で解いてた問題の詰め合わせだよ。時間は、二時間にしようか」


 色んな模試の問題を組み替えて作られたプリントの束が目の前に置かれる。陰鬱な気持ちがのしかかってきそうだが、入試当日はこれが二日も続くのだ。


「ねえ、天使。その、試験を緊張しないで済むコツとか、ないかな。どうしても気分が上がらなくてさ、本番に実力が発揮できるか不安なんだ」


 私がそう聞くと、天使は部屋の間口で立ち止まって、携帯端末のアラームを設定しながら可愛らしく唸った。


「う~ん、そうだなぁ。まず、緊張できてるならそれに越したことは無いと思うな。失敗するときってね、大抵は、緊張感が無くてあらゆることを他人事みたいに思う時だから。……でも、確かに碧って結構緊張しいだもんね。文化祭の時とかさ。アドバイスで直せるかは分からないけど、今のままの碧の状態を意識できれば、それが一番集中できると思うよ」


「今のまま、かい?」


「そう、今どんな気分?」


「えっと……勉強に向かう気が起きなくて、頭がこんがらがりそうな気がして……あ、でも天使と一緒にいれて嬉しいかな。一年の頃は考えられなかった、天使の家に呼んでもらってもてなしてもらって、気にかけてもらって、四方八方どこを見てもいい匂いというかいい気分になるというか————」


「楽しい?」


「あ、ああ、楽しいよ。勉強はしんどいけれどね」


 割入るように微笑む天使の声に、私はつい話し過ぎてしまったと反省する。勉強のことばかりの毎日では、一日の内に考えることなんて、受験のことか天使のことしかない。


「その気持ちが大事なんだよ。大きな壁を見つけても、乗り越えてやるっ!て楽しむこと。もちろん、そのためには地力がないとお話にならないけど、もう碧は十分身についている方だと思うよ」


「あ、ありがとう」


 それじゃあ、と天使がアラームを開始しようとした時、不意に私の携帯端末が着信を知らせる。手に取ろうとした私を、天使が制止した。


「だめです。きちんと集中しないと、でしょ?」


 通知の内容が気になるところではあるが、確かに本番も同じようにかき乱されていたのでは、これまでの努力が水の泡となる。私は静かに手を鉛筆に戻して天使を見上げた。


「うん。それじゃあ、スタート!」


 私の集中を乱さないように、天使は私の携帯端末を部屋から持ち出して扉を閉めた。時間は机に置いた腕時計で計るようにと一日目から言われていた。


 天使の足音が遠ざかっていき、私はゆっくりと問題の世界に没入していった。日々片付けられていく愛おしい部屋の雑多な家具も後景化し、私は集中の先に落ちていった。





 二時間はあっという間に経過し、私はなんとか問題をすべて解くことができた。一度正答を解説してもらったことのある問題だ。当然と言うには解くのが遅すぎるのかもしれないが。


「うんうん、もう選択問題もどれを選んでも遜色ないね。当日は慌てないで解きやすいのを見極めたらいいと思うよ」


 天使は模範解答も見ずに細かく添削を進めながら、そう褒めてくれた。彼女の持つ赤ペンがどう動くのか胸を騒がせながら、当日は夜まで、あるいは正式な発表ならもっと後までこんな不安を抱えることになるのかと空恐ろしくなる。


「あっ、ここ、凡ミスだぞ。最後だからって油断したな?」


 ふふっと純真な笑みで首をかしげて、天使は呟いた。その横顔がきれいで、いつまでも見ていたいと、そう純粋に思った。一年生の頃よりもずっと大人びた、けれども変わらない愛らしさとあどけなさを秘めた整った顔立ち。誰もが独り占めにしたいと思わざるを得ない繊細で艶美なこの世の宝のような————。


「午後は英語にしようか。眠くなる時間だけど、文章が多い方が碧は楽しめるでしょ?」


「…………あ、ああ。そうだね」


 じっと向けていた視線が優しく押し返されて、私は我に返る。永遠のような時間。君といる時間。この時間が、ずっと続けばいいのにと、そう思ってしまう。


 もしかしたら、私が引き留めたら、彼女は飛び立たないでいてくれるのではないだろうか。ここからいなくなることは変わらなくても、私の隣にずっと、友達として、あるいはもっと深く、君とこれからも付き合っていけるのではないだろうか。


 心の中に芽生えた淀んだ思いは、天使が立ち上がった足音でうやむやに消えていった。昼食の準備をしに行ったのだろう。世話になるばかりではいられない。準備を手伝うために私もキッチンへと向かった。





 午後三時、英語の問題は数学よりも二回目が楽だ。既視感のある文章と、それでも思い出せない単語に頭をひねりながら考えた答えは、いつもよりも身になった気がする。


「うん、二回目ならもう完璧だ。ここに出てきた単語はもう大丈夫だね。二次は英作もあるし、別で対策するとして、長文は後時間配分くらいかな」


「そうだね。正直、下線部を探すのに時間がかかってしまうところがあるというか、番号も多くてごちゃごちゃしてしまうんだ」


「リスニングでも同じことが起こりやすいから、要対策だね。でも、執行部の仕事の方が面倒だったでしょ?」


「あれは……まぁ、慣れが大事ってことだと受け取っておくよ」


 冗談めかして笑い合って、彼女にとって、もう生徒会執行部は過去になってしまったのだと気が付く。


 三年生になってからも時々、神城先輩と連絡を取ることがある。大学生になっても、仕送りのために働き、学外でも勉強しているという先輩は、後輩たちを親身に気遣ってくれていた。

 亜熊先輩は、神城先輩も連絡先を知らないらしい。

 三峰先輩も何となく予想はしていたが、完全に友人関係を捨てていったそうだ。執行部の人たちはそう言うところがあるのよ、とさらに上の先輩もそうだったわとため息を吐く神城先輩に、私はどうするべきかと時々悩む。N大に受かればまた先輩になる丸背先輩は、積極的ではないにしろ、緩いつながりが残っている。


 天使はきっと、もう見向きもしないのだろう。これまでの生徒会長たちと同じように、誰も届かないどこかへ行ってしまう。それを悲しく思うことがあっても、きっと、どうしようもないことなのだ。私には、どうしようもないことなのだ。


 時間は過ぎていく。光陰は矢の如く、私を突き立てようと向かってくる。あまりにも早いその移り変わりに、私は逃げることができない。その絶対的な終わりに飲み込まれるしかない。


 矢が兵士に射かけられる。矢が射かけられた兵士の所まで飛んで来た時、兵士は少しだけ前に逃げている。矢がその少しだけ前に辿り着いたとき、兵士はまた、少しだけ前に逃げている。


 ああ、亀のような鈍足な一歩でも、そうしていつまでも追いつかれずにいられると思っていたのに、前を向いて初めて、気が付かされてしまったのだ。天使の光が私に伸びて、まだ追いつかれていないと思っていたのに、私の陰はずっと先に、前に前にと伸びていた。


 無限に思えたのはただの幻想で、矢はとっくに私を貫いている。まだ追いつかれていないと見たその矢は、的確に射抜かれた二の矢三の矢なのだ。


 それでも、私は逃げている。終わりたくなくて、終わってしまうことが怖くて、この先何て、本当はどうだってよくて、君といる今が永遠であればいいとだけ願っている。その今すらも、とっくに歪んで崩れた過去だということに、気が付かないふりをして。


「碧、どうかした?」


「え、ああ……いや、なんでもないよ」


 ぼんやりとしてしまっていたようで、空返事を漏らす。不自然な微笑みがこぼれて、自分でもどこかおかしいことは感じている。それが、受験生一般にそうであるものなのか、それとも私だけの問題なのかは、判然としない。


「少し、水分補給をして————」


 立ち上がろうとした時、足の痺れと軽いめまいでバランスを崩す。驚いたように私を見上げた天使の方に体が倒れ、何とか手を付いたものの結果的に彼女を押し倒すような形になってしまう。天使は、驚いた様子も無く、犬にじゃれつかれたように穏やかな表情で私を見つめている。


「ご、ごめ————————」


 起き上がろうと息を吸って、天使の甘い匂いが体中に染みわたるように感じられる。品番すらかつては控えていた甘く柔らかな匂い。ボディソープだけではない、柔軟剤やシャンプー、香水、整髪料、わずかに匂いのついたリップクリーム。微細な匂いの混ざりあった彼女の匂いに、走馬灯のように思い出が蘇る。蘇って、消えていく。いつまでも消えてほしくない記憶が、眩しいばかりの記憶が過ぎ去っていく。


「……碧?」


 窮屈そうに、天使が私の下でもぞもぞと脚をくねらせる。こんな状態じゃあ、君はどうしたって抵抗ができない。拒むことができないだろうね。


 心の奥から、沸々と仄暗い感情が膨れ上がってくる。青い虎は清廉なのだと忘れようとしていた、錆のような汚い思いがまとわりついて全身を重くする。


「天使、私…………その…………」


————————このまま彼女を独り占めにしてしまいたい。空なんて飛べないくらいに、私で満たして抱き留めていたい。それは何よりも、私が嫌いだと思っていた劣情の視線で。湧き上がる思いは心を燃やして大きくなっていく。時間が経てば忘れるはずだと、天使がいなくなった日、それが正しいことなのだと思った。だけど、どうしたってこの気持ちは消えなくて、一度決壊してしまえば、落ちていくギロチンの刃のように、止めることはできないのだ。


「私…………君を————————」


 部屋の電灯が貫いて、私の影が落ちた彼女の、シミ一つない頬に一筋の涙が流れていた。宝石のような美しい顔は、涙で一層輝くように見えた。泣いている。乾いた瞳で私を見上げる天使の顔に、涙がこぼれていく。


 嗚咽で言葉が出ない。泣いているのは、私の方だった。伝えたい言葉が、暴れまわって捉えられない。劣情への嫌悪感で全身が身の毛のよだつような冷たさで覆われている。私は怖くてたまらないのだ。君に思いの丈を吐き出すことも、私がそんな醜い人間であるとさらけ出すことも、君ならもしかしたら受け止めてくれるかもしれないと期待していることも。



「ずっと、ずっとだ。ずっとずっと、初めて君を見た日から、本当は、君と、一つになりたくて…………君の、隣で、生徒会の仕事をして、それで十分だって、思い込みたくて、本当はもっと、もっと傍にいたくて、ああ、どうして私は男じゃないんだろうなんて、思ったことも何度もあって、でも君の隣にいられるならと思って、君のためならなんだって耐えられたから、だから…………私は、君と離れたくない。大学なんて、どうだっていいんだ。隣よりもずっとそばで、君を見守っていたい。君とずっと、一緒にいたい。

 ねえ、天使。どこにも行かないでほしい。ずっと、私のそばにいてくれないか。君のためなら、私は何だってできる。君が輝いて進んで行くためなら————————」



 冷たい細指が私の頬に添えられて、優しく下瞼をなぞる。涙で滲んだ視界が半分閉じて、溢れた涙が彼女の指に伝った。


「ねえ、()()()()。私のことを、ちゃんと見て」


 動揺と恥ずかしさで胡乱になった視点は、上手く天使の顔を見れない。じっと射抜くような視線を感じながらも、正面から向かい合うだけの勇気が足りない。


「碧は大丈夫。もう大丈夫だから。私のことは、()()()。碧のことを認めてくれる人は、たくさんいるよ。たくさん、待ってくれている。だから、私のことは、忘れたっていいの」


 反対側の目も、ゆっくりと涙を拭われて、私の視界は真っ暗になる。じんわりとした涙の温かさだけが目を覆っている。この涙は、わがままだ。劣情に濁って、勝手に苦しんで、幸せを押し付けようとした自分勝手な涙だ。


「————————」


 私が鼻をすする情けない音だけが、部屋の中に聞こえている。


 天使は、優しく私の肩に手を当てて、押し戻すようにして座らせた。体に上手く力が入らなくて、されるがままに私は正座の姿勢に戻される。立ち上がって部屋を出ていった天使に、私は虚しくなってしまって、机の上の勉強道具を片付けた。彼女の作ってくれたプリントは、少し迷ってから机の上に置いておくことにした。


「あ、あの…………ご、ごめん————————」


 居た堪れなくなって、逃げ出すように玄関に向かった私に、天使は静かに携帯端末を差し出した。勉強中は預かっていてもらったものだ。


「あ、ありがとう…………それじゃ」


 胸の鼓動が逸っているのに、体の芯の方から凍えるように冷たい。私は挨拶もそこそこに天使の家を後にした。漠然と、もうここには来ないのだろうと、来る資格が無くなったと、そう思った。







 それから、天使の家を後にして、まだ明るい空の下を駅に戻っていた時、突然に携帯端末が着信を知らせた。


 ほんの少しだけ、天使が電話をかけてくれたのではないか、なんて期待をしたことは言うまでも無く、そんな淡く甘い考えが、私をいつまでも堕落させていたのだろう。


「……もしもし」


「あっ、藍虎さんっ!ごめんね、元日から。その、藍虎さんって、もう初詣に行った?もしよかったら今から一緒に行きたいなって思ってさ」


 どうにも頭が上手く回らない。今朝は確かに神社にいて、それが初詣だったはずなのに、もうずっと遠い記憶のようだ。もう戻ることのできない過去は、手の届かない場所に埋もれていくようだった。


「…………今日は、一日勉強していたから。その、申し訳ないのだけど————」


 体調もどんどん悪くなるように思えて、誘いを断ろうとした時、偶然にも電話の相手が視界に入り、目が合ってしまう。彼は駅のロータリーで、人を待つようにベンチに座っていた。もこもことした冬服に着膨れて、小さな雪だるまのようにちょこんと丸いシルエットだ。


「……影間(かげま)さん」


「あっ、藍虎さん!…………何かあった?」


 子犬のように軽快な足取りで近寄って来た彼は、心配そうに私を見上げる。その純粋な瞳が怖くて、私は目をそらした。


「今日、寒いよね」


 影間さんは、左手の手袋を外してポケットに入れると、私の右手を取った。もこもこの手袋に暖められた手が、知らず赤くなっていた私の手を優しく握る。じんわりと染みわたるように体温が肌に浸透し、血管が活性化していくようにすら思える。


「行こうよ、初詣。一年の計は元旦にありって言うしさ。ほら、こっち」



 影間さんに手を引かれて、私はだんだんと夕暮れていく街を歩く。見覚えのある道を進み、見覚えのある鳥居の前に辿り着く。


「……この神社、学業成就のご利益はないよ」


 立ち止まった私からぽつりとこぼれた言葉に、少しだけ前を歩く彼が立ち止まって振り返る。ぎゅっと引かれた手に、近づいてきたのは彼の方だ。不意に私の眉間を人差し指で優しく突いて、影間さんは悪戯っぽく笑う。


「根気詰めすぎだよ。今日はもう、勉強のこと忘れちゃお?それに、一応諸願成就はあったはず……多分」


 再び歩き出した彼に、少し遅れて私を引っ張られるように歩き出す。鳥居の少し外に、恋愛成就と書かれた旗がたなびいている。


「…………ふふっ」


 なんだ、全然叶わないじゃないか。ご利益なんて気にしている方が馬鹿らしく感じられてくる。熱心に鈴を鳴らす影間さんを、むしろ子供のように愛らしく思いながら、私は形ばかりの参拝をした。





 駅に戻って、何となく二人でベンチに座った。歩き疲れたからかもしれないし、もっと精神的な疲労のせいかもしれない。何を話すわけでもない私の横で、影間さんは、もうすっかり暖かくなった私の手を握ってくれていた。


 気持ちがいつまでも整理できない。天使は優しくて、確かに私は拒まれたのに、木漏れ日のような暖かさが残ってしまっている。触れても感じられないその残り香に、私はいつまでも夢を見てしまいそうで、今もまだ、天使をどうにか私の物にできないかと思ってしまっていて、そんな自分が気持ち悪くて、恐ろしくて、私はそんな自分自身を認められないでいる。


「…………?」


 盗み見るように覗いた影間さんの横顔は、人形のように小さくてきれいだ。羨ましいという感情よりも、大切にされてほしいという庇護欲と、相反したどす黒い感情が交互に立ち替わるような端整さだ。そこに天使を重ねてしまいそうになるのは、まだ私が夢を、あるいは幻覚を見ているからなのだろう。


「…………!あ、藍虎さん!?」


 きょとんとした表情で、小動物みたいに私を見つめる彼を、痛いほどに抱きしめた。私が虎なら、彼は雛鳥だ。自分が食べられることも知らずに近づいてきたのなら、簡単に捕食されてしまうちっぽけな存在だ。誰かに嫌われたいなんて、否定されたいなんて、そんなくだらない自傷欲求のために、私の醜さをさらけ出される可哀想で矮小な存在だ。


「あ、あはは、気持ち悪いよね。こんな、私なんて……本当は、クールなんかじゃないのに、真面目ぶって、心の中はずっと、こんな、こんなことばっかり考えてて、君をめちゃくちゃにして、また傷つけようとして————————」


 逃げ出さないようにきつく腕を締めると、またすこし彼の体が近づいた。影間さんは、抗う様子も無く、そっと頬を私の首筋にあてると、優しく背に両腕を回した。


「うん、そうだね。とっても気持ち悪い。きっと、藍虎さんも苦しくて、だから、吐き出せないでいたんだよね」


 影間さんの小さな細い腕が、私の背をぎゅっと抱き寄せる。力強くなんてなくて、いやらしくも無くて、ただ純粋な、まっすぐな感情が乗せられたその腕は、けれど確かに、彼の、男性の腕だと思った。


「僕もね、ずっと気持ち悪いって言われてきた。男のくせにって言われるのと同じくらい、女みたいなくせにとも言われるんだ。どうしたって、僕はそうとしか生きられなくて、でもそれは誰かにとっては、とても気持ち悪いことなのかもしれない。でも、僕は、それでいいと思うんだ」


「気持ち悪いままでいいなんて、そんなこと————」


「————だって、こんなに暖かいじゃないか。藍虎さんも、僕も、歪で、気持ち悪くて。でも、おかげで僕は、藍虎さんの暖かさを知ることができたよ。確かに、少しびっくりしたけれど、それでも、僕は君の友達として、藍虎さんのことを知れて、良かったと思う」


 影間さんの背をきつく抱いていた力がゆっくりと解けて、それでも彼を離せなかったのは、私が声を殺して泣いていたからだ。頬が触れ合うほどの距離で、きっと泣いているのは隠しきれないだろう。けれど、こんなにも醜態を晒したのに、泣いているところを、見られたくなかった。


 夕焼けははるか遠くに細く消えていく。どんどんと寒くなっていく外気の中で、こぼれる涙と影間さんの体温は、いつまでも暖かかった。











 吸う息すらも白く錯覚するほどの寒さは、冴えた頭にはちょうど良かった。控えめに背にあてられた感触に振り返ると、一人の男子生徒が包装紙に包まれた何かを差し出している。白い包装紙に透ける色を見るに、ピザまんだろうか。


「おごりだよ。色々と迷惑かけたな」


「それにしては安物だねぇ」


「天使様に借りた恩を全部返してたら、命でも足りないからな」


 少女は冗談を鼻で笑うと、包装紙に貼られたテープを剥がして、食べやすいように紙を折り返した。少女たちの前で、迎えの相手を乗せた車がゆっくりと出発していった。


「それにしても、あんたはこれで良かったのか?」


「未練が残るのは、何かに失敗した時だけだよ」


「成功が別れだとしてもか?」


「一番良い選択肢が、必ずしも全員が傷つかないものとは限らない。私は、碧が一番幸せになれるように背を押しただけだよ」


「背を突き落とした、の間違いじゃないのか?」


「…………それでも、碧には受け止めて支えてくれる人たちがいる。そんなことは、目高(めだか)くんが一番分かっているでしょうに」


 少女はピザまんの最後の一口を終えると、包装紙をくしゃくしゃに丸めて両手の平の間で転がした。


「目高君はさぁ、なんで、自分で碧を説得しようとしなかったの?君は、碧が私をどう思ってるかなんて、一番よく知っていたんじゃないの?」


「……俺には、あいつを止める資格はない。気持ちが痛いほどよく分かるからな。

 ……懐かしいな。藍虎とそんなバカみたいな気持ち悪ぃことを語り合って、時間が溶けるみたいに過ぎてったんだよ。でも、だからこそ、藍虎にはきちんと前を向いてほしいんだ。俺だけじゃなく、藍虎に力を貸していた奴らはみんなそう思ってる」


「身勝手だね。持ち上げたのは、あなたたちなのに」


「ああ、勝手だよ。俺たちはいつも勝手で、そのせいで失敗したり怒られたりしたこともあった。それでも、いつだって、俺たちはあいつのためになりたいと思っている。戦友、だからな」


 少女はまた、彼の言葉を鼻で笑って、ベンチから立ち上がった。歩き去っていこうとする少女を、男子生徒は呼び止める。


「最後に一つだけ聞かせてくれ。あんたは、天使は、藍虎のこと、どう思ってたんだ?」


 ほんの一瞬だけ立ち止まって、少女は振り返る。


「————天使はね、()()()()()()()()()()()()()()


 言い残された冷たい言葉は、微笑みの無い静かな瞳が踵を返すにつれて、ゆっくりと町の雑踏に消えていった。



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